Section3-7 恐ろしくも美しい死と雪の怪異
その場で人化を解こうとするグリフォンを諌め、レストランを出て一旦ひと気のない街外れまで走ったアリサたちは、文字通り空を飛んで自宅のあるカミーノールへと帰ってきた。
行き以上の超スピードだったが、緊急事態なのでアリサは頑張って堪えた。緊張のせいか、一度経験したおかげかわからないが、幸い今回は吐き気を催すようなことにはならなかった。
「畑に誰かいる!」
上空から見た畑に複数の人影が侵入している。アリサは戦慄した。なぜなら『人間』は一人だけであり、他は全て真っ白い紙で作られたような等身大の人形にしか見えなかったからだ。
「な、なに? あの白いの?」
「フン、魔術師の使い魔か。マフィア共ではなさそうだな」
周囲に重機の類は見当たらない。マフィアじゃないなら安心――というわけにはいかないことはグリフォンの雰囲気から察した。寧ろただの人間でしかないマフィアたちの方がマシだという感じだ。
「あの人、なにをしているの?」
使い魔とやらを使って畑を破壊しているようには見えない。それどころか、アリサがまだ手つかずだった部分を――
「耕してる……?」
本当に、なにをしているのだろうか?
「こそこそ隠れるのは好かんが、近づいて様子を見るぞ」
グリフォンが翼を広げて静かに降下していく。着地と同時に人の姿に戻ったグリフォンと共に、近くの林に隠れて様子を窺うことにした。
グリフォンが風を繰る。
と、聞き覚えのない声がその風に乗ってアリサの耳にも届いてきた。
『ハハハ、炎天下の中で農作業というのもなかなか気持ちがいいね』
麦わら帽子をかぶり、首に白いタオルを巻いた青年が爽やかに額の汗を拭った。彼はアリサの家にあった壊れかけの鍬を使って物凄く丁寧に、それでいて信じられない速度で畑を耕している。
『修吾、勝手に畑を触っちゃダメだと思うわ』
今度は女性の声。上空にいる時は気づかなかったが、アリサの家の日陰に誰かがいる。
「うわぁ」
それは同性のアリサでも思わず声が出てしまうほど神秘的な少女だった。氷細工のように綺麗な白銀の髪に、雪のごとき白い肌。纏っている芸術品のような色合いの服は……確か日本という国の着物だ。話には聞いたことはあったが、アリサは初めて実物を見た。
『でもこの畑、誰かに破壊されていたようだし、ちょっと見てられなかったんだよね。ほら、君と実家を飛び出してから秋幡主任に声をかけられるまでは、本格的に農家を目指すつもりだったし』
『初耳だわ』
『あと待っている間は暇だから、ね。いい運動になるよ。君もやらないかい?』
『嫌よ。溶けてしまうわ。私は修吾の働く姿を見てるだけでいいわ』
『ハハハ、それなら冷たいお茶でも用意してくれると嬉しいな』
『……わかったわ。冷やすのは得意よ』
少女はビニール袋からペットボトルのお茶を取り出すと、なにやら大事そうに胸に抱えた。そして数秒後、トタタッと小走りで楽しそうに土を整備する青年の下まで駆け寄る。
少女からお茶を受け取った青年は、一気に三分の一ほど飲み干してからプハーッと大きく息を吐いた。
『うん! 生き返る!』
『修吾はなんでも美味しそうに飲むわ』
青年の仕草に少女はクスリと笑った。なんか彼らの周囲にだけ可視化された幸せオーラが溢れているような気がする。
……。
…………。
………………。
「えっと、あの人たち、なんなの?」
緊張感がこれっぽっちもない。本当にただ畑仕事をしている農家の若夫婦に見えてきたアリサである。
「チッ、連盟の魔術師か」
だが、グリフォンはそうじゃないらしい。厄介そうな表情で青年を睥睨している。
『その通り。隠れていないで出てきてくれないかな?』
風に乗った声が唐突に話しかけてきた。見ると、青年は手を止めてニコニコした笑顔をアリサたちに向けていた。
「バレてる!?」
「お前はここにいろ」
グリフォンはアリサの頭を押して無理やりしゃがませると、堂々と彼らの前へと出て行った。
∞
指先に魔力を込め、腕で宙を薙ぎ払う。
発生した風刃が農作業を行っていた紙人形たちを一瞬で斬り裂いた。舞い散った紙人形たちの破片は青白く発火して空中で消滅する。
「貴様ら、誰の許可を得て王の領地に踏み込んだ?」
