episode.A 図書館
鶏ではなく小鳥が鳴く声を聞いて目を覚ましたのは、九時半だった。いつも通りのいい時間だ。携帯の時計を見ながら口を大きく開けると、まだ開ききっていない瞳から涙が零れ落ちた。
カーテンを開くと年中無休元気に燃えている太陽の光が窓から部屋に降り注がれる。
「今日も暑い日になりそうだなぁ」
やれやれだぜ、と両手を肩の辺りまで挙げて顔は拗ねたようにしてみせるが、暑さは何も変わらない。僕が何をしようと夏は夏であることを止めようとはしないようだ。
だいぶ目が慣れてきたところで洗面所に向かう。適当に洗顔を済ませた後、鏡の前で髭と髪型のチェックを念入りに行った。普段ならあまりする行動ではないが、彼女に少しでも良く見られたいそんな思いでの行動だった。
顔の手入れを終わらせて部屋に戻ると今度は、出来るだけ夏らしく爽やかでオシャレな服を捜した。昔、女友達に似合っていると褒められたのがどこかにあったはずだ。唯一自信があるその水色の服をタンスの中を引っ掻き回してやっと見つけた。
全てが終わって腕に付けたそこそこ高かった銀色の時計に目をやる。時刻は十一時三十分を少し回っていた。
そんな馬鹿な、二時間もこんなことをしていたなんて……。
時間が短縮されるという初めての現象に目を丸くしながら、僕はアパートを走って出て行った。
数十分ほど電車に揺られて、着いた駅から更に歩いて十数分で、やっと昨日のファミレスに到着した。途中で曲がる角を間違えて少し疲れ、時間もかかったが、ファミレスを目の前にしてまた彼女に会えると思うと、早くも来て良かったと僕は思い始めていた。
来店を知らせるベルの音を聞きながら店に入る。昨日と変わらず店は冷房がギンギンに効いていて、休日ということで今日は軽めの服装だった僕は少しばかり寒さを覚えた。
「いらっしゃいませぇ」
何となく語尾を伸ばす言い方をする店員が奥の方から小走りでこちらに向かって来る。僕は彼女じゃないことに大いにがっかりしながら、店の混雑具合を確認するように周りを見回した。
休日で十二時も過ぎているしもう少し混んでいるかと思っていたが、店は予想以上に空いていた。といっても昨日とは比べられないほどの混み具合なのは当然で、昨日僕が座っていた二人用の小さい席にも二人組の学生が先に座っていた。
僕はキョロキョロしたまま奥まで覗き込んでみる。しかし、彼女の姿はどこにも見えない。
そうだ、よく考えれば今日は休みということもあるじゃないか。
今更ながら気付いた可能性に一気にテンションが下がっていった。それでもファミレスに来たからには何も頼まない訳にはいかない。幸い腹は減っていたし、案内された昨日と同じ大きさの席に座って僕はまた、ハンバーグとライスとドリンクバーを頼んだ。
昨日より十分遅れて料理が運ばれてきた。
「お待たせしました。ハンバーグとライスのセットでございます」
飲み物を飲みながら携帯の無料ゲームで料理が来るまでの時間を潰していた僕は、その声に驚き画面から顔を上げてすぐに店員の顔を凝視した。
視線の先、彼女がそこにいた。
どこに隠れていたのかは分からないが、とにかく彼女は今日も出勤していたのだ。
嬉しさと驚きと何より彼女の可愛さに心臓は急に鼓動を速めた。
「ご注文の品は以上でお揃いですか?」
「えっ……いや、あなたに何か注文しようなんて滅相もないです」
言葉を全て言い終わってから、彼女の言った注文の意味と自分のした返答のおかしさに気が付いたが、時は既に取り返しがつかないほど遅かった。
「私たちは店員ですので何かありましたらいつでも注文してください」
自分の馬鹿さ加減が恥ずかしくなりながらも僕は彼女の綺麗な笑顔に見とれていた。周りの客たちが僕の言葉のおかしさに気付いてニヤニヤと気持ちの悪い薄ら笑いを浮かべる中で、彼女だけがこの前と変わらないニコッとした笑顔をしてくれていたからだ。
