1st dream 出会いという始まり
本編開始。
夜道を急いでいる少年がいた。何かに追われているかのように、必死で走っていた。
宙に浮かぶ黒い影に、気付きもしないで。
少年はただ、走っている。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「塾で居眠りするなんて、最悪だ」
俺―浅木透―は嘆息しながら、夜道を急いでいた。すでに日付は変わっている。
塾で居眠りしたために残されてしまったのだ。それは自分の落ち度だから仕方ない。
だが。
「いくらなんでも、一時間の説教はないじゃないか」
居眠りした授業の補習も受けなければならなかったのに。
説教のせいで補習には遅れるし、居眠りした上に補習に遅刻するとは何事だと、課題もどっさりと出された。
「補習に遅れたのは、俺のせいじゃないのに…」
あんまりだ。たかだか十五分の居眠りにあの課題では、割に合わない。
ぼやきながら、俺は走りつづけている。
早く帰らなくては。
そう思いながらも、俺はふと立ち止まる。深い意味もなく、夜空を仰いだ。
なぜあのとき、ふと立ち止まって夜空を仰ぐ気になったのかは、今でもよく判らない。確かなのは、俺が立ち止まって夜空を仰いでしまったということ。このとき夜空を見上げなければ、未来は変わったものになっていたかもしれない。
月が、とても美しく輝いていた。
「綺麗な月夜だ…」
本来ならそこで感じ入るのだろう。だが、俺は感じ入るよりも悪寒がした。とても美しい見事な月夜なのに、なぜか禍々しい美しさだと感じたのだ。
あるいは、それは予感のようなものだったかもしれないけれど。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ほう。おもしろいぞ、あの子ども」
宙に浮かんだ黒い影が、愉しげにつぶやいた。彼の者の名はリゼル=サトゥルヌス。人間とは異なる種族、悪魔族の青年だ。
リゼルは月の通い路を通って来たばかりだった。
「ヒトにはわからぬはずなのに…」
常と異なる、美しい月夜を見分けていた。
禍つ月夜の、わずかな差異を。
かつての憎き聖職者の血に連なる者、それも退魔の才に長けた者のみが気付くようにしてあったのだ。
それなのにあの子どもは気付いた。だが、こちらの存在に気付いていない以上、退魔の才に恵まれているとも思えない。
「隠術が甘かったか…?」
リゼルは少年を見つめる。
そこに皇の面影を見出し、容貌が重なった。アカツキの血を引いているらしい。
あふれる障気を抑えようともせず、リゼルは観察を続ける。だが、それでも少年は気付かない。
『潜在的な才能はあるようだが、退魔の才に目覚めてはいない』
どこからか囁きが聞こえる。
だがリゼルは何故か、不審を抱かない。
『堕としてしまえ。
永劫に光の存在しない、牢獄へ。
アカツキの流れを汲む者を。
裏切りの代価を得るがいい』
囁きは続ける。抗いがたい声音で。
どう考えても、リゼルの思考では有り得ないのに。
だが、リゼルは気付かない。
異世界において、彼の存在は不安定であるが故に。
リゼルは酷薄な笑みを浮かべ、我知れずつぶやく。
「裏切りの代価を…」
滅びろ。アカツキの流れを汲む者よ…っ。
「あはははははは!」
狂気の混ざった哄笑が、夜空に響き渡る。
青年は気付かない。
己が囁きに操られていることを。
美しい月は、青年の上で静かにたたずんでいた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
『アカツキ…っ。俺はお前を許さない…っ』
深い絶望と怒り、深い深い悲しみ。
泣いているわけではない。だが俺には彼がいているように思えた。
『君ハ誰…?』
相手には聞こえない。だが、答えは必要なかった。
心のどこかで答えを知っていたから。
彼の者の名は…。
「浅木!浅木透!起きないか!」
教師の怒号と共に、頭に衝撃が走った。俺は思わず立ちあがると、慌てて辺りを見まわした。頭の衝撃と驚愕で、状況が把握できなかった。
目の前には数学教師が立っていて、辺りはクラスメイトたちの笑い声であふれている。目を白黒させていると、数学教師は呆れたように言ってくる。
「浅木。確かにお前は成績優秀だがな…。ここ一週間、ほぼ毎日居眠りはないだろ」
「う…。すみません…」
状況を把握した俺は真っ赤になりながら謝る。
また夢を見ていた。しかもここ連日の居眠りの原因と言える、夢。かろうじてわかるのは、アカツキという人物である。亡くなった母方の祖父がそんな名前だった。だが、もう一人の方は。この世の者とは思えないほどの美貌を持っていた青年。彼は知らない。わからない。
いや、知っている?わからない。知らない。
俺は?では誰が知っているんだ?