青年を睨みつけ、〝王威〟を発動させる。街で使っていたような軽く竦ませる程度ではない。並の魔術師なら確実に失神するレベルの強さまで引き上げている。先に紙人形たちを潰したのは、生物――正確には感情のある存在――以外だとグリフォンの〝王威〟が効かないからだ。
しかし――
「勝手に畑に入ったことは謝るよ。でも家には入ってないし、なにも盗ってないから安心してくれ。あ、鍬だけちょっと借りているよ」
青年はグリフォンに威圧されても、それに気づいてすらいないような涼しい顔でそう答えた。
――俺の〝王威〟を物ともせぬか。
これで奴が並の魔術師ではないことが判明した。
「君に用があるんだ、グリフォン君」
正体は既にバレている。
「フン、そこまで知られていたのなら、わざわざ街で人間の目を気にする必要などなかったな」
「いやぁ、それは流石にパニックになるから今後もそうしてもらうと助かるよ」
苦笑する青年に、グリフォンはニヤリと口の端を吊り上げる。
――人間ごときがどこまで堪えられるか見せてもらおう。
カッ! とグリフォンは目を見開き、〝王威〟の出力を跳ね上げた。初見で不意打ちとはいえ、ウロボロスやウェルシュ・ドラゴンといった強力なドラゴン族すら屈服した威圧は、思いっ切り頭を殴りつけたかのように青年をよろめかせた。
だが、それだけだ。
「なるほど、これが〝王威〟の特性か。話には聞いていたけれど、実際に受けてみるとなかなか堪えるね。でも、思ったほどじゃないかな? この程度でヴィーヴル君が後れを取るとは思えない」
青年は威圧の中でも爽やかな笑顔を崩さず、しっかりと両足で地を踏み締めてグリフォンに告げる。
「君、もしかして〝王威〟が弱まっているんじゃないのかい?」
「……」
グリフォンは黙って〝王威〟を解除した。図星だったからだ。これ以上やっても無意味だとわかった以上、無駄に特性を使って消耗するのは愚策だ。
〝王威〟の特性は戦いで勝利するごとに強化されていく。勝って勝って勝ち続けて、グリフォンはドラゴン族すら屈服させるほどの力を手に入れていた。
だが逆に、一度負けると力は大きく削がれてしまうのだ。ウロボロスとの戦いでの敗北――そのたった一つの黒星は、これから百の勝利を重ねる程度では取り戻せない痛手だった。
それを初見で見抜いたこの青年は、グリフォンが脅威と思うに値する存在だ。
「この俺に名乗ることを許す、魔術師」
「葛木修吾。世界魔術師連盟所属の懲罰師だよ」
やはり連盟の魔術師だった。本名かどうかはわからないが、素直に名乗ったのは余程実力に自信があるか、それとも敵意がないことを示すためか。
どちらにせよ構わない。懲罰師ということは、『黎明の兆』に雇われていたグリフォンを狩りに来たのだろう。
「その名、俺の〝王威〟に堪えられた数少ない人間として覚えてやろう。誇りに思って死ぬがいい」
グリフォンは風を纏う。
面白い。久々に実戦らしい実戦でリハビリができるいい機会だ。元の〝王威〟を取り戻すためにも、奴らには敗北してもらう。
「ああ、待ってくれないか。僕たちは戦いに来たわけじゃない。君と話をしたいんだ」
「却下する。俺との謁見がしたければ手土産でも持ってくるべきだったな」
青年――葛木修吾の言葉が嘘でも真でも関係ない。こちらには話すことなどないのだ。奴がどんな企みを胸に秘めていようと、問答無用で引き裂いてしまえばいい。
「わかった。じゃあ、せめて場所を変えよう。ここだとせっかく耕した畑がダメになっちゃうから――」
「貴様を一瞬で殺せば問題ない話だ!」
グリフォンが残像を生み出すほどの速度で修吾へと迫る。指を鉤状に曲げ、風の刃を纏い、振り下ろす。
バチィ! と。
あの一瞬で護符を取り出して張ったらしい防御結界とグリフォンが衝突し、激しくスパークする。だがそんな薄い壁ではグリフォンの攻撃は防げない。拮抗はほとんどせず結界が砕け割れ、修吾は弾かれたように後ろへと吹っ飛んでいった。
と、心なしか周囲の気温が下がった気がした。
いや、畑の土や作物に霜が降りている。それどころか急速に凍り始めている。
「グリフォンさん!?」
アリサの悲鳴を聞き、グリフォンは後ろに大きく跳躍した。
刹那、上空から降ってきた巨大な氷塊が一瞬前まで立っていた場所を押し潰した。
