episode.A 犯人
これから流行する服をファッション雑誌が先取りするように、春も梅雨という季節を先取りしたようで、今日は一日雷雨を降らすという。
そんな天気のせいもあって、夏美は会えないかと話した瑞希の提案をすぐに断った。それでも、「大事な用事があるから」と何度も電話越しに頭を下げると「家の近くのカフェでなら」と渋々承諾をしてくれたのだった。
コーヒーという飲み物にはあまり興味がない。色々な種類があるらしいがどこに違いがあるのかなど、全くもって分からないからだ。
昔、結婚したばかりの頃、コーヒーメーカーが欲しいと話す瑞希に異を唱えて抗議したのを覚えている。それほどまでに僕はコーヒーに魅力を感じないのだ。
そんな僕がカフェになど行ったことがあるはずもなく、今日がカフェ初体験となった訳だが、初めて入るオシャレなカフェという空間に思いの外緊張している。
唾を飲み込むと「ごくっ」と音がした。
そんな音が聞こえるほどに、カフェは思っていたよりずっと静かな場所だった。コーヒーはともかくこの場所は好きかもしれない。そう思えるほどに。
先に来ていた夏美がこちらに気付いて手を上げる。その場所を確認して手を振り返すと、細長くまとめた濡れた傘を何となく杖のようにして歩いた。
よく分からないから瑞希と同じ飲み物を頼んで……というか瑞希に頼んでもらって、それを持ちながら席へと向かった。
「それで? 大事な話って?」
席に着くなり夏美が、瑞希を睨みつけるようにして訊ねる。「お前は優子か!」そんなツッコミを言い放ってしまいそうになったが、辛うじて堪えた。
椅子からはみ出された左足が小刻みに揺れている。そのことからも夏美が苛立っていることが伝わってきた。
僕は瑞希を先に座らせて自分は通路側に腰をかけると、持っていた二本の傘を机にかけてから、瑞希に向けられている夏美の視線を自分に向けさせるべく、第一声を発した。
「北山優子さんについて知りたいんです」
明らかに夏美は動揺を見せる。貧乏ゆすりをしていた足は動きを止め、表情は恐怖に満ちていた。
「優子さんがどうしたって言うのよ」
「最近の優子さんについて何か知りませんか」
再び夏美は揺れ出すが、それは先ほどとは異質のものだった。止まらない全身の震えを、両腕をクロスさせ互いに逆の腕を押さえることでどうにかしようとしている夏美の行動に、見ているこちらでさえ恐怖を感じた。
「知らないわよ。私がイジメられてたのはもう何年も前のことでしょ! 今さら何を聞くのよ!」
震えは収まったものの、いまだに優子の名前に対してうろたえを見せる夏美が、小学生の頃上の学年にいた優子にイジメを受けていたことは瑞希から聞いていた。
それでも優子の名前を出したのは、もしかしたら何か情報を持っているかもしれないと、そう思ったからだ。
「いや、知らないならいいんだ。悪かった」
だが、虚ろな目をして左手の親指の爪を何度も何度も噛んでいるそんな見るに堪えない姿に、さすがに言葉を詰んだ。
平常心を取り戻したのは一分ほどのだんまりの後だった。
「それで? 話って優子さんのことだけなの?」
木で作られた四角いテーブルに、立ち上がり前のめりになった夏美の体重が全てかかる。ギギギッと音を立てるテーブルを気にしながらも、夏美が再び睨む目つきをしていたから、仕方なくそれは頭の中のクローゼットに仕舞い込んで話を続けた。
「もう一人、西田梨菜さんって知っていますか?」
ゆっくりと席に座り直す夏美は、まるで結末のないミステリーを読まされたかのようなしっくりこないといった顔をしている。
「何であんたたちが梨菜さんのこと知ってるのよ」
「そりゃ知ってるわよ。だって梨菜さんはそもそも優子ちゃんの友達だもの。夏美さんだって優子ちゃんに呼びつけられてた頃に、優子ちゃんと一緒にいた梨菜さんに会ったんでしょ?」
瑞希が説明を代わる。瑞希と夏美と優子と梨菜さんの、四人の関係を僕はあまり知らないからだ。
西田と梨菜さんが結婚したばかりの頃、瑞希が梨菜さんの友達だと知った時は相当驚いたものだ。友達の奥さんの友達が僕の彼女だったのだから。まぁ、世間は僕の脳みそのように小さいのだと小さい脳みそで考えていたら驚きは薄れていったのだが。
「そうか……そうよね。瑞希は梨菜さんのこと知っててもいいのよね」
どうやら優子が他三人の全てを繋いでいた共通点だったらしく、そこからそれぞれ他の人と友達になったから、夏美は瑞希も自分と同じように梨菜さんと友達になっていたとは思わなかったようだ。
一人で納得してしまった夏美のせいで二人の間を無言の空気が包む。ただ、無音にはならない。少ないとはいえ他の客もいるし、何より、外で降り続ける雨が激しい音を生んでいるからだ。
「梨菜さんのことなら、私も最近聞いたんだけど……」
僕が席を立つと、夏美は話を止めて反射的にこちらに目を向けた。
夏美に二人のことを訊けば、犯人の手掛かりが得られるかもしれない。そう思ってその行動に出た僕にとっては、夏美が梨菜さんについて話し始めたのは有難いことであって中断させることではなかったのだが、何しろ、無視できない自体に直面していたのだ。
「ちょっとトイレ」
通路に出てそのまま真っ直ぐ進む。扉に男の人が描かれている方を選んで中に入った。
さすがはカフェといったところか、綺麗に掃除されているだけでなく、鏡の装飾や橙黄色の電気など、トイレのデザインすら感心させられるものとなっている。
とはいえ感心してばかりもいられない。ズボンのチャックを下ろすとさっさと用を足した。
手を洗いながら、木で出来た額で縁どられた楕円形の鏡を見る。「中々いい顔だな」なんて思っていると、若いお兄さんが入ってきて恥ずかしくなったので、水を止めてすぐに出て行った。
歩きながら席の方を見ると、夏美がおそらくさっきの続きを瑞希に話していた。夏美は淡々と話を進めている。ふと、話を聞いている側の瑞希に目をやった。
えっ?
