episode.A 死亡
「雛じゃなくてもよかったじゃない」
そう言った瑞希の瞳には今にも溢れ出しそうな涙があった。
あの事件から二年が経ったというのにまだ、この季節になると思い出してしまうのは、我が子を本当に愛していたからだと言えば聞こえはいいが、本当はもう前を向いて二人で歩かなければいけないのだろう。
四月が走り抜けていって五月が見え始めたところで燕が家に巣を作り、その燕の可愛らしさを瑞希と二人で見て楽しんでいたのだが、その燕の巣には生まれたての雛鳥がいた訳だ。
名前から連想してしまったのは賢いこととは言えない。だが、決して意図的にではなかったのだろう。突然の涙がそれを物語っていた。
どんよりとした空気に堪えかねたのか、涙を見せたくなかったのか、瑞希は自分の部屋へ戻っていった。
何一つ物音がしないのが気になって、そっと瑞希の部屋を覗くと、瑞希は雛が写った葉書サイズの写真を胸に当てていた。
まだ泣いているようにも見えたが、扉の開き具合と光の加減もあってよく分からなかった。
その写真のことを思い出すと僕も目頭が熱くなってくるのを感じる。
あぁ本当になんで……雛じゃなきゃいけなかったんだろう。
あの写真が送られてきた時も今もそんなことが頭から離れない。あの時僕が、犯人を捕まえられていれば……その後悔も頭から消えてはいかない。
目が覚めたのは指定された時間より五時間早かった。
朝の眠気に弱い僕は、どんなに大事な用事がある時もすんなり目が覚めることはなく、横になった身体を起こしてもベッドから身体が離れても、だいたい目は半開きになっている。
しかし今回ばかりは充電を終えたロボットのようにパチッと目が開いた。それだけこの事件は度を越えていたのだ。
隣で寝ている瑞希を起こさないようにそっとベッドを離れる。いつもと変わらない部屋の様子に昨日の誘拐が全て夢のように感じた。
寝室を出たらそこに雛がいるのではないか。階段を下りていったら梨花ちゃんと一緒に遊んでいるのではないか。しかしそんな妄想が現実になるはずはなかった。
階段を下ると雛や梨花ちゃんの姿はなく、しっかり着替えまで終えた山口さんが布団を畳んでいた。
「おはよう」と先に声をかけてきたのは山口さんの方で、僕は慌てて同じ言葉を返した。
階段を下りきったところで部屋の扉の開く音と閉じる音の両方が聞こえた。
「おはようございます」
僕と同じでパジャマ姿のまま下りてきた瑞希は、少し恥ずかしそうに頭を下げた。
着替えを済ませてもう一度リビングに三人集まった時の時刻は十時三十分で、瑞希が「後、四時間半ね」と震える声で言っていたのをよく覚えている。
瑞希の言葉に誰も反応しないままこのまままた静寂が続くのかと思っていると、瑞希は台所へ向かった。
その行動を目で追っていた僕と山口さんに瑞希は「お腹空いたでしょ?」と作り笑いを見せるとおにぎりを握ってくれた。
温かいうちに食べてねと皆に配られたおにぎりだったが、お腹の減り具合と関係なく僕がそれに手を付けることはなかった。
指定された時刻まで三時間ほどになると僕は銀行へと向かった。
雛が誘拐された場所であり、今回の身代金の受け渡し場所でもあったあの公園を超えて二つ目の曲がり角を曲がってまっすぐ進むと、口座を持っている銀行があり、そこへ向かったのだ。
誘拐ほどの事件を起こしておきながら三百万という少額の身代金だったことには、その時から疑問を感じていた。現に、あまり無駄使いしない僕の口座にはそれより多くの金があったし、子供のためにと掻き集めれば一千万ほどだってどうにかしただろう。
疑問について深く考える前に銀行に着くと、銀行員から金を受け取ってそのままの足で公園へ向かった。
