episode.B 遊園地
目が覚めて、ベッドの上に置いていた目覚まし時計の腹、つまりは時計部分を見た時、私は戦慄した。
「わぁーなんでこんな時間なのよ! このオンボロ目覚ましがぁー」
ベッドの上に時計を放り投げて、パジャマのボタンを急いで外していく。何の意味もないのに足はバタバタと、熱々の食べ物の上で動き回る鰹節のように果てし無く動いていた。
「うるさいわよ! 今日から夏休みでしょ」
「あっ」
母の一言が私の動きを止めた。
母は寝室いながら私の姿も見ずに、私が学校に遅刻すると焦っているのだと分かって声をかけてきたのだった。
娘のことは何でもお見通しということか。
「そうだよ、夏休みじゃん」
そう口にしたと同時に、昨日の梨花との約束も思い出した。
だがそうだ。夏休みとはいえ、時刻は七時五十分。もうすぐ梨花は家に着くだろう。
「まぁ、梨花ならいくらでも待たせていいか」
「いいわけあるか!」
ポンッと左の掌に右拳を乗せた私の頭に後ろからチョップが炸裂する。左回りで振り返るとそこには梨花がいた。
「なんでいるの?」
「ちょっと早く着いたから、おばさまに入れてもらったのよ」
「梨花ちゃんと遊びに行くんだって? 別にいいけど宿題もやっときなさいよ」
部屋から出てきた母が梨花の後に続いて話した。眠そうに欠伸をしている母の後ろの扉から、そのまた後ろのベッドに寝ている父の姿が見える。ベッドから落ちそうになっているその姿に私は小さく笑った。
「ほら、さっさと準備して行くわよ」
「はいはい」
梨花に服の袖を引っ張られながら自分の部屋に戻ると、すぐに着替えを済ませた。そして階下に下りて顔を洗って歯磨きを終わらせると、荷物を持っていよいよ遊園地に向かうのだった。
電車で一時間もかからないで着ける○○遊園地の開園時間は九時半とネットに書いてあったが、電車を待ちながらホームで携帯の時計を見るとまだ八時に十五分となっていて、時間には余裕があった。
「あっちで何か買うでしょ?」
時間の潰し方を考えていた私の心を見透かしたように梨花が訊いてくる。
「お昼は遊園地の中で食べるとして……コンビニでおにぎりとかでいいの?」
「私はいいけど……朝はあんまり食べないし」
お腹を摩って空き具合を確認する梨花の真似を私もすると、私のお腹は「ぐぅー」と音を立てた。恥ずかしくて赤面する私を梨花は笑っていた。
コンビニに着くと私は梅と鮭のおにぎりを一つずつ手に取った。
梨花が悩みながら買っていたツナマヨも美味しそうだなと思ったのだが、梨花の「後でちょっとあげるから」という言葉を聞いて三つ目は棚に戻した。
携帯のマップ機能を駆使して梨花が私に道順を説明してくる。音声案内をしてくれる携帯の機能なのだから、本当は梨花が先を歩けば私に説明する必要はないのだが、何故か梨花は私の後ろをゆっくり歩きながら口を動かしていた。
遊園地の入り口が見えると携帯のマップは「目的地周辺です」の一言を残して説明を止めた。
梨花は鞄に携帯を戻すと、三ヶ所ある入り口の一番左を指差してそちらへ向かった。
「やっぱり遊園地はカップルで来なくちゃねぇー」
たまたま左の列で私たちの前に並んでいたマッチョな男性とチャラチャラした女性のカップルの内、女性の方が他の客を気にせず喧嘩を売るような発言をしたが、私は意外にも気にならなかった。
日頃から「彼氏が欲しい」と口に出していた私だったが、本当はこうして梨花と遊んでいるのが一番楽しいことを自分でも分かっているのだ。
「ねぇ梨花、今日は一日中楽しもうね」
「どうせ私が雛の面倒をみさせられるのよ……」
私の笑顔を見て一度優しい目をした梨花が、一瞬にして死んだ魚のような目をする。
「分かった分かったわよ。我儘言わないように気をつけるから」
「そう? じゃあ、楽しもっか」
列が動く。チケットを受け取った人たちが遊園地の中に入っていって、バラバラの方向に散っていくのが見えた。
前のカップルを含めて私たちの前に並んでいる人数が五人になると、私は何だかソワソワしてくる気持ちを感じていた。
「でもいいの? 遊ぶ以外の目的が何かあって私を誘ったんじゃないの?」