瑞希は驚愕していた。
席で何が起きているのか分からないが、いや、分からないからこそ、雷に打たれたような瑞希の表情にこちらも驚かされる。
急いで席に戻ったが、その時にはすでに夏美は口を閉じていた。
「何があった! 夏美から何を聞いたんだ!」
瑞希の両方を掴んで前後に激しく揺らす。が、どこか別の世界に行ってしまったみたいに瑞希は反応しない。
「そんなに驚くことだった?」
夏美の言葉が銃弾の如く胸を撃ち抜く。僕は脳をフル回転させて結論を出した。
イジメをしている側が、自分たちがイジメをしていると自覚していないのと同様に、聞いた相手がこれだけ動揺する話をしたのに、した方にとっては程度の低い話だったということは、つまりはそういうことか。
「お前か! お前が犯人か!」
周りの客が一斉にこちらを見るほどの怒りの咆哮を発する。胸ぐらを掴まれた夏美が、蛇に睨まれた蛙よろしく石化した。
「違うのかっちゃん」
後ろから服を引っ張られて首が絞まる。苦しいことを手を叩いてアピールするが、瑞希はお構いなしに話を進めた。
「ありがとう夏美さん。おかげで犯人が分かったわ」
襟元から手を離して僕を通路へ押し出すと、今度は手を掴んで瑞希は走り出した。
「傘! 傘!」
テーブルにかけられた二本の傘を指差すと、瑞希はぐるんっと百八十度回転してから席へ戻る。目的の傘だけを取ると瑞希は再び走り出した。
ポカンッと光景を見ていた夏美と目が合ったが、何かを言う暇もなく距離は離れていった。
「おい、どういうことなんだ」
カフェを出て、傘を開くために止まった瑞希に問いかける。
「言ったでしょ。誘拐犯が分かったのよ」
「だから誰なんだよ! それに分かったなら早く山口さんに……」
七十と書かれたシールが手で持つところに張ってある、少し大きめのビニール傘を開いて頭の上に向けると、答えを言わないまま、目の前にある車通りの激しい車道へ瑞希は向かった。
僕は慌てて自分のビニール傘を開いて後を追う。バシャバシャと、地面に溜まった水が跳ねる。つま先にあった小さな穴から入った水が、靴下を侵食し始めていた。
赤と青の二部分に別れている歩行者用信号の赤の部分が光っている。瑞希は歩みを止め僕の方に振り返ると、口を開いて何かを言った。
「――」
えっ? と耳に手を当てて聞こえていないことを表現する。傘で雨に濡れることは防げても、激しく降る雨が傘や地面に当たって起こす音を防ぐ手段はない。故に、聞こえなかったのは仕方のないことだ。
瑞希はもう一度口を開こうとしたが、目の端で車両用信号が黄色から赤に変わるのを捉えたようで、何も言わずに口を閉じて後ろを振り返り、改めて横断歩道を渡り始めた。
咄嗟に僕は大声を上げる。
信号が黄色から赤に変わる瞬間、まだ行けると速度を上げて横断歩道に突撃してきたトラックが、先を急ぐ瑞希にクラクションとブレーキ音を鳴らして向かっていくのが見えたからだ。
「みずきー」
雨の中空気を切り裂いて進む雷のように、叫び声は遥か後方にまで轟いた。
けたたましいブレーキ音が鳴り止む。
傘を伝う雨雫が、ポツリと落下した。
「瑞希! 瑞希!」
何度も名前を叫ぶ。傘を投げ捨てて走った。
嫌な予感……。昨日感じたそれは、雛の事件に対してじゃなかったんだ。
雨で道が滑る。当然、ブレーキは弱まるだろう。
当たったようにも見えた。当たっていないようにも見えた。ただ、瑞希はその場に倒れ込んでいた。
雨で濡れている地面。そんなことは気にすることなく、膝をついて瑞希を抱き抱えた。
「瑞希! しっかりしろ瑞希!」
周りを歩いていた通行人が集まってきて、野次馬たちの円が出来る。その中にいた見知らぬ男性が、携帯で救急車を呼んでくれていた。
「俺、俺は轢いてないぞ! 当たってないからな」
トラックに乗っていた中年の男が、腰を抜かして出てくる。
「当たってねぇじゃねぇだろてめぇ! 他に言うことあんだろが!」
怒鳴り声にビビった運転手は震えながら、壊れたカセットテープのように同じ言葉を繰り返し始める。
「ああぁ、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
「大丈夫だよかっちゃん。ちょっとビックリしただけ」
瑞希は腰を起こして、名前を呼んでニコッと笑った。
「でも大丈夫ってお前……」
「それより、雛が危ないかも知れないのよ」
戦慄が走る。話が見えない。意味が分からず声を荒らげた。
「どういうことだよ!」
「つまり犯人は――」
全ての音がシャットダウンされ、頭の中で、衝撃的な犯人の名前だけが反響する。
再度、激しい雨の音が耳に入ってきた時、鳥肌が全身を覆った。
瑞希は最後の力を使い切ったようで、そのまま気絶した。
続けて読んでいただきたいので、今回も二話連続更新です。
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