その笑顔は海のように深く優しく、星のようにキラキラと輝いていた。
ただただ、救われる思いだった。
「ごゆっくりどうぞ」
横にして持っていた丸いお盆を脇に挟んで頭を小さく下げた後、彼女はくるっと振り返り厨房の方へ歩いて行った。
どうやら料理を客のところに運ぶ役の彼女は、あまり店内を歩き回りはしないようだった。さっき捜しても見つからなかったのもそのせいなのだろう。
予期せぬ彼女の出現というサプライズに再びテンションは急上昇していってハンバーグの味も何かと美味しく感じられた。
三杯目のメロンソーダの味が溶けた氷のせいで薄くなってきたぐらいで、鉄板という舞台でのナイフとフォークのダンスは終わりを迎える。
客数もピークの時よりはだいぶ少なくなってきていたし、僕もそろそろ出ようかとメロンソーダをグイッっと飲みながら、この後のことを考えていた。
昨日よりも相当早く席を空けようとしているのは、単純に彼女が見られないからだ。何しろここに来た理由の九割は彼女だった。しかし、その彼女はほとんど厨房から出ては来ないし、その上食事も終わったとなればここに留まる理由はなかった。
結局、メロンソーダを飲み干している間にこの後の行動は決まらなかったが、僕はコップをテーブルに置いて鞄と伝票を持つと昨日と同じようにレジへ向かった。
足取りが重たい。ついでに腹も重たい。彼女を見に来たのに目的が達成出来なかったからなのだろう。気持ちが沈んでいくのを感じた。
顔を下に向けて歩いていると、綺麗にワックスがかけられたタイルと目が合った。昨日も思ったが、やはりこの店は掃除がしっかりやられているようだ。ゴミなど一つも落ちていない。
店の清潔さに改めて感心させられながら、到着したレジの前で昨日と同じようにベルを押した。伝票をキャッシュトレーに置いて財布を開くと中からお札を取り出した。
財布の中には今取り出した一万円以外のお札はなく、仕方なくそれを伝票の上に重ねた。思い返せば昨日最後の千円札をここで使ったのだった。
「ありがとうございました」
人数が減ったからか会計作業をする人がいなかったらしくしばらくして、高い声を上げながら厨房の方から彼女がやってきた。僕は手を下にして、見えないように小さくガッツポーズをした。
「九百七十四円です」
レジの機械を右手で素早く操作しながら彼女は、反対の手で伝票とお札を取ると、それぞれを別の場所へ入れた。
「お先にお札が千二千……」
レジから出てきたお札を指に挟んで一枚一枚数えて渡した後、同じくレジから出てきた小銭を僕に渡した時、彼女の指が手のひらに触れた。ドキッと大きく脈を打った心臓を落ち着かせるように息を吐くと、平常心を装いながらお釣りを財布に仕舞った。
彼女の顔が見えなくなることを惜しみながら扉の方へ振り向くと、財布を鞄に仕舞って、昨日と同一の言葉を期待しながら、店内に流れる陽気な音楽に釣られるように軽い足取りで先へ進んだ。
「また来てくださいね」
頭を下げながら声を出した彼女が、レジから厨房に戻っていく姿が透明な扉のガラス越しに見える。彼女の姿も声も完全に把握できなくなったところで、僕は扉を開けてまた、灼熱の太陽との戦いに戻るのだった。
外は今朝よりも更に暑さが増していた。昨日と違い風は吹いてはいたが、その風すら熱くなっていて、まさに熱風という感じだった。
太陽がいくら熱く燃えていようとも普通はこんなに暑くはならない。ここまで気温が上がるのはやはり、ああいったタワービルのせいなのだろう。
全身鏡張りの超高層ビルを見上げながら、そんなことを思う。
