episode.B 公園
空に咲いた花が、そのたった数秒の鮮麗さだけで人々を魅了している。淡く儚い、それでいて大きな大きな火の花は、これ以上ない夏の風物詩と言えるだろう。
この家に住み始めてから夏が巡ってくる度に聴いているこの音も、この景色も、花火と違って色褪せることない私のお気に入りだ。
七月が終わって八月に入りこういった行事が起きると、夏休みになったのだなぁと改めて強く感じる。
熊本にある祖母の家に帰っていた梨花が、自分が年頃の女の子だということを微塵も意識していなかったのだろうと思わせるほど黒く焼けていたことにも、私は夏の本気の恐ろしさを感じた。
そんな梨花が八月一日に戻ってくるということで、八月一日から誘拐事件のことを調べようと約束していた私たちだったが、具体的なことは何一つ考えておらず、梨花の家に行ったはいいものの結局どこを調べるかの話はまとまらず、一日梨花の家で遊ぶだけで帰ってきてしまった。
「ねぇどうしよっか? これじゃあまた明日も何も進まないよ」
電話越しに梨花に話しかける。私の家は電波が悪いらしく、二階の自分の部屋のベランダから話していても、たまに上手く繋がらないことがある。
「待っ……誘拐事……なんだから……ネットを見……ことが分かる……」
ガサガサとノイズがかかっているが、それに交じってキーボードを叩く音が僅かに聞こえる。
たまに起こるこの現象が嫌な私は、仕方なく部屋に戻ってベランダを閉めて、さらにその部屋から出て一階に行き、電話のマイク部分を押さえながら母に電話をしてくることを伝えると、外に出て行った。
「もしもし? なんかネットに載ってた?」
家から道路に出て少し歩いたところで電話が繋がりやすくなる。そこへ向かって歩きながら、梨花が情報を見つけていないかと質問をした。
「うーん……この辺りで誘拐があったって有名になったことはなさそうね」
「どういうこと? 二年も誘拐されてたらきっと有名に……」
「警察に通報していないとか……」
夜の道端に建てられた街灯に驚きの表情が照らされる。私の言葉を遮った梨花が考えられないことを口にしたからだ。
私は声を大にする。
「通報してない!? 我が子が誘拐されていてそれはないでしょ!」
「でも、捕まっていないっていう雛の考えにも一致するわ」
「でも、じゃあ何で私は帰ってきているの!」
声のボリュームがどんどん大きくなっていってしまう。梨花の言っていることが絶対にないとは言えない。ただ、娘が誘拐されて通報していないなんてあり得ないと思いたかった。
だってそれは、まるで誘拐された私を捜していなかったみたいじゃないか。
「あ、○○公園で十年以上前に、女の子が連れていかれたって捜している女の人を見たって、ネットに載ってる」
「○○公園って私たちの家のすぐ近くじゃない」
「しかも時期も十年前って言っているわ」
私は梨花の言葉を聞きながら確信していた。
これは私のことだと。
電話越しでも、梨花も同じことを思っていることが分かる。さすがに付き合いは長い。
「じゃあ、明日○○公園に行こう」
「公園の近くに住んでる人なら何か知ってるかもしれないわね」
「明日の朝……」
言葉が途中で止まる。明日の朝は母の友達の夏美さんに髪を切ってもらう約束をしていたことを思い出したからだ。
用事が出来たと言えばいいかなと一瞬考えたが、こういう約束を反故にすると母はすごく怒るから、私は朝を諦めることにした。
「やっぱり二時に私の家に来て」
「分かったわ」
「じゃあ、明日」
電話はすぐに梨花が切ったが、私は携帯を耳元で握りしめたままニヤッと笑った。
手掛かりと呼べる手掛かりが見つかった……いや、見つけてもらったことが素直に嬉しかった。
明日はきっとまた新しいことが分かる。そうしたらきっと犯人に……。
私は家への道を引き返しながら、そんな期待に胸を膨らませていた。
夏美さんに髪を切ってもらうのは四ヶ月に一回ほどで続いている恒例行事だ。
周りの女の子に比べて私の髪が短いのには、長い髪が似合わないと思っているという以外に、夏美さんに髪を切ってもらうのが好きだからという理由もあるくらい、私は夏美さんの美容師としての姿をカッコイイと思っていた。
「ちょっと前向いてて」
夏美さんの指示通り目の前に置かれた姿鏡を私は首を上げてじっと見つめた。
いつもは押し入れに閉まっているだけの鏡が、この時だけは私と私の短くなっていく髪型と落ちていく髪の毛、下に敷かれた青いビニールシートやリビングの情景などの多くのものを反射させていた。