「…木。浅木!」
はっとして顔を上げる。そこには完全に呆れかえった数学教師。
「また寝てたのか、お前は?立ったまま寝るとは器用な奴だな」
クラス中が笑いであふれた。そこへちょうどチャイムが鳴り響く。
「お、もう終わりか。仕方ない。浅木、お前は昼休みに職員室まで来るように」
数学教師はそう言うと教卓のところへ戻って告げた。
「終わるぞ。号令」
クラス委員が号令をかけ、授業が終わる。教師が出て行くと、教室が一気に騒がしくなった。
俺の周りに、数人の友人が集まってくる。
「おいおい、何やってんだぁ?透」
「また例の夢でも見てたのか?」
「例の夢?なんだ、それ?」
「このところ毎晩見るらしいぞ?透の祖父と変な男が出てくる夢」
「へえ?けど爺と男の夢なんて嫌な夢だな。初耳ィ」
「別に話さなきゃなんないモンじゃない。いいから、散れ。思い出して楽しい出来事でもねえ」
てんで勝手なことを話している友人たちに向かって、俺は腹立ちまぎれに言った。だが不機嫌度一二〇パーセントの俺を、友人たちは一向に気にする様子もない。
「まあそう言うなって」
「俺たちは楽しかったぞ」
きっぱりと言い放たれた。脱力する。
最悪としか言いようがない。あの夢のせいで、寝たはずなのに寝た気がしないのだ。おかげで授業中に居眠りは当たり前だし、担当教師陣には目の敵にされてきている。
「ったく、最悪だぜ。何とかしねえと、でヤバいな」
誰ともなくつぶやく。するとそのつぶやきを聞きつけたらしく、友人の一人が言ってきた。
「気にするな。俺はいつも寝てるからな」
ちなみに仲間内で最も成績が悪い奴のセリフだ。
「お前に慰められても嬉しくねぇよ!」
そのままぎゃあぎゃあやりだす。もちろん本気ではない。こういった騒ぎは日常茶飯事なので、誰一人として気付かない。
夢の一部は実際にあった出来事だと。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
あたりは靄で覆われていた。いつもの夢だと、直感で悟る。だが、何かが違う。夢だと理解しているはずなのに、何故か現実感がある。
今までは映画のワンシーンでも見ているようだったが、今回は当事者としてその場にいる感覚なのだ。
わけもわからず、俺はその場に立ち尽くしていた。
誰かが近づいてくる気配がある。だが、方角はわからない。
唐突に背後に気配が現れる。とっさに俺は振り向いた。
そこにいたのは、夢に出てきた青年。
頭が真っ白になり、思考が停止する。
『彼の者の名は…』
頭に声が響く。聞いたことのある声だが、誰だかはわからない。
『透。わしの秘密を教えてやろう。これは透を助けてくれる』
だから、名を呼べ。その瞳を曇らせぬように、心に秘めておくといい。彼の者は契約のもと、透に生涯仕えるだろう。
『いいか、透。彼の者の名は』
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「リゼル=ベリウェール=サトゥルヌス」
知らず知らずの内に、少年の口から言葉がこぼれている。
それは、名前。真名と呼ばれる、その名の持ち主の総てを支配する言葉。
その名がつむぎだされた瞬間。
それは、リゼルの存在がこの世界において確立された瞬間であった。
リゼルの目が驚愕に見開かれ、嫌悪に歪められる。
だがその表情とは異なり、彼は膝をつく。剣呑な雰囲気をまとったまま、朗々とした声が告げる。
「契約は結ばれた、我が主よ」
少年はそれに呆然と見入っている。
どこからか囁きが聞こえた気がした。
『存在が確立した…?仕損じたか…』
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
俺は眼前の青年―リゼルという名前らしい―の態度を見て思い出した。あれは祖父の声だ。祖父は退魔師で、いわゆる聖人の一人として数えられていた。
もっとも、聖人と呼ばれながらも完全に独立し、術にも様々なものが組み込まれていたのだが。
いつだったか、祖父が言っていたのだ。俺には退魔の才があると。
俺は幼くて、その時は意味がわからなかった。聞いたけれども、時が来ればわかると、教えてくれなかった。
代わりに教えてくれたのは、祖父が契約した守護者の存在と、名前。そして、名前は一番短い呪であり、縛りだということだった。
今の今まで、忘れていたけれど。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
リゼルは予想外の事態に苛立っていた。契約者のアカツキが死んでいる今、彼が仕えなければならない相手はいない。己の望むままに動き回れるハズ、だった。だが。
まさか真名を掌握されているとは思わなかった。
『名前は一番短い呪』
そういったのはアカツキだ。かつては己の朋友であった、稀代の退魔師。