公園に着くと瑞希の話を頭の中で再生しようとした。が、瑞希が話をしていた時には、警察に電話しなくていいのかとずっと考えていたので、その話のほとんどは、勝手に流れていくラジオを聞いている感覚で聞いていた。
要するに、よく覚えていなかったのだ。
今さら必死になって思い出そうとしたが、目が覚めてしまった後に夢を思い出そうとしているかのように、断片的なものしか頭に出てきてはくれず、やっとのことで思い出したのは、雛が砂場で遊んでいたということだった。
銀行から戻るようにして公園まで来た僕の丁度真向かいに、砂場と公園へのもう一つの出入り口があり、僕はとりあえず、三百万の入ったバックと一緒に砂場へと歩いた。
砂場に着くと公園の状況を頭の中で整理する。
砂場では小学生であろう男の子二人が、山だか城だか分からない物体を懸命に作っていた。トンネルを掘って水を入れようという話をしていたから、たぶんどちらでもなかったのだろう。
ブランコと滑り台には幼児とその幼児の母親がいた。遠くからでも、楽しそうに遊んでいるのが分かった。
他に遊んでいる子はいなかった。広い公園でサッカーが出来るのはここぐらいのものだから、いつもは小学生や中学生なんかもここでボールを蹴っているのだが、この日はそういった子供たちがいた痕跡さえなかった。
砂場から一番近い、公園への出入り口に視線を移すと、犯人が雛と現金を交換するのは砂場に近い出入り口だろうと当たりを付けた。
車を出入り口のすぐ側に停めておけば、まず現金を持ったまま逃げ切れるし、何より犯人は雛を誘拐した時にそのやり方で一度成功しているからだ。
よく見ると公園の外の車道に見知った車を見つけた。その、白い色をした七人乗りのワゴン車は、瑞希と付き合い始めて数ヶ月してから、一緒に海に行く約束をした時に買ったワゴン車だった。そういえば、七人乗りにしなくてももっと小さい車でいいんじゃないかと反対する僕を、子供がたくさん出来たらどうするのと瑞希が押し切って買ったのだ。
そのワゴン車が何故ここにあるのかと目を細くして中を見ると、運転席には山口さんがいて、その助手席には瑞希がいた。ビックリして車に近づくと、車の扉が開いて中から瑞希が出てきた。
瑞希は僕の手を引っ張って車の裏側まで行くと、しきりに首を動かし周りを気にしてから、大きな車で身を隠すようにしてしゃがんだ。同じようにして僕もしゃがむと、手で口を隠しながら瑞希は話を始めた。
「犯人がもし、雛を返さないまま車で逃走してもすぐに追えるように車でここまで来たの。もし私たちが車を用意しているのがバレたら、犯人は違う方法で雛を連れたまま逃げるかもしれないでしょ? だから犯人にバレないようにここには近づかないで。お金も犯人もどうでもいい。いや、どうでもよくないけど……あれ、うん。だから……」
「分かった分かった。落ち着け」
「うん。犯人とかより、雛が取り返せないのが絶対に嫌なの」
正直、この時瑞希に言われて初めて、現金を渡しても雛が返ってこない可能性に気が回った。それまで、心のどこかに余裕があった。金さえ渡せば雛は返ってくるのだという余裕が。でも、そんな確証はどこにもなかったのだ。
ゾクッと背中を何かが這いずるような感覚に襲われた。嫌な予感、虫の知らせ、というやつだったのかもしれない。
「大丈夫?」と下に向けた顔を覗き込む瑞希に、頷くことで答えを返すと、また周りを気にしてから公園の中へと戻った。
電話が来たのは二時五十分だった。携帯の液晶に登録していない番号がでかでかと映し出され、緊張が走ったと同時に黒い色の普通車が公園の横に停車した。