「せっかく修吾が優しく言っているのに、話を聞かないなんて頭の悪い鷲獅子だわ」
犯人は、今まで日陰から動こうとしなかった女。凍てつくような青い瞳に睨まれたかと思えば、突如発生した猛吹雪にグリフォンは襲われた。
雪の一粒一粒が体から体温と生命力を奪い去っていく。グリフォンは風を爆発させて吹雪ごと周囲の冷気を吹き飛ばした。
「氷……貴様、スノーウーマンか」
「だからどうしたのかしら?」
幻獣スノーウーマン。
日本では『雪女』や『雪娘』などと呼ばれている。常に〝死〟を示す白装束を身に纏い、男に冷たい息を吹きかけて凍死させたり精を吸い尽くして殺したりする〝雪〟の妖怪。〝氷柱〟と結びつけられることもあるこの幻獣は、室町時代より語られるほど古く強大な怪異になる。
だからと言ってグリフォンの敵ではない。
射出された氷柱の弾丸をグリフォンは素手で砕き割る。
「雑魚が! 王たるこの俺をその程度の氷で仕留められると思うな!」
吼えると、雪女は無表情のままムッと頬を膨らました。
「私、甘く見られているわ。氷漬けにしてあげる」
雪女が手を口に添えて息を吹きかける。すると空気が一瞬で凍りつき、巨大な氷刃となってグリフォンに向かって飛んだ。
グリフォンも腕で空気を薙ぎ、飛ばした風刃で雪女の氷を迎撃する。
その寸前――
「やめるんだ二人とも!」
間に割って入った葛木修吾が、護符から取り出した日本刀を居合の要領で一閃した。すると風は散り、氷は砕け、やや冷えた微風だけが残って両者の肌を撫でた。
――なにをした、この人間?
グリフォンと雪女の戦闘は、多少力がある程度の魔術師ごときが介入できるようなものではなかった。それなのに、たったの一撃で両者の攻撃を相殺したとあれば……グリフォンは修吾の実力をもう二回りは認識し直さなければならないだろう。
「……修吾、大丈夫?」
雪女が修吾に駆け寄り、ぴとりと寄り添った。まるで恋人同士のような関係にも見えるが、そんなことはグリフォンにはどうでもいい。
「貴様、俺の風を斬ったのか?」
問いかけるが、修吾はグリフォンを見ていない。戦闘によって荒らされた畑にしゃがんで凍てついた土を手で掬っている。
「ほら、せっかく耕した畑がめちゃくちゃだ。いや、これはこれで別の作物を植えられる環境が整ったのかな。うん、均してライ麦でも植えたらいいかもね」
なんかすぐに解決案を思いついたらしくぶつぶつ呟き始めた。
「今一度問うぞ、人間。貴様、なにをした?」
「ハハハ、大したことはしていないよ。僕は陰陽剣術が得意でね、ちょっと事象の因果を断ち斬っただけさ。要するに君の風が起こす切断と破壊、六華の氷による刺突と凍結を斬り捨てて発生しないようにしたんだ」
謙遜も甚だしい。因果の切断など、なにが大したことではないだ。人間の魔術だけとは思えない。恐らくあの刀にも秘密があるのだろう。
グリフォンの個種結界を破ったのもその技に違いない。
「素直に手の内を晒すとは、やはり貴様は馬鹿のようだ。ならば、貴様が斬り捨てられないほどの『結果』を引き起こせばいいだけだろう」
「うん、確かに僕の〈因果斬り〉は刀の届く範囲だけになるから、そうなると困るね」
爽やかに笑う修吾は全く困っているようには思えなかった。これほどの魔術師だ。手札がそれしかないと考えては命取りになる。
「どうしても話を聞く気はないかな? 君にもメリットがある話だ。ハッキリ言って、まともに戦えば僕は君に勝てないからね」
「降参するのなら潔く死ぬがいい」
グリフォンは真っ二つに引き裂くつもりで袈裟斬りに腕を振り下ろす。修吾と雪女は紙一重で跳び退ってかわした。
聞く耳など持たない。無論、追撃は容赦なく行う。
「ハハハ、参ったな。もうちょっと話し合いの余地があると考えていたんだけど」
「だから修吾は楽観的すぎるわ」
どういうわけか逃げながらもどこか楽しそうな二人。グリフォンに追われてもこれほどの余裕を見せている相手は初めてである。
癇に障る。
逃げられる余地など与えない。塵も残さず消し飛ばしてくれる。
「終わりだ。連盟の魔術師」
グリフォンは魔力を急激に高め、五本もの天を衝く巨大竜巻を出現させた。
その時――
「きゃあああああああああああああああっ!?」
林の方角から、アリサの悲鳴が轟いた。