今までベリウェールという真名を掌握できた者は、アカツキ以外にいなかった。それだけの力量を持った者は存在しなかったから。
リゼルの真名は、それだけの力を秘めている。
だが、この子どもは。
今、目の前にいる子どもは。
いとも容易く、リゼルの真名を掌握してしまった。
この子どもは、かつてのアカツキに匹敵するか、あるいは。
あるいはそれ以上の器だと、そう言うことであるのか。
『アカツキの後継』
そんな言葉が、ふっと浮かぶ。アカツキが、いつか語っていた。
目の前の少年を、己の後継だと。
だが、それでも契約は不本意だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
少年は呆然と立ち尽くし、青年は黙然と頭を垂れている。
少年と青年と、二人の時間が止まったようだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
しばらく沈黙が続き、先に口を開いたのは俺だった。
「主…って、俺のこと?」
我ながら間の抜けた質問といわざるを得ない。リゼルは頭を垂れたまま、肯定する。
「いかにも。主は先ほど我が名を言の葉に乗せた。すなわち我が名は掌握され、主と契約が成立したということ。契約は主が死したときのみ、解消される。これより後、我は主と共に在り、我の総てで主に仕える」
俺はコメントに困り、頭を掻きながら口ごもる。
「ええっと…」
現状理解についていけず、思考はいたずらに空転する。
これは夢だよな?俺の見ている夢だよな?
確かに俺はリゼル=ベリウェール=サトゥルヌスとか言った気がしないでもないが、契約って双方合意の上で成立するものじゃないか?
しかも主?総てで俺に仕える?明らかに年上でアカツキを本気で恨んでるっぽいのに、そのアカツキの孫の俺に?
つか、男に仕えられても嬉しくねぇよ。大体なんで祖父に仕えてた時と同じくらいの年齢?普通は年取るだろ?
・・・・・・。
わけがわからないので、取り敢えず仕える云々は置いておこう。
相手がどんな存在かも気になるわけだし。
「リゼルだっけ?そもそもあんたっていったい何?」
単刀直入に聞く。
年が変わらないのは夢の中であるせいかもしれないが、どうにも人とは思えない。と言うよりも人だったら嫌だ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「そもそもあんたっていったい何?」
眼前の少年の問いに、リゼルは肩を震わせる。
屈辱であった。己がどのような存在かも知らぬ主に、己の真名を掌握されてしまったことが。魔王たる己の存在を、あっさりと掌握されてしまったことが、たまらなく屈辱であったのだ。
「我は…」
だが、契約が成立した以上、主の命に逆らうことはできない。拒絶したいのを全力で抑え、答えようとしたとき、少年が言った。
「答える前に、頭を上げて立ってくれ。」
主の前で頭を上げる、あるいは立つと言うことは、本来なら許されることではない。
だが、主がそう望むなら従わざるを得なかった。
リゼルは立ちあがり、正面から少年の目を見る。
少年の肩が、びくりと震えたようだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
リゼルが立ちあがり、真っ向から見られたとき、俺は戦慄を覚えた。
なんだ、こいつの瞳は。
まるで荒れ狂う奔流が、混沌と共に存在しているかのような。
リゼルの顔にふっと笑みが浮かぶ。少しの温かみも無い笑み。頬がこわばるのがわかった。リゼルが口を開く。この上なく冷え冷えとしており、ロシアの永久凍土のほうが暖かいのでは、と思えるほどの声音だった。
「主よ、我が恐ろしいか?」
リゼルの嗤いを含んだ問いに、俺は意地で首を振った。だが、リゼルは取り合わない。
「主よ、それは恥じることではない。ヒトとは得てしてそういうもの。ヒトは、ヒトと異なる存在を、嫌悪する」
だが、俺は黙っている。言葉を発するのが恐ろしかったのだ。
「主よ、そう怯えることはない。我は契約に従い、主に仕えることになるのだ。害を成すことなど、できはせぬ」
淡々と告げる。だが、その淡々とした口調がいっそう恐怖に拍車をかけた。それでも意地で、口を開く。
「お前は、何だ」
「我はサタン。七大魔王が一人で悪魔族の頂点に立つ者。最も高き場所に座する者」
その答えに、俺の思考は完全に停止する。
「ま…おう…?」
脳が、理解を、拒絶した。
だが、確かにすべての歯車が回りだした瞬間であった。
かくして俺の平穏な人生はここで幕を下ろし、以後は波瀾万丈の人生を送ることを余儀なくされる。
この時点では、俺は気付いていなかった。
それが幸か不幸かは、わからないけれど。
わりと急展開&ご都合主義が続きます。