episode.A 出会い
「暑い……」
思わず声に出してしまう。
夏が本気を出し始めた七月も中旬だというのに、僕はなんのために真っ黒なスーツに身を包んで外を歩き回っているのだろう。
ビショビショのワイシャツと額から流れる汗がそんなことを思わせる。
時計に目を向けるともう十二時を回っていた。そういえば、水は飲んでいても食事はずっとしていなかった。空っぽの腹がタイミングを図ったように音を立てた。
「できれば自営店なんかがいいな」とそんなことを思いながら僕は飲食店を探す。左の方に一つだけファミレスが見える。なんとなく他の店も探したが特にいい店は見つからず、仕方なくその店に向かって歩き出した。
また汗が滲み出す。信号を渡りながらハンカチを額に当てた。店の中に入るとすぐに冷房を感じた。涼しさの中で汗が引いていくのを実感する。
店内はイタリアをイメージしたと思われる内装で壁のほとんどに微笑んだ天使が描かれていた。そしてまるでその天使に後光が差しているかのように店内はピカピカに掃除されていた。
「ハァ……」
疲れからか思わずため息が漏れる。涼しさに力が抜けて持っていたハンカチが手から滑り落としてしまった。拾おうと軽く屈んだところで、さっきまで料理を運んでいた店員が近寄ってきた。
「お客様一名様ですか?」
透き通った綺麗な声が聞こえてきた。女性の声だ。
「あぁ、はい」
ハンカチをポケットに仕舞い込んで返事をしながら腰と顔を上げた。店員と目が合う。
瞬間、僕は今までにないほどの衝撃を受けた。
「綺麗な人……」
漏れるように口から零れた。
「えっ?」
「あっ……やべ、えっと……」
気がついた時には言葉にしていた。店員は僕の急な言葉に驚いてから下を向いて頬を桜色に染めていた。
しかし、僕だって驚いている。声に出してしまったこともそうだが、何よりもこの世にこれほどの美人がいたなんて……。
芸能人すら凌駕するだろう整った顔立ちと、真っ白くすらっと長い脚など、天使や女神といった比喩がピッタリきそうなどれをとっても完璧な女性が目の前に立っていた。
「あの……」
「すいません。すごくお綺麗だったのでつい」
「あ、いえ、ありがとうございます」
「「……」」
お礼を境に沈黙が流れる。小恥ずかしくて彼女の方から顔を背けた。
「あの、席に……」
「あ、はい。こちらの席でよろしいでしょうか?」
「はい」
沈黙を破ったのは僕だった。後ろに新しい客が来るのがわかったからだ。お互いぎこちない会話と行動をしながら、僕はなんとかドリンクバー近くの席に案内されてそこに座った。本当は人通りが少ない席が良かったのだが、これ以上会話が出来る精神状態ではなかったから、素直に頷いたのだった。
店内は想像していたより幾分か空いていて、料理が来るのにそれほど時間はかからなかった。
店に入ってから約四十分が過ぎて、頼んだハンバーグも後一切れを残すだけとなったが、僕の本心はもう少しここにいるようにと語っていた。
仕事がまだまだ残っているというのにそんなことを思っていた理由は、冷房やドリンクバーがあるからといったものではなく、やっぱりあの美人をもう少しだけ見ていたかったからだった。
男とはつくづく馬鹿な生き物だ。気がつけばずっと彼女を目で追っていた。彼女を見れば見るほど、その黒く長い髪や丁寧さ滲み出る言葉遣い、笑った時に出来るえくぼやその時一緒に見える白い歯など、全てが魅力的に感じられて仕方なかった。
一目惚れだった。
ふと、我に戻って時計を見ると時刻は一時三十分になろうとしていた。食事を終えてからかれこれ三十分近くも飲み物を飲みながら彼女を見ていたのかと思うと、我ながら気持ちが悪かったし店にも悪いと思ったから、そろそろ出ようかと僕は鞄を持って立ち上がった。
伝票も持ったところでレジに向かう。前の席を過ぎてから左に曲がると財布を取り出して中を確認しながら歩いた。
子供向けのガムや飴が飾ってあるガラス製の棚の前で立ち止まると、店員を呼ぶベルを押した。
「ありがとうございました」
僕の後ろの方から声を出してレジに向かってくるその人が、彼女だと振り返ることなくその声で知る。僕は少しドキッとして目の前に来た彼女の顔を見つめたが、彼女はもうなんともないようで僕と目が合うとニコッと笑った。
その笑顔に心臓の鼓動は一気に高まったが、お金を払ってお釣りとレシートを貰うだけという一分にも満たない時間の中での簡単な作業の合間に、彼女と僕に何かが起こるようなことはなく、お釣りを仕舞うと再び鞄を持って扉の方へ歩き出した。
頭の中でまた来ようかどうしようかという議論を展開させる。
