episode.A 結婚
仕事から帰ってきて、一番にワイシャツを脱いだ。
「そういえば、西田のところの子が今度二歳になるってんで、誕生日プレゼントよろしくなとかあいつ言うんだよ」
楽しそうに見ていたテレビがCMに入ったところを見計らって、瑞希に笑いかける。
「西田さん? 確かかっちゃんの同僚の人よね?」
「そうそう。五年前に結婚式にも行ったし、ほら、瑞希と初めて会話して告白までしちゃったあのお祭りの日にも会ってるはずだよ」
「あぁ! あの時かっちゃんが、私とお祭り回りたいって言ったら怒ってたノッポの人ね」
「そうそう」
実際最近は横にも伸びてきていて、ノッポというより巨漢という言葉の方が似合うようになってしまったのだが。
「懐かしいわね。あの頃一目惚れした人と今こうして結婚までしたのよね」
「そう思うとすごいな! 後は西田のところみたいに子供がいればいいんだけど……」
瑞希の方を見ると、瑞希はニヤニヤとしながら言った。
「フフッ実はねこの前病院に行ったら、子供が出来てるって言われたの」
「本当?」
「西田さんの子みたいに可愛いか分かんないんだけど」
顔を赤くして照れている瑞希はとても可愛くて、僕は自信を持って返した。
「大丈夫だよ。僕たちの子は西田がお腹を痛めて産んだ子にだって負けはしないよ」
「いやねー西田さんは痛めてないわよ。痛めたのは梨菜さんでしょ」
「あ、そっか」
瑞希が少し呆れた感じも含めて笑った。自信満々だったからこそその笑顔に恥ずかしさを感じた。
でも、結婚して二年あの出会った日から五年の月日が流れても、瑞希のキラキラした笑顔は僕の心をドキドキさせる。
「子供も瑞希みたいに可愛ければいいなぁ」
とそんなことを思いながら脱いだ服を洗濯カゴに投げ込んだ。
時期を考えれば、子供が産まれるのは春まっさかりの四月ぐらいだろうか。
名前は何にしよう。
男か女かでも変わってくるよなぁ。
色々なことが頭の中に浮かんでくる。が、消えてはいかない。しかしその感覚は嫌なものではなくとても楽しいものだった。
「早く瑞希と一緒に赤ちゃんの産声が聞きたい」そう思った瞬間、今まで浮かんでいたものが全て霧になり、今日の仕事で言われたことを思い出した。
三十一にして結婚という幸せ掴んだ僕は、仕事でも快調だった。営業部の期待の星と言われるほど。
だからこそ今日僕は、海外支店の責任者として選ばれたことを聞かされた訳だ。
自分の力を買われ大事な責任者という立場に選ばれたことが、嬉しくないはずがない。実際、瑞希に話すのを楽しみにもしていた。
離ればなれになってしまうとしても、喜んで送り出してくれると思っていたから。
でも、海外に行くのは新年になってすぐの一月上旬とのことで、当然だが四月に産まれる我が子の産声が聞けるはずはない。
頭の中に検索のページを開いて方法を調べるがヒットはゼロ件で、さっきまでの気分から一転してどんよりとしていった。
何か重たいモヤモヤが背中の上にどっしりと乗っかっているようだった。
「どうしたの? 暗い顔して」
瑞希が、顔色の悪さを感じ取って覗き込んでくる。
「ごめん。実は一月に海外に転勤するように言われたんだ」
言おうかどうしようか迷いはしたものの、モヤモヤはどんどん重たくなってきていてとてもその重さに耐えきれそうになかったから、仕方なくモヤモヤを渡してしまうのだった。
瑞希はどんな顔をしているだろう。
怖くて見ることのできないその裏で見たことのない怒った顔を想像する。
「まぁ仕事じゃ仕方ないわよ。私、かっちゃんがいなくても一人で頑張るから」
想像に反して瑞希は怒りもせず笑っていた。
こういう時女の人は「私と仕事のどっちが大事なの」と言うに決まっていると思っていたのだが、瑞希みたいに泣きそうな顔をして笑う人もいるのかと今日初めて知った。
「ごめん」
「何で謝るのよ」
そんな顔されたら謝っちまうだろうよ。
下を向いて唇を噛んだ。
「やっぱり部長に相談してみようかな」
「仕方ないって! それより今日のご飯は腕に縒りを掛けたの。たくさん食べて」
「……そうだね。瑞希の料理は美味しいからたくさん食べちゃうよ」
まだ無理しているのは分かっていた。それでも、無理矢理にでも話題を変えてくれた瑞希の優しさに心打たれて、これ以上この話はしないことにした。
椅子に座るとすぐに瑞希が、ご飯とコーンがたくさん入ったポテトサラダを持ってくる。机に置いてある箸箱の中から箸を取っていると電子レンジの音がして、今度は野菜と肉が黄金比のバランスで盛り付けられたチンジャオロースが運ばれてきた。
「お味噌汁は温まるまでもう少し待っててね」
「うん分かった。温まったら持ってきて、先に食べてるから」
「いただきます」と手を合わせると、まだ湯気が立っている熱々のチンジャオロースにまず箸を付ける。ご飯も一緒に頬張ると口の中でそれが混ざって美味しさが広がる。
「うん! 美味しい」
飲み込むと同時に瑞希に伝えた。
「フフッありがとう」
瑞希は笑いながら、温まった味噌汁を机に置いた。
「瑞希は食べないの?」
机を離れてソファに座る瑞希を目で追う。
「ごめんね。私先に食べちゃったの」
「あぁそう」
会話中に持った味噌汁をそのまま音を立てて飲む。
瑞希は小学生の時に不注意で階段から落ちたことがあるせいで高所恐怖症になってしまったらしく、飛行機などには絶対に乗れないという。