僕はとりあえず家に帰ることを目的として駅へ向かっていた。特に急いではいなかったから、ブラブラとゆっくり歩いて周りの景色を楽しみながら進んだ。途中にあった近道の大通りも人の多さに目が眩んだから、敢えて通ることなく、遠回りの細い小道を選んで通った。
屋根に使われている瓦や塀に使われているコンクリートなんかを眺めていても何も楽しくなく、他の道に出ようと少しテンポを上げるとすぐに小道を抜けた。
小道を抜けた先にブランコや滑り台といった王道のものだけが犇めき合うわりと広い公園があった。木々が多くて自然の安らぎを感じられそうないい公園。
そんな感想を抱いてそばを歩き始めたら、セミが強すぎる自己アピールを始めて、それはもう頭が痛くなった。
太陽の肌を焼くジリジリとした暑さとは違うが、セミの大声はまた違った形で暑さを増大させているように感じる。だから僕は、例え一週間しか生きられないからだとしても、夏に出てきてまるで指揮者がいるかのごとく合唱を奏でるこの生物が、あまり好きではなかった。
他にも大きい音……というか雑音が嫌いな僕は、歌は好きなのにカラオケは嫌いだったり、電車は好きなのに踏切は嫌いだったりと、色々おかしい感性を持っていた。
公園が右手に見える位置から振り返らなければ見えない位置まで移動した丁度その時、ポケットに入れたままにしていた携帯が、音は上げずにブルっと震え出した。
取り出した携帯の画面を見るが、太陽の光が強すぎて節電のために明るさを抑えていた携帯の画面では、何が表示されているのかが分からない。仕方なく手で日光を遮断しながら覗くと「西田」と表示されていたことがわかった。
その文字を見て、仕事の話だなと予想を立ててから電話に出た。
「はい。もしもし」
「あ、勝也? 俺々、俺だよ」
電話の相手は西田だと最早出る前からわかっていたのに、俺という言葉を連呼する語彙の少ない電話相手をオレオレ詐欺の犯人なんじゃないかと一瞬疑う。
「西田だろ? どうしたこんな時間に」
「こんな時間ってまだお昼すぎだろ! それよりお前今日暇?」
その言葉を聞いて自分が立てていた予想は外れていたのだと感じた。
「夜にご飯食べない?」
「そりゃ食べるよ」
「ほんとか!」
「あぁ、一人でね」
「そういうことじゃねぇよ! 一緒にどうかって話だ」
西田の雑でどうでもいいツッコミをほとんど聞き流しながら、僕はあのファミレスを思い浮かべていた。
「じゃあ、七時に○○駅に来てくれ」
「おぉ、OKか!」
喜びの声を上げた西田には見えないと知りながら、僕は首を横に振る。いつもの癖だった。
「いや、一緒に食べるかどうかは七時になってから決めるよ」
「なんでだよ! 待ち合わせしたんだからもう一緒に食べようよ」
「だって私、西田さんのことぶっちゃけ嫌いだしー」
携帯を持っていない左の手を顎に当てて、首を傾けながら、声のトーンを上げるようにして話した。
「ぶっちゃけ過ぎだよ! 衝撃の事実だよ」
「顔見ながら一緒に食事なんてしたら、食べていたもの吹き出しちゃうし」
「どんだけ面白い顔だよ!」
「じゃあ、七時にねー」
「おーい、ちょっと待てー」
西田の声は遠くに消えていくように少しずつ小さくなっていって、突然途切れた。というか、こちらが強制的に電話を切ったのだが。
話をしている間歩くのを忘れていた僕は、止まっていたその場から再び歩き出してから、携帯をポケットに戻した。
しかしどうしたものか……西田と飯を一緒に食べるとしてその店はできれば彼女のいるあのファミレスにしたいのだが、一回家に帰ってからもう一度ここに来るというのは、面倒だし金もかかる。かといって後五時間近くをこの辺りで過ごすというのも……。
額を流れる汗をハンカチを出すのが面倒くさいからと腕で拭いながら歩く。いい加減この暑さもどうにかならないものか。