「また来てくださいね」
頭の中を覗いたような彼女の発言に一度歩みが止まった。
あのニコッとした笑顔で言ってくれたのだろうことは声のトーンだけで分かった。ただの店員としての言葉なのも悩むまでもなく分かっていたが、僕は絶対にまた来ようと心に決めた。
店を一歩出るとまたあの暑さとの戦いが始まるのだった。吹かない風と照りつける日差しは体力と共にやる気すら奪っていく。ルンルンと良くなっていた気分も次第に落ち込んでいった。
「ハァ……よし、頑張ろう」
五時に会社へ帰るとして後三時間弱はある。暑いからとへばってばかりもいられない。そんな思いで自分の頬を両手でビシッと音が鳴るように叩いた。
午後五時十二分。僕は今日一日の仕事を全て終わらせて会社へ向かっていた。
暑さのピークは過ぎて気温は下がり、熱風ではない涼しい風も吹き始めていたが、ヘトヘトの僕にはそのことに感動する余力は残されていなかった。
数十分歩いたところで会社が見えた。もう少しだと自分に言い聞かせると、最後の力を振り絞るようにして少し速く歩いた。
冷房の効いたビルの中に入ると、いつも見る受付のお姉さん二人と目が合った。軽く会釈をして前を通り過ぎると奥へ進んだ。エレベーターを呼ぼうとボタンに人差し指を向けたところで、丁度上から人が降りてきた。
知らない男……他の部署の奴だろう。
乗り込んだエレベーターの中で一人、顔を思い出しているとすぐに階に着いた。縦に長く取り付けられた木の取手を掴んで中に入ると、資料の詰まったダンボールをよけながら、すぐに自分のデスクに着いた。
特に見たいテレビがあるわけではないが、今日みたいに疲れた日は早く帰って風呂上がりのビールを美味しく飲みたいという思いはあった。
金曜日だからだろうか会社に残って作業している人は少なく、僕がいる営業部もガランとしていた。
皆は家で業績をまとめているのか、または今日はいい取引が決まらなくて会社に戻って来てまでやることがないのか、それは定かではなかったが、もし、安らぐべき家でまで仕事をしているのだとすれば、僕からしたら絶対に有り得ないことだった。
パソコンに今日の仕事内容をまとめるのにそれほど時間はかからなかった。時計の針はまだ七時を指す気配はなく、僕は自分の仕事の速さが少し嬉しかった。
鞄を持って会社を後にする。辺りは暗がりに近づいていて僕は今日も頑張ったなと自分を褒めながら、いつも通り最寄り駅までの十五分程度を歩き出した。
「明日はどうしよっか」
仕事から開放された金曜日にだからこそ出てくる言葉を、目の前でもう沈みそうになりながら浮かぶ夕日に向かって言った。当然夕日は何も返してはくれない。
ふと、頭に彼女の笑顔が浮かんだ。今日の昼食を食べたファミレスで働いていた天使のようなあの子が思い浮かんだのだ。
本当に綺麗な人だった。
そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にか駅に着いていた。どこをどう渡ってここまで来たのか自分でもあまり覚えていない。信号は無視していなかっただろうか、車のクラクションも聞き逃していたのではないだろうか。急に少し怖くなった。
電車では眠気を堪えるのに必死だった。両脇に誰もいない席を選んで座ったはずだったのに気が付くと隣の女性の肩に頭を乗せていた。
「あ、ごめんなさい」
頭を跳ね上げて横を向いて謝ると女性は苦笑するだけで許してくれた。が、乗っていた三十分の間には他に何度か意識が遠のいた。
電車を降りて階段を上り、駅を東口の改札から出れば後はもう家まで五分ほどしかない。
東京にある会社の最寄り駅から電車で三十分の埼玉県大宮市にある僕の家は、いわゆるアパートというやつで広くもなければ綺麗でもない。だがまぁ、男の一人暮らしと言えば普通は誰でもこんなものだ。
貯金もあるしもう少しいいところに住もうと思えば住めるのだが、彼女もいない三十代目前の男が一人で豪邸に住む意味が果たしてあるのか、僕には全くもって疑問でしかなかった。
だから、何度同僚にいい物件を紹介されようとも引っ越す気はさらさらなかったし、仕事場に行くまでの道を遠いとも思ってはいなかった。
部屋に入るとすぐにテレビのリモコンを取ったが、点けることなくソファの方へ放り投げた。テレビを見ようと思ったが、疲れからすぐに風呂に入って寝ようと考えを変えたのだ。
もちろん酒は飲む。それでも十時には布団に入ろうと心に決めた。
夏の暑い日でも疲れた日には必ず風呂を沸かす。先に浴槽を洗ってから次にお湯の蛇口を捻って、水を少しずつ出していって最適な温度になったところで湯船を貯めた。