吸い寄せられるように車に近づくと窓から中を覗いた。
雛の姿がない。
そう思った瞬間、鈍い音がして頭に強い衝撃と激しい痛みを感じた。勢い良く頭が上、下、上の順番で上下に揺れると、そのままの勢いで身体は地面に横になった。そして、目の前は真っ暗に変わった。
目が覚めた時、僕は病院のベッドに寝ていた。が、その理由を思い出せたのはもう少し後のことだった。
硬いベッドの中心で仰向けになって寝ていた僕の視線に一番に飛び込んできたのは、真っ白な天井とそこに取り付けられた昼白色の光だった。
すぐに体を起こして辺りを見回すと、ベッドの横に、小学校の体育館で使うようなパイプ椅子を置いて座っていた瑞希が、握っていた手をそのままに「良かったあ」と呟いた。
状況が整理できていない僕の動揺に気付きもせず、瑞希は瞳から出てくる一掬の涙をしきりに拭いていた。
最初はその涙は単に、僕が目を覚ましたことが深く心を揺さぶったのだろうと思った。確かにそれもあったかもしれない。だが、上にぐんぐん伸びていっては最後に爆音と火花を飛ばして夜空に広がる打ち上げ花火のように、瑞希と結ばれた右手の甲に何度となく落ちる涙と荒れた息遣いが、その涙を悲しいものに思わせた。
涙を枯らした瑞希は次第に息を整えて、何も言わず一枚の写真を僕に渡す。写真を受け取るとすぐに写っている内容を確認した。
音を立てないように、そっと扉を閉めると階下へ下りる。テレビを点けると、丸い眼鏡を付けた太めの男性が、最近の日本の政治についての話をしている番組がやっていた。
しかし、あまりこういった番組は好きではない。よく分かっていない人たちが集まって適当なことを言っているだけに思えるからだ。
もう少しマシな番組をとザッピングしてみるが、特に面白い番組はやっておらず、仕方なくそのまま電源を切った。
ソファに寝そべると、いよいよやることはなくなってくる。何度か返りを打ちながら暇を持て余していると、階段を下りてきた瑞希に話しかけられた。
「かっちゃん。暇なら一緒に買い物行こうよ」
いつもの買い物用のバックに財布を入れている瑞希を見ながら、「うーん」と曖昧な返事をすると、手を掴まれてそのまま一緒に外に連れていかれた。
蜜柑色の光が遠くに見える時間になると、まだ少し寒さを感じる。
上着を一枚羽織って家を出た瑞希とは対照的に、引っ張り出された僕は半袖のシャツ一枚のみだったから、春からしたら自分のせいではないという話なのだが。
そうこうしていると、多くの店が立ち並ぶ商店街の入口に来ていた。
ここの商店街の人たちは皆、顔見知りでいい人たちばかりだ。魚屋のおばさんが大きな病気を患った時には、皆で募金活動をしたり、八百屋の長男が家出した時には、皆で捜し回ったりもした。
瑞希と八百屋のおばさんとの話が始まると、僕はいつものように商店街をブラブラと歩いて回り始めた。
女性は話をするのが好きだというが、疲れたりはしないのだろうか。特に瑞希は、八百屋のおばさんとは二時間は余裕で話しているが、一緒に来ているこっちの身にもなってほしいものだ。
肉屋に立ち寄って高い肉によだれを垂らしていると、亭主が話しかけてくる。
「最近、娘さん見ないけど元気?」
悪気なくかけられた言葉が胸に刺さる。雛が死んでしまったことは結局、山口さん以外誰にも話してはいなかった。わざわざ誰かに話したりはしたくなかったし、誰も、雛を見ないことに触れてこなかったからだ。
ショーウインドウに顔を向けたまま、何か返さなくちゃと口を開いたところで、亭主が話を続けた。
「最後に見たのは二週間前ぐらいだよ」
「えっ」と思わず口に出して驚いて、亭主の顔を見上げる。
「どこで、どこで見たんですか」
