わたしのもの。
「ーーーじゃあ、日渡をちょうだい」
幼い少女が欲したのは、きれいな顔の男だった。
「ーーーおはようございます。お嬢」
「……はふ……おは、よー」
低血圧の陽菜の朝は、いつもこの美声から始まる。ふすま越しに聞こえる声は、かたく、すっとして、上等だ。
まぁ、陽菜は夢うつつ状態だが。
「失礼します」
許可などいらないと言っても、男は頑なにそれを拒んだ。礼節と仁を重んじるところが、祖父にも父にも気に入られている。
真面目で、つまらない男だ。
「お嬢。準備なさらないと、学校に遅刻します」
「ふえぇぇ……眠ぅ」
枕に顔を突っ伏す。染めたことのない黒髪が、さらりと揺れる。
男は、小さく息を吐き、もう一度「お嬢」と呼んだ。
「なぁに?日渡」
からかうような声色で、笑いながら陽菜は返す。そうして、がばりと上半身を起こすと、少しの色気を含んでこう言った。
「ーーーねぇ。手伝って」
神代の名は有名である。本家はだだっ広い平屋の屋敷で、そこには顔のいかつい男どもが出入りしているが、それだけではない。
元々金儲けの資質はあったのか、2代目の起業以来、業績は上々で、政界や財界とも縁は深いと言われている。神代コーポレーションといえば、黒い噂はあれど、大企業のひとつだ。
そして、神代陽菜は、現会長の孫娘である。
後継者は陽菜の兄なので、後継ぎの勉強はせず、小さい頃から屈強な男どもに守られ、のんびりと育てられた、我が儘な箱入り娘。先が楽しみと言われる、15歳と思えない艶やかさは、年々磨きあげられていくようだ。
だが、陽菜の欲しいものは、昔からたったひとつ。
陽菜が5歳のときにねだった、日渡だけ。
「お嬢っ、いってらしゃいやし」
野太い声の見送りは、もはや日常のヒトコマに過ぎない。学校のオジョウサマたちが聞いたら卒倒しそう。なんて考えながら、陽菜は小さく笑った。
「陽菜、気をつけるんだよ。変な野郎はどこにでもいるんだからな」
「はぁい。お兄様」
自らバイクで大学に通っている兄の太一とは、門のところでお別れだ。
「大丈夫よ。だってーーー日渡がいるもの」
ねぇ?と視線をやると、日渡は無言で頭を下げる。
1本筋の通ったかのような姿勢が、多少の威圧と清々とした空気をかもし出す。陽菜はそれを見て、にやにやした笑みを浮かべる。そんな日渡が可愛くてたまらないからだ。
陽菜のことを、陽菜以上に大切に思ってくれる人なんて、そうそういない。まして、それが恋慕っている相手ならば、喜びはいうまでもないだろう。
太一は小さくため息をつき、髪を乱さないよう、そっと陽菜の頭を撫で、バイクで走り去った。
「お兄様は相変わらずね。この前まで遊んでた、裏表の激しい女はどうなったのかしら?」
送迎の車の中で、陽菜は日渡に聞いた。
「……私にはわかりかねます」
「そう」
陽菜は知っているし、わかっている。
太一はモテるけれど、女の趣味は非常に悪い。そうして彼女たちよりも、陽菜を大事にする。自称“彼女”から、陽菜は何度か嫌がらせのような行為を受けることがあった。
でも、どれも遊びみたいなもの。
陽菜に傷を負わせることは出来ないし、出来たとしても、太一はその女を許さない。
「ーーーほぉんとシスコンよねぇ」
「若はお嬢が大切なだけです」
「つまんないわねぇ」
「そういえば、日渡の女はどうなったの?ええっと、お祖父様行きつけのクラブの女?」
「……いえ、私は」
ためらい。戸惑い。若干の焦燥。
日渡の機微が、陽菜にはたまらなく愛しい。
ーーーあの、若い奴らにはロボットのようだと評される日渡が動揺するのは、陽菜にだけ。
「お嬢。私は、」
「“アソビ”なら許すわ。でも本気なら許さない。ーーーわかってるでしょう?」
「……はい」
あぁ、口元がゆるむのを止められない。
日渡は私のもの。
10年前から、そうしてこれからもずっと。
「ねぇ、日渡」
「はい」
「あと1年よ。1年でーーー私は日渡のものになれる」
「ーーーっ」
ハンドルを持つ、日渡の指に力が入るのを、陽菜は見た。
その角を曲がれば、正門へと着く。日渡はその後、1度家に戻るので、しばしの別れとなる。
ーーー可愛い人。可愛すぎるくらいだわ。
10年前、陽菜は祖父に日渡をくれとねだった。役職にもついていない、大学を卒業して3年も経っていない若造。目をかけられてはいたが、それだけの男。
それでも、陽菜は日渡を望んだ。
祖父は苦笑し、まぁ世話役なら、と許したが、陽菜は納得しなかった。
ーーーそうじゃないわ。日渡はえいえんにひなのものになるの。
ーーー世話役では不服かい?陽菜。
ーーー日渡はひなのもの。ひなは日渡のものになるの。
ーーーおやおや。結婚でもするのかい?
ーーー16さいになったら、おじいさま、ゆるしてくださる?
ーーーんんん。それは淋しいね。
ーーーゆるしてくださらないなら、ひなは日渡とかけおちするわ。
ーーーかけおち?
ーーーうん。ほんきよ。
ーーー………うーん。
ーーーおじいさま、日渡以外はいらないわ。ひなは、
日渡がいれば、それでいい。
幼い子供の言葉。それでも、引かない陽菜の言葉に、最後には、祖父はそれを許した。
1度された約束を、祖父が違えることはないだろう。
ーーー日渡。
ーーーはい。お嬢。
ーーーあと、じゅういちねん、まっていて。そうしたら、ひなは日渡のものになるから。
ーーーはっ。
ーーーそれまでは……日渡はひなのものよ。
ーーー……はい。
狂気じみていたのはどちらだったのか。
わずか5歳と、20離れた男の縁。
10年経った今も、変わらずに結ばれている。
「あぁ、学校なんて面倒くさい。今日の体育、ハードルじゃない。私、あれ嫌い」
「お嬢。そう言わずに」
「じゃあーーー帰ったらラヴィアンのミルクレープよ。買っておくよう、連絡しておいて」
「ーーーはい」
正門横で停車し、車のドアが開けられる。陽菜と日渡の接触は、手に触れるだけ。着替えの手伝いも、うまく触れずに胸元のリボンを結ばれてしまう。
「ーーーねぇ、日渡」
車から足を出す一瞬前。日渡の指に、陽菜の指を絡めて視線を合わす。
「はい」
「ーーー愛してるわ」
初めて日渡を見たとき、陽菜はこの男が欲しいと思った。わずか5歳の、しかし強烈な独占欲は年々増していく。終わりが見えなくて、陽菜はたまに自分が怖くなる。
「ーーーはい。私も、愛してます」
その言葉が、陽菜をどれだけ安心させているか。35歳になってもなお美しさの衰えないーーーむしろ精悍さを増して人を魅了し続けるーーー日渡は気づいていないだろう。
そんな無頓着さも可愛らしくて、あぁ、自分は末期だ、と諦めたように笑い、陽菜は正門をくぐった。
こんな15歳は嫌だなぁ……。