梨花と遊園地に来たことで自分ですら最初の目的を忘れていたのに、梨花が全てお見通しと言わんばかりに訊いてきたことに私は驚いた。
「いいよ。また今度で」
十年前のことに対する興味がなくなった訳ではないが、今日は梨花と遊ぶことにした。誘拐のことはまたいつでも調べられるけど、遊園地で遊べるのは今日だけだから。
「高校生二名です」
ガラス越しに係りのお姉さんに伝える。花火のようにガラスにポツポツと小さくいくつも空いた穴から、声が通っていった。
ガラスに山なりに空けられた場所から手を入れて、梨花と私は別々にお札をザラザラした棘の上に置いた。
「チケットでございます」
ピッタリの金額を払ったおかげでお釣りは返ってこなかったが、チケットが二枚キャッシュトレーに置かれた。財布を仕舞ってチケットを取ると、お姉さんに頭を下げて先に進んだ。
「はいどうぞ」
ゲートを潜るところにまた違う係りの人がいて、チケットの半分を切って遊園地内の地図と一緒に渡してきた。
「「ありがとうございます」」
入場ゲートを潜るとそこはおとぎの国だった。
私たちより下の年の子でも遊べるように工夫された乗り物が犇めく広場では、てんとう虫の乗り物があったり飛び跳ねる蛙がいたりとなっていた。
蛙に奪われていた目を前に向けると今度は焦げ茶色をした小さいジェットコースターと遠くに真ん中に時刻が表示された大きな観覧車が視界に広がった。
茶色のジェットコースターには意外と人が並んでいる。ゆっくり進むコースターと落差の少ないレールはそれほど怖そうには見えなかったが、私たちより上の歳の人も多くいた。
「どうする? これ乗る?」
私は首を横に振った。
「もっとすごいの人が並ぶ前に乗っちゃお」
梨花は頷いてから先に進んだ。私は後ろを追う。
さらに中に進むと黄色い叫び声と共に遊園地のメインと言えるだろう、赤いうねりをなした巨大ジェットコースターが姿を現す。他にも黄色い上下に動く絶叫マシンや一回転するんじゃないかと思うほど上まで上がる船のバイキングなんかもあった。
「どこから行く?」
「私、あのジェットコースター乗りたい」
甲高い叫び声と機械の重低音が頭上で鳴り響いたところで私はそれを指差す。地図を三つ折りですぐに折りたたみ、梨花の手を引っ張りながら私は大勢の人が並ぶジェットコースターの建物へ走った。
音楽が流れている。陽気なリズムが色々な楽器で奏でられていて、それに合わせて熊や兎といった愉快な仲間たちが踊りを披露していた。
列に並びながら見えるのは、中から幽霊の姿をした人形が這いつくばって出てきている木造の建物と木馬と南瓜の馬車が回り続けるメリーゴーランドとそのメリーゴーランドの数倍の速さで回る空中ブランコの三つで、私はそのどれもが楽しそうに思えてならなかった。
列に並んでいる時間を退屈と感じる人はそう少なくないだろう。が、私はあまりそういった感覚を持っていなかった。お喋りな私の話題は二時間やそこらでは尽きなかったし、例え話が一回止まっても、次は何に乗ろうかと考えているだけで楽しかったからだ。
列は何分かに一度進んでいき、やがて私たちの番が来た。ロッカーに荷物を詰め込み、肩が当たる幅に二人で入るとシートベルトをして安全バーを下げた。
ドキドキが止まらない。そのドキドキは恐怖が四割で興奮が六割だ。
私が落ち着こうと息を吐くと、ジェットコースターはガタッと小さく揺れてから動き出した。
梨花が、私の手をギュッと握って一瞬だけ私の顔を見て、すぐに前を向き直した。
小さな揺れとその揺れの音が続く中でコースターは斜めになっていく。周りを見ても観覧車しか見えなくなるほどの高さに到達するとコースターは一度止まった。
鳥肌が全身を包む。
「キャァァァァァー」
コースターは一気に降下してものすごいスピードでレールをかけていく。乗っていた客のほとんどが叫び声を上げる。トンネルを潜り抜け、右回りで三回転もした。その度に絶叫が響いた。
コースターが建物内に戻り動きを止めてなお、私は興奮していた。
「すごい! すごい楽しかったね!」
「ちょっと死ぬかと思ったわ」
梨花は荒れた息を整えながら笑った。こんな楽しそうな梨花を見たのは初めてだった。