時刻は十一時。朝から公園に行って捜査していたら、きっと間に合わなかっただろうと思われる時間だ。
「ほら、上向かない! 前向いて」
上につけてある時計を見ていたことが夏美さんにバレる。私は再び顎を引いた。
前髪がパサパサと目の前を小さな塊で落ちていく。当たり前だが、それに比例して私の前髪は短くなっていった。
後ろ髪はもう私の理想の長さにまで切られていた。肩と同じ高さになるようにというのは、梨花が昔、雛に似合っていると言ってくれた髪型だった。
後ろ髪を意識すると首と背中が痒くなるのを感じた。首から下はビニールで分けられているとはいえ、小さく細い髪の毛がいくつか中に入ったのだろうと思われた。
さっきまで何も感じなかったのに、意識してしまうと一気に痒く感じ始めるのは何故なのだろう。そんなことを思いながら背中に回せない両手を組んで、掻きたい衝動を抑えた。
「はい。こんな感じでどう?」
「はい! いい感じです。ありがとうございます」
いつも通りの髪型に満足しながら答える。夏美さんはビニールを外して首回りを綺麗にしてくれた後、椅子を退かしてビニールシートを片付け始めた。
母は財布からお礼を取り出して枚数を数えると夏美さんにそれを渡していた。
私はお風呂に入ることにした。背中や首がチクチクしているから、早く入りたかったのだ。
バスタオルと着替えを置いてお風呂に入る。時刻は十一時三十分。まだまだ時間には余裕があったし、お風呂を上がったら私もインターネットで情報を集めてみようと思った。
パソコンの電源をシャットダウンして画面を閉じる。横に置いておいたマグカップに入れたいちご牛乳をグイッと飲み干した。
マグカップを机に戻す。その時、机が立てた木の音と階下で鳴ったチャイムが重なった。
「はーい」
鳴り響いたチャイムに返事をする。二時五分前、間違いなく梨花だと分かっていた。
鞄を持って下りると玄関で少しヒールの高い靴を履いて外に出た。
「お待たせ」
「ううん。今来たところよ」
「うん。知ってる」
梨花が私のほっぺたをつねる。いつもの挨拶のようなものだ。
公園への道は二人とも知っていたが、私が前を行ってその後ろを梨花がついていく形で歩いた。
そういえば小学生の頃は、いつも学校の後私の家に集まってから○○公園に行っていた。でもいつからか、カラオケに行ったりボーリングに行ったりと公園に行くことはなくなった。悪いことではないのに、私は心に小さな何かを感じた。
悲しさにも似ているがどこか違う、切なさのような何かを。
そんなことを思っているとすぐに公園に到着した。何もない公園。というより、子供たちがサッカー等が出来るようにと広く作られたほとんど遊具がない公園は、今も何も変わらず同じままだった。
夏休みともなるとさすがに公園で遊んでいる子も少ない。小学生だろう男の子たち三人と三歳ぐらいの女の子とその母親の五人が、それぞれサッカーとブランコで遊んでいるだけだ。
「どうしよっか」
梨花が、公園の入り口で立ち止まった私の後ろから訊ねる。
「昨日梨花が言ってた通り、公園の近くに住んでる人に話を聞こう」
私はこの公園の近くに住んでる人に心当たりがあった。母の友達で梨花も知っている人だ。
私は公園に沿うようにして目的の家へ歩き出す。その方向に梨花も向かっている場所に気付いたようで、今度は私の前を梨花が歩き出した。
「ちぃちゃんの家へ行くのね」
「うん。山中さんのお母さんと私のお母さんすごく仲良いから、きっと何か知ってると思うんだ」
ちぃちゃん……梨花と同い年の山中千智ちゃんは、そういえば梨花すごく仲が良かったんだっけ。
高校が違くなったせいか会うのは久しぶりのようで、梨花は嬉しそうに少し速く歩く。千智ちゃんの家の窓からは○○公園が見える。それほどに家と公園は目と鼻の先だ。私たちはすぐに千智ちゃんの家に到着した。
ピンポーン
「はーい」
梨花が呼び鈴を鳴らした。私と同じような返事が聞こえた。
「あら、梨花ちゃんと雛ちゃんじゃない。どうしたの? 千智なら今出かけちゃってるんだけど」
「あ、いえ千智さんではなくてお母さんの方に用事がありまして……」
「私?」
扉を開けて出てきた千尋さんが千智ちゃんの不在を伝えると、梨花は少しションボリしたようだった。
「はい。実は……」
「待って。中で話しましょ」
驚いた顔をしていた千尋さんが、開けていた扉をさらに大きく開けて私たちに中へ入るように促す。
「「お邪魔します」」
若干緊張している私たちを見て千尋さんが笑う。笑った時に出来るえくぼが千智ちゃんそっくりで、やっぱり親子なんだなと私は思った。