立ち上がって詰め寄ると、僕の異様な雰囲気に飲まれたのか、亭主は蚊の鳴くような声で答えた。
「なんか……おばさんと歩いていたよ。最初
は誘拐かなとも思ったんだけど、知り合いのおばさんと仲良く歩いているだけに見えたから……何も言わなかったんだ」
話を聞く態度が余程怖かったのか、亭主は話の最後に言い訳を足していた。
僕は見ていた肉のことなどすっかり忘れて、亭主に素早くお辞儀を済ませると、瑞希のいる八百屋へと走った。
商店街はそれほど大きくない。端から端まで店を見て回っても十五分かかるかかからないかだ。それでも八百屋と肉屋の方向は真逆にあり、走っていたとしても瑞希に会うには三分は必要なはずだ。しかし、そんなことを頭で計算しながら走っていると、一分も経っていないのに瑞希と出会った。
「あれ?」という顔を見せる瑞希にこちらも驚く。減速して瑞希の目の前で止まると、肉屋での話をするより先に、八百屋と肉屋の真ん中辺りにあるこの魚屋の前に何故いるのかと質問した。
「聞いてよかっちゃん。八百屋さんの前でこの写真落としちゃったの。そしたら香さんが、この写真は合成写真だって言うのよ」
質問をしたのはこっちなのに、「聞いてよ」から始まったことに気を取られながらも、仰天は鮮明に伝わった。
瑞希が手に持っていたものは、あの日夜になって病院で僕が目を覚ました時より、数時間ほど前にポストに入れられていたという例の写真。
初めて見た時、涙が止まらなくなった、冷たい死体となった雛が写っている悲しいあの写真だった。
「合成?」
そのままの言葉が口から出る。ポカンと、鳩が豆鉄砲を食らった後にさらに水風船も食らわされたような顔をしていると、瑞希がその、口が開いたままの顔を笑った。
「僕も肉屋のおじさんから情報をもらったよ。二週間前に、雛と雛の知り合いであろうおばさんが、一緒に歩いているところを見たってさ」
今度は瑞希が、目を点にして口をあんぐり開く。
間髪入れずに、その二つから考えられる結論を言おうとすると、瑞希も一緒にそれを言葉にした。
「「つまり、雛は生きていて、犯人は知り合いの誰か!」」
口を閉じて瑞希と見つめ合う。お互い真剣な顔で、照れとおふざけはそこになかった。
はっきりと言葉にすると、喜びの涙が落ちると共に恐怖の鳥肌が全身を襲った。
一旦落ち着いてから最初から今日買う予定に入っていなかった魚屋を離れて、僕が元いた肉屋に着くと、百グラム八十円の豚肉を瑞希は指差した。
「これにするわ」
「はい毎度。いつもの量ね」
いつもの量というのがどれぐらいなのか、瑞希の買い物中のおしゃべりが苦手でいつも側にいない僕には分からなかった。
亭主はまださっきのことを気にしているようで、肉を取りながらチラチラとこっちを見てきた。が、僕は別段気にすることはなくその間に、肉に夢中な瑞希の鞄の中を覗いてじゃがいもと人参とカレーのルーを見つけると、昨日残していた玉ねぎも入れて今日はカレーを作るんだなと予想を立てていた。
「さて、帰ろうかしら」
瑞希が、企みを持った笑顔で三秒ごとに僕を見てくる。
「はいはい。持ちますとも」
可愛いと言って買った花柄のエコバックも、荷物が入ると僕の肩に掛けられるのだった。
家に帰ると瑞希は、早速カレーの準備を始めた。やっぱりカレーだったのだ。
その光景を横目で見ながら、テレビを点けてソファに座り込んだ僕の耳には、トントントンと歯切れのいいまな板のリズムが聞こえてきた。
五時になると、テレビの音とまな板のリズム以外に学校のチャイムも鳴り響いた。良い子が家へ帰り出すとカラスも、「カー」と声を上げた。