だから一緒に海外に行くということは諦めるしかない。
こんなに美味しい瑞希の料理も海外に行ったら食べられないのかと思うと余計に、口に運んだポテトサラダが美味しく感じた。
飯を食べ終わるとすぐに風呂に入った。
七月も始まったばかりだというのに今年も猛暑が続いていて、家に帰って汗は引いても身体はずっとベトベトのままだった。
自分でも分かるほど僕は汗臭く、瑞希に後で怒られるかなと思いながらも、ボディソープを大量に使って雲のように泡立てたボディタオルで念入りに身体を洗った。
風呂を出てパジャマに着替えるとリビングへ出て行く。
「僕はもう寝るよ」
仕事の疲れもあって今にも閉じてしまいそうな瞳で、リビングで横になっている瑞希を見る。
「待って、私も一緒に寝るわ」
テレビの電源が切れて画面が暗くなる。リモコンを机に置いた瑞希がこちらに近づいてくるのが分かった。
二階の寝室に入ってベッドの上に二人で横になる。
「新年は一緒に迎えられると思うんだけど、その後すぐに海外に行って事業が軌道に乗るまでの約三年間は帰って来られないと思う」
「でも、お休みとかに帰ってくるのよね?」
「うん。出来るだけそうするよ。最近はテレビ電話とかもあるし、瑞希が僕の顔が見られなくて泣いちゃうようなことはないよ」
「かっちゃんの方こそホームシックにならないようにね」
寝返りを打つと丁度瑞希も寝返りを打っていて、笑った瑞希の顔が目の前に来た。
僕はその近さに顔を赤くする。するとまるで鏡に映したように瑞希も顔を赤く染めた。
海外に三年もいたら瑞希の気持ちが変わってしまうかもしれない。少なからずあったそんな不安が、だるまのように赤いその顔を見ていると消えていく気がした。
「本当に大丈夫?」
やっぱり心配で、また確認してしまう。
「大丈夫よ。かっちゃんがプロポーズの時に言ってくれた言葉を、私信じてるもの」
吐息がかかる距離で瑞希が昔のことを言うから、僕はまた赤くなった。
「どんな時、どんなところにいても、助けてくれるんでしょ? 私たち家族を」
「うん。きっと」
布団の中で、瑞希の手を握った。固い決意の証明だった。
「なら、大丈夫よやっぱり。だからこの話は終わり。おやすみ」
「うん。おやすみ」
西田の子供の誕生日会は七月二十日に行うらしい。
そもそも、西田になら分かるが何で西田の子供にまで誕生日のプレゼントをしてやらなくちゃいけないのか。しっくりいかないまま子供のおもちゃ売り場でプレゼントを探す。
西田が子供が産まれた時に自慢してきた梨花ちゃんというその子は、何となく西田より奥さんに似ている美形の子供で、近所の奥様方に大人気だったらしい。
赤ちゃんの顔など皆同じに見える僕からしたら、大人気と言われてもよく分からなかったのだが。
そんな梨花ちゃんが産まれたのがもう二年も前かと思うと月日が経つのは本当に早い。
本人から直接聞いた訳ではないが、第二子が産まれるという話も会社で耳にしたことがある。もし本当なら僕たちの子供と同じ年に産まれるかもしれない。
小学校や中学校が一緒になればいい友達になれるだろう。
少し早すぎる想像をしながら、外国の人形が入った箱を汚れたものを避けるように奥から取り出した。
その人形は青い瞳に金色の長髪をしていて、その金色の髪は横で二つの三つ編みにされている。口は僅かばかりに上を向いていた。顔から下にかけての胴体にはフリルの付いた白いワンピースが着せられていて、靴は水色に近い青色のものが使われていた。
大人になってからこういった人形を見るとどこか不思議な怖さを感じるのだが、プレゼントの相手は二歳の女の子ということと手頃な値段だったということもあって、僕はそれをレジへ運んだ。
西田はその日のパーティーのことをもう二時間も話し続けていた。
誕生日パーティーが終わったのは夜の九時頃だという。
結局僕は七時半に西田の家に行ってプレゼントを渡すとすぐにそこを後にしてしまったし、そもそも梨花ちゃんのパーティーにあまり興味はないので「そうなんだ」というありきたりな感想しか出てこなかったのだが、それでも西田は話を止める気はないようだった。
会社から帰って瑞希に今日あったことを話しているとそのことを思い出したから話してみる。聞いていた瑞希は笑いながら「楽しそうね。来年は私も行っちゃおうかしら」と僕とは違った反応を見せていた。
五月蝿く感じていたセミの声も少しずつ聞こえなくなってきて、夏も終わりかと思っているとすぐに秋がやってきた。
海外での仕事の具体的なプランも決まってきて、頑張らなくちゃと気合を入れる一方で瑞希と冬に一度旅行に行こうという話をしたりもした。勿論、飛行機に乗らずに行けるところに。
十二月に入ると日本での仕事はほとんどまとまっていて、後は引き継ぐだけといった形になっていた。
世間はクリスマスの話題で持ちきりになっている。街に出ればクリスマスソングが延々流れているし、テレビに出ているタレントもクリスマスをどう過ごすかの話ばかりだった。
かという僕の家でも瑞希がどうしてもと言うから、クリスマスツリーを玄関に置いたりもした。
このツリーが門松に変わる頃には僕はもう空を飛んで海の向こうにいるのかと思うと、少し寂しくなって瑞希とクリスマスを子供のように楽しんだ。