そういえば、母と私はあまり似ているところがない。強いて言うなら、可愛いところか……。でもそれだって、千智ちゃんや梨花だって可愛い。
「それにしても二人は本当に仲がいいのね。小さい頃からいつも一緒にいるし、二人とも可愛らしいからなんだか姉妹みたいよ」
そうなのだ。母と似ていないだけでなく私は梨花と似ているらしく、私たちはいつも姉妹に間違えられていた。
「そうですか?」
玄関から広いリビングへ案内しながら私と梨花を交互に見て話していた千尋さんに、私は微妙に笑いながら当たり障りのない返答をした。
リビングに着くと私と梨花は勧められるがままソファに座った。隣に、毛がもふもふとした白い猫がいて少し暑い。
そんな私たちをおいて千尋さんはリビングからキッチンへ行き、冷蔵庫から麦茶を取り出して、イルカがデザインされた夏にぴったりの透明なガラスのコップにそれを注ぎ始めた。
「はい。麦茶どうぞ」
「「ありがとうございます」」
目の前にある膝の高さ程度の座卓に麦茶を二つ置くと、千尋さんは少し離れた椅子に座った。
「それで? 私に用があるってどうしたの?」
「あ、はい。私たち実は今、昔の誘拐事件について調べていまして。十年以上前に私が誘拐されたって話を母から聞いたことないですか?」
半身になって千尋さんの方を向いて話す。私の話にびっくりした千尋さんは、私の熱が伝わったのか真剣な顔で何かを思い出そうとし始めたが、すぐに首を横に振った。
「ごめんね。雛ちゃんが誘拐されたことがあるってことも、おばさん今初めて知ったわ。だからお母さんからは何も聞いてない」
申し訳なさそうな顔でこちらを見られると何も言えない。そもそもこちらが勝手に期待しただけなのだから。
「そうですか……」
それでもショックは大きかった。私が下を向き黙ると、自然と静寂が場に流れた。
「あ、でもそこの公園で誘拐があったって話は聞いたことがあるかも」
「本当ですか」
思わず立ち上がってしまう。梨花が、落ち着くようにと肩を叩いて麦茶を渡してくれた。
「うーん。確かずっと昔にそんな噂があったのよ」
テーブルに肘をついて、手を顎に当てながら考えている千尋さんを梨花と二人で見つめる。
「十四年前でしょ」
ビクッと身体が反応する。突然三人の誰のものでもない声がリビングの扉の方から聞こえたからだ。
「私が四歳の頃に誰かが、自分の子を捜して家に来たもの」
話しながら入ってきたのは千智ちゃんだった。
制作会社のロゴが入った大きめのエナメルバックを左肩にかけ、額にかいた汗を拭いながら登場した千智ちゃんは、どうやらソフトボールの部活から帰ってきたところのようだった。
「久しぶりー」
家の鍵をバックに仕舞ってそのバックを置いていた千智ちゃんに、梨花が嬉しそうに抱きつく。
「おーよしよし。元気だったかー」
犬を撫でるように梨花の頭を撫でる千智ちゃんを私と千尋さんが笑った。
「四歳の時に誰かが子供を捜しに来たって本当ですか?」
楽しい空気に水を差すようだったが、私は笑顔を止めて真剣な顔で話を戻した。
「うん。確か一人で留守番している時に知り合いの誰かのお母さんが来たんだよ」
知り合いのお母さんという言葉に「それだ」という喜びがある裏で、私は小さな違和を感じていた。
「四歳の時ですか?」
あり得ないことだ。私が四歳の時に梨花と同い年の千智ちゃんが、同じく四歳なことなど。
しかし……千智ちゃんの間違いということもある。
「四歳だったのは間違いないわ。その日私の四歳の誕生日の次の日だったもの」
「「誕生日!?」」
梨花と私は顔を見合わせる。梨花も私と同じことに疑問を持っていたようだった。
「そうだけど……どうしたの?」
千智ちゃんが心配そうにこちらを見る。私はその視線から目を逸らして下を向いた。
「つまり、千智ちゃんが知ってる誘拐事件と私の事件とは関係ないってことか」
私は期待した分だけ損をしたという思いで、ソファからずり落ちた。
タメ息をついて気の抜けた顔が、ガラスのコップに酷く歪んで映っていた。
午後五時二十分。「晩御飯も食べて行きなさいよ」と言ってくれた千尋さんに「悪いから」と頭を下げて、私たちは家を後にした。
結局、私の誘拐についての情報を得ることはなかったが、梨花は久しぶりに千智ちゃんと遊べて楽しかったみたいで帰り道はずっと笑顔だった。
「じゃあ、また調べてみるわね」
「うん、ありがとう。私もお父さんに色々聞いてみる」
いつもの別れ道で手を振って別れる。私はいつもよりも速く家への道を帰った。梨花にも言ったように、父に話を聞いて新しい情報を見つけなくてはと焦っていたのだった。