Section3-6 換金と買い出し
ディングルはアイルランドのケリー州――大西洋に突き出たディングル半島で唯一の『街』である。
人口は約二千人。カラフルな街並みながらも落ち着いた雰囲気があり、地元の人々だけでなく観光客でも賑わっている。『ディングル・マート』という農家のための家畜マーケットや、ネオゴシック様式で建てられた聖メアリーズ教会、水族館などもあり、観光業と農漁業を産業の基幹に置いていることがわかるだろう。
そんなディングルの街外れに、巨大な猛禽類の翼と立派な獅子の胴体を持った怪物が降り立った。
「着いたぞ。降りろ」
「ちょ、ちょっと……待って……」
グリフォンの背中でぐったりしているアリサは、生身でジェット機にでも張りついていたかのような凄まじい体験にいろんな意味で参っていた。どうして生きているのか自分でも不思議なくらいである。
最初はグリフォンの真の姿を目の当たりにしてテンションが上がっていた。彼に乗って空を飛ぶことに物語の登場人物にでもなった気持ちで期待に胸を膨らませていた。
だが、実際乗ってみるとそんなロマンチックなど欠片も存在しなかった。
グリフォンが風で守ってくれているとはいえ、直線距離にして約十四キロを一分足らずで駆け抜けたのだ。その時速は八百四十キロを超えている。景色なんて見ている余裕すらない。
あと、揺れる。
超揺れる。
「うっ」
「待て!? 俺の背で吐くことは許さんぞ!?」
口を押えたアリサを、珍しく慌てたグリフォンは嘴で摘まんで強制的に地面へと下ろした。なんとか胃の中を戻さなくて済んだアリサだったが、しばらくは生まれたての小鹿のごとくプルプルと立つことさえままならなかった。
「……グリフォンさん、帰りは、ゆっくりでお願い」
「善処しよう」
グリフォンも背中で吐かれては困るのか、今回は素直にアリサのお願いを聞き入れてくれた。
そうしてしばらく休憩してから二人は街へと繰り出した。
「まずはこれを換金する」
人間の姿に戻ったグリフォンが担いでいた麻袋を示す。そうしなければ一ユーロも持っていないので当然だ。
「どこかいい場所を知っているか?」
「うーん、宝石を売ったりなんてしたこと……あっ、そうだ」
顎を指で持ち上げるようにして考えていたアリサは、ふと昔のことを思い出す。
「前にお母さんと来た時、いらないものを買い取ってくれるお店があったはず。えっと、確かこっち!」
グリフォンの手を引いて裏路地へと入っていく。そこには古びているもそれなりに設けていそうな店がひっそりと佇んでいた。
「よかった。まだあった」
「フン、質屋か。怪しいが、寧ろ下手な宝石店よりはマシかもしれんな」
店の中には高級そうな腕時計や指輪などが入ったショーケースが並んでいた。奥にはムスッとした初老の店主が胡散臭そうにアリサたちを睨んでいる。
グリフォンは迷わず店主へと歩み寄った。
「これを買い取れ。全部だ」
「あぁ?」
店主は怪訝そうにグリフォンを見上げるが、目が合った瞬間怯えたように体を震わせた。それからすぐに視線を外すと、せっせと麻袋の中身を確認し始める。
「……一粒三ユーロってところか」
「ふざけるな。原石とはいえ、この俺が選別した宝石だぞ。その程度の価値なわけがなかろう」
「儂の鑑定にケチをつけるなら他をあた――」
「一粒最低五百ユーロだ。それ以下で買い取ろうとすれば貴様の首を刎ねる」
「ひぃ!?」
グリフォンが睨みを利かせると、店主は竦み上がって想定以上の金額を出してくれた。現金をケースで受け取り、「またのおこしを!」と咽び泣く店主に見送られて店の外へと出る。
「い、いいのかな? こんなことして」
「構わん。詐欺を働こうとしたのは向こうだ。まあ、あの原石はきちんと研磨すればこれ以上の価値にはなる。店主の損にはなるまい」
どう考えても〝王威〟で脅していたのだが、通報されていないか不安になるアリサだった。
「次はどうするの?」
「お前の服を買う」
「わたしの服ね。……わたしの服!?」
予想外の回答にアリサは瞠目してつい大声を上げてしまった。周囲の人々が何事かと注目してくる。恥ずかしくなったアリサは真っ赤な顔を隠すように俯いた。
「言ったはずだ。王の所有物であるお前には着飾る義務がある。いつまでもその薄汚れた作業着のまま俺の前に立たれると不快だ」
「え、ええぇ……」
確かに昨日もそんなことを言われたが、まさか本当に買ってもらえるとは夢にも思っていなかったアリサである。
少し緊張しながら街のアーケードを歩いていると、いかにも高級そうな洋服店を見つけた。こういう場所には入ったことのないアリサは怖気づいてしまうが、グリフォンはなんの躊躇いもなく堂々と入店してしまう。
慌てて追いかける。
「いらっしゃいませ~」
すぐにニッコニコした営業スマイルの女性店員が声をかけてきた。
「どのようなものをお探しで?」
「え? あの、その、えっと……」
店員はアリサの間違いなく貧