色々なことを考えながら歩いていると鼻歌交じりで自転車に乗ったチャラい服の男が、肩が当たるか当たらないかというギリギリのところを通り過ぎていった。ビックリしたまま自転車を目で追うと、その男はそのままセミのコンサート会場に入っていった。
謝りもしなかった男にムッとしていると、さっきよりも無性に暑くなったように感じて、無意識に涼しいところを求めるように右手にある駅とは逆側の左の曲がり角を曲がった。
確か、この道を真っ直ぐ行って突き当たりをまた左に曲がったところの右手に図書館があったはずだ。少し先を進んでからそのことを思い出した。冷房も効いているだろうし、何より図書館は静かだ。セミの声どころか人の声もほとんどしない、安らぎの空間と言ってもいい。
僕は西田との待ち合わせ時間までそこで過ごすことにした。
図書館はやはり冷房が効いていた。少し寒いくらいに。土曜日にしては人も少なかったから、程良く陽の光が入る雰囲気のいい席を選んで座った。
「文字は得意か?」という質問がもしあったなら、僕は、苦手だと答える。小説より漫画の方が好きだし、学生の頃は教科書を開いては五分で眠くなっていたからだ。
しかし、普通はそんな質問をする人はいない。だいたいは、「本は好きですか?」と訊くだろう。そしてもし、その質問をされたなら僕は今度は、好きですと答える。
要するに、苦手と嫌いはイコールでは結ばれないということだ。改めて図書館に来て考えてみると、やはり本は苦手で好きだった。
子供の頃よく読んでいたのはミステリーだった。本当の世界では起こり得ない犯罪を主人公の探偵がズバズバ解決していくのが、たまらなかったのだ。
ミステリーの置いてある棚を物色する。夥しいほどの本の住処の中から自分の気に入る本を見つけるのは、それこそ本の中の主人公なら簡単かもしれないが、現実世界においては至難の業だった。
どこを探しても読んだことのある本と興味のないミステリーしかなく、僕は次第に不機嫌になっていく。手に取っては表紙を見てから元の場所へ戻す。その行動を繰り返していた。
「あっ!」
やっと見つけた面白そうな本を手に取る。その本には反転された黒い文字が浮かび上がるようにして書かれていた。
「トイテハイケナイ?」
不思議な雰囲気を漂わせている黒い本を僕は一発で気に入った。タイトルを口にすると雰囲気は更に凄みを増していく。
さっき一度座った席に戻るとすぐに本を開いた。薄めで柔らかい本のページはあまり高そうには思えなかったし、よれよれの帯も決して長所とは言えなかったが、中身の面白さからかそれほど気にはならなかった。
赤くギラギラと燃えていた太陽が、オレンジ色になってきたかと思っていると、すぐに辺りは暗がりになっていた。
読んでいた本を一度栞を挟んで閉じた。
腕時計に目をやろうとすると目の端で図書館の時計を捉える。斜め上に視線を移すと時刻は十八時を回りそうになっていた。
この図書館は十八時には閉館になってしまう。ずっと下に向けていて疲れた首を左右に動かして状況を確認すると、もう館内には二、三人しか客は残っていなかった。
こういう時、ファンタジーの世界なら、魔法の力なんかで時間を止めることも出来るだろう。しかし、現実はそう甘くはなかった。
仮にここで時計の針が前に進むのを止めてみたって、時間が止まったりはしないのだ。
貸し出し申し込み場所と書かれた紙が置いてある長い机の前に座って、本を係りの女性に渡すと一週間のレンタルを申し込む。女性は、音を立てながら素早くパソコンを数秒いじると、すぐに本を布製の袋に入れて返してきた。
「ありがとうございます」
笑顔の時に八重歯がチラッと顔を出した。夕日が沈む図書館で笑う彼女と目が合って、不覚にも少しドキッとしてしまった。
綺麗な笑顔だった。でも……ファミレスの彼女の笑顔には、遠く及ばない。
勝手に失礼な比較を頭でしながら、僕は図書館を後にした。