episode.B 犯罪者
○○中央総合病院。
私が産まれた病院で、昔から大きな怪我をした時などはここに連れてこられた。
駐車場の数は三つで、病棟の数もABC館と三つあるほど大きいという特長の他に、二十四時間救急診療を行っているという患者に優しい長所もある。
そんな○○中央総合病院の北山先生はあの人の十年来の友人だ。
私と梨花はそんな北山先生が応診を休める僅かな合間を縫って会ってもらえることになった。
「それにしても広いわねこの病院」
右や左にと視線を移しながら梨花が苦笑する。
多くの扉から患者や医師が出入りしていて意外と人通りが激しく、横に目をやっていると前から来る人に当たりそうになった。
「あ、ここだよ北山先生がいる部屋」
マップを折りながら扉の前で立ち止まって、産婦人科の文字を指差した。
後ろで待っている人が何人かいて、私たちを少し嫌悪の目で見ている。いきなり現れて中に入ろうとしているのだから、当然と言えば当然なのだが。
「どうする?」
「うーん」
さすがに、割り込むみたいで気が引ける。後ろからの刺すような視線が痛くて、扉に手がいかなかった。
「久しぶりだね梨花ちゃん雛ちゃん。こっちで話そうか」
突然開いた扉から、白くて長い服に身を包んだ北山先生が出てくる。僅かに扉の近くにいた私の方が、大袈裟に後ろに仰け反り驚いた。
北山先生は私と梨花がそこにいることが分かっていたようで、扉がまだ開ききる前から喋り出していた。
先生が指差した方へ目線を移しそのまま三人で移動すると、後ろから綺麗なナースが番号を呼び、一人の女性が中へ入っていった。
「私に訊きたいことっていうのはなんだい? 雛ちゃん」
先生は、眉を上へ動かすようにして私に顔を近づけた。昔から先生は小さい子供を相手にするように人と接する人だったことを思い出しながら、私は単刀直入に、あの人の話の後ずっと思っていたことを訊ねた。
「A型とAB型の夫婦から、O型の子供が産まれることってありますか?」
梨花に訊いても分かっただろう。でも梨花が言っただけでは、きっと私は否定したくなる。今だって「ある」と一言言ってほしい。そう願い続けているのだから。
先生は息を飲んだ。その質問の重みを感じ取ったのかもしれない。
梨花は、目を丸くし口を半分開いてその場に立ち尽くしていた。まるで昨日の私だ。
「雛ちゃん、それはどういう……」
「あるかないかで! ……あるかないかで答えてください」
私は、慰められると思い、肩を掴んだ先生の手を虫を払うように激しく弾いて言葉に割り込んだ。
分かってる。その反応からしてもそうだし、そのずっと前から……答えは分かってるんだ。
「ない……だろうね」
先生の放った言葉が、瞬時に私を悲しい真実の渦へ巻き込んだ。
その言葉を覚悟してなお、最後の確認のためにここに来たのに、その弾丸はやはり重たすぎた。
「忙しい中、お手数おかけしました」
下を向くと涙が零れてしまいそうだったから、頭は下げずにお礼を言った。
後ろを振り返り、梨花の手を持って来た道を歩こうとすると、先生は私の背中に言葉を投げた。
「待って! 何があったのか分からないけど、話なら聞くよ。教えてくれないか」
私は、歩みを止めて先生の方を見つめた。
「じゃあ、一つだけ」
「!? ……なんだ? 言ってみてくれ」
「先生は……今まで本物だと思っていたものが偽物だったと分かったら、どうしますか」
「………………」
先生の、混迷の表情と開かない口を見て、私は再び来た道を返った。
夕方時、淡い赤色の光が私と梨花の目を襲う。病院から家への帰り道、私は鉛のように重たくなった足でゆっくり自宅へ向かっていた。
「大丈夫?」
光の反射で、瞳に浮かべたそれが目を輝かせていたから、梨花がずっと溜めていた言葉を私にかけた。
正直、大丈夫ではなかった。家に帰るのが怖かった。
風が吹いて木々の葉が大きく揺れる。電柱にいた鴉は何処かへ羽を広げて飛び立っていった。
夏は始まったばかりでまだ暑いし、陽も永いのに、そこには秋の香りがした。少し肌寒い
秋の香りだ。
短い髪を押さえていた私は、風が止んで太陽の温かさを感じ直した時、心のカーテンが開いたように口を開いた。
「梨花には全部話すよ。昨日どんな話をしたのか……全部」
瞳にあった涙は流れた後で、風に吹かれて何処かへ行ったようだった。
足を前に進める。帰り道の最中ずっと、昨日のあの人の話を今度は私が話した。
時より梨花の方を向いては、前から来る人や自転車に気を配りながら、全ての内容を一語一句違えることなく話し切ったのだった。
「それで全部?」
私の話が終わって梨花が私に問いかけた時、梨花は私が想像していた表情と全く違う顔をしていた。
同情されると思っていた。果てしない悲しみの渦にいる私に、梨花は優しい表情をして抱きしめる。そう思っていたんだ。
しかし、梨花はさらなる不穏を匂わす戸惑いの表情を見せた。
ジィーと暑苦しく鳴くアブラゼミの声の中に紛れて、ヒグラシが不気味な笑い声を上げているように思えた。不吉を伝えるかのように、鴉もオレンジ色の空を群れをなして飛んでいた。
「うん。全部話した」
強く首を縦に振る私に、梨花は一度目を閉じると覚悟を決めたように私に問いかけた。
「雛、これから話すことを受け止める覚悟はある?」
身の毛がよだつとはまさにこのことだ。全身の毛が逆立つのを感じた。
怖い。ただ怖い。
「何が、何があるっていうの! 十六年間本当の親だと思っていた二人が、本当の親じゃなかった! ……私、捨てられてた子かもしれないんだよ! それ以上に何があるって言うの!」
怒っているんじゃない。怖いんだ。これ以上私の知らなかった事実、隠されていた真実が出てくることが。
梨花は真っ直ぐ私を見る。夕陽が梨花に重なって沈んでいくのを、私は梨花を見つめ返しながら眺めていた。
心が落ち着いたのは、夕陽のおかげか、梨花の瞳の力か。
私は、逃げられないことなのだと自分の心に言い聞かせると、大きく息を吐いてからニッと歯を見せて笑った。
「分かった、大丈夫。どんな話だったとしても、梨花がそばにいてくれれば」
梨花も笑う。どこまでも透き通った純白の笑顔に、不覚にもドキッとしてしまった。
帰り道、人に涙を見られたくなくて、人通りの少ない裏道を通っていた。
夜に通ろうとすると、街灯があまりない薄暗い道になるちょっと不気味な道も、夕焼けが遠い西の空に見えるこの時間ならなんら怖くなかった。
そんな帰り道が功を奏して、私たちの会話は邪魔されることなく進んでいた。そしてこの先の話もきっと多少驚愕の声を上げたとしても、止められることはないだろう。
「瑞希さんと勝也さんはもしかしたら……」
雛は私のことを想って、あえて二人を名前で呼んだのだろう。まだ、気持ちの整理がつかないから。
梨花は急に足を止めた。前を向いていた私は、少し先に行ってから横に梨花がいないことに気付いて、後ろを振り返った。
「二人は犯罪者かもしれないわ」
暑い夏の陽を浴びながら、私はその場に凍りつくのだった。