日常のありふれた音に耳を傾けていると、ピンポーンとまた新たな音がした。
しかし今までとは違い、それは確かに僕だけを呼ぶ家のチャイムの音だったから、仕方なくソファから離れてインターホンを覗いた。
玄関の扉の前に、顎に髭を生やしたワイルドな顔の男が立っている。山口さんだ。
そういえば、事件の手掛かりを掴んだからと二年ぶりに瑞希が電話をしたのだった。
鍵を開けて中へ入ってもらうと、丁度カレーは煮込みの時間に入った。沸騰した後カレーの火を弱火にしてから、瑞希はソファに座った。僕はその横に座った。
「それで? 重大な手掛かりって!」
光景を見ていた山口さんが、瑞希の着席後すぐに本題に入った。
二年前にはなかった顎髭が顔を険しく見せるせいか、シリアスな空気が形作られていく。
「実は僕たちの娘の雛が、生きていることが分かったんです」
「はっ? だってあの写真が……」
「山口さんの言いたいことは分かってるわ」
訳が分からないといった顔をしている山口さんに、瑞希は写真を見せる。
「それ、合成写真だったらしいんです」
「馬鹿な……これが合成なはずが……」
僕は首を横に振った。
「知り合いにこういうのが詳しい人がいます。その人が言ってたんです。ほら、首のところが微妙におかしい」
八百屋の奥さんは、結婚する前までパソコンを使ってゲームを作っていたらしく、機械には滅法強かった。だから、他の誰でもないあの人が言うなら、この写真は偽物だ。
「分かった。現代なら出来なくないからな、信じるよ」
山口さんの口元が少しだけ緩んだ。
「それだけじゃないんです。僕の知人が、雛と誘拐犯が一緒に歩いているところを見たと言っていました」
「一緒に歩いていた?」
山口さんもやはり、瑞希や僕と同じ顔をして固まった。僕と瑞希は、何だか可笑しくってニヤニヤ笑っていた。が、すぐにその顔は驚きで塗り潰されるのだった。
「そうか! 犯人の目的は金じゃなかったんだ」
「「お金が目的じゃなかった? そんなことが有り得るんですか?」」
衝撃のあまりまたしても、瑞希と言葉が被る。誘拐でお金が目的じゃないなど聞いたことがなかったからだ。
だが、探偵である山口さんが確信を持って言ったという事実が、僕と瑞希の頭から「あり得ない」という否定を小さくしていった。
「つまり犯人は金が欲しかったんじゃなく、子供が欲しかったんだ。明確な理由は分からないが、犯人は雛ちゃんを自分のものにしたいと考えた。だが、ただ誘拐しただけではいずれ捕まってしまうことは目に見えてる。そこで、金を要求することで本当の目的をカモフラージュしようとしたんだ。結果的に一石二鳥と金まで受け取った犯人は、雛ちゃんを殺したように見せかけることで、最初の計画通り子供も手に入れたという訳だ」
山口さんの説明は分かりやすさの塊だったのに、何一つ理解できなかった。
「子供が欲しくて人の子供を誘拐なんてあり得るんですか!」
常人の脳なら考えつくことすらないだろうふざけた理由に、瑞希が今まで見たことないような表情で声を荒らげる。
山口さんは瑞希の方を向くと冷静に小さく頷いた。
「昔聞いたことがある。子供が出来ない夫婦なんかは養子をもらうのが普通だが、色々な理由で養子をもらえない人もいると」
「だからって誘拐した子を自分の子になんてふざけてるだろ!」
今度は僕が感情を抑えきれなくなって、大声で怒鳴った。
「かっちゃんはちょっと黙って! 大声出したって仕方ないでしょ!」
「仕方ないってなんだよ!」
初めて瑞希と睨み合った。それだけ、余裕がなかったのだ。
「とにかく! 誘拐犯ってのは他人の子を勝手に奪う人間のことだ。頭がおかしいのは当たり前なのかもな」
睨み合う二人の間に入った山口さんが、落ち着かせるように二人に言った。
頭を抱えていた両手でそのまま髪をグシャグシャにかき乱す。発散できないイライラが自分の中に積もっていくのが分かった。
ソファから立ち上がり音を立てながら台所へ歩いていくと、カレーがほど良く煮込めていた。
「とりあえず、カレー食べる?」
近づいてきて火を止めた瑞希は、冷静になったようでさっきまでを謝るように優しい目で笑った。もちろん僕も笑って頷いた。
店のカレーのようにご飯とルーを左右に分けて盛る瑞希の盛り方に比べて、真ん中にご飯もルーも一緒に盛ってしまうような僕の盛り方は、見た目はあまりいいとは言えない。そんな理由からか、山口さんは瑞希にカレーをよそってもらっていた。
カレーの時に福神漬けを食べるのは実家では普通のことだったのだが、瑞希の家ではあり得ない組み合わせだったらしく、結婚してからは一度として二つが一緒の食卓に並ぶところを見ていない。だから僕は、少し物足りなさを感じていた。
三人前のカレーが揃ったところで手を合わせる。大きめの銀のスプーンで熱々のルーを多めに掬うと、山口さんは勢い良く口に運んだ。
「アツッ! アツッアツッ」
余程熱かったのか、何度も口を開いて空気を入れていた山口さんを見て僕が吹き出すと、瑞希は笑ってから、わざとらしくカレーを掬ったスプーンに「フー」と息を吹きかけていた。
「それで? 犯人の目星は?」
「三人ほど可能性がある人がいます」
二口目を口にする前に、山口さんが瑞希の目を見て訊ねる。瑞希は敢えて目線を外すように下を向いて答えた。
「一人目は東出夏美……私の高校時代の友人です。最近は会っていないんですが、最後に会った時お金に困っていました。何より、昔から子供が好きで雛のことも可愛がっていたので」
知り合いを疑うことが気持ちのいいことなはずがない。それは、言うまでもなく瑞希の行動が語っていた。
まだほとんど減っていない瑞希のカレーから次第に湯気が消えていく。そのカレーに目線を向けたまま、瑞希は話を続けた。
「二人目は北山優子ちゃんです。結婚している友人なんですが、数年前優子ちゃんは、身体の病気で子供を作ることが出来ないことを私に話してくれました」
「なるほど。俺が言っていた通りの奴がいた訳だ。最後は?」
一瞬だけ、僕の方へ瑞希は顔を向けた。すぐに背けたのに、その今にも泣き出しそうな悲しい表情は、僕の心を騒めかした。
「三人目は西田梨菜さん。雛の親友でよく遊びに来ていた西田梨花ちゃんのお母さんです」
えっ? 瑞希は今、何て言った? 梨菜さん?
「梨菜さんが三人目? 瑞希それ本気で言ってんのかよ」
手から落ちたスプーンがタイルに当たって甲高い音を立てる。が、そんなことは一切気に留めず、瑞希は真剣な顔で僕を見ていた。
名前を聞いて声を荒らげた時、また喧嘩になるかもと思った。でも、瑞希の本気の顔つきにたくさんの想いを感じたから、何も言わず……何も言えずに床に落ちたスプーンを拾った。
「実は梨菜さんは、かっちゃんのことを妬んでいたんです。梨菜さんの夫の功次さんが、同期のかっちゃんより少し立場が下だから。それでかっちゃんへの嫌がらせのために雛を……ということも」
口を閉じた瑞希の泣きそうな顔を見て脱力して、掬ったカレーを今度は皿の上に落とした。
確かに梨菜さんは酒に酔うとよく「私の夫の方がすごいのに」と愚痴を零していた。
そんな……まさか……。
分からなくなっていく頭の中で、それでも梨菜さんじゃありませんようにと、強く願った。
瑞希の話が終わると三人は無言になってしまった。部屋には、銀のスプーンが皿に当たって鳴る嫌な音だけが、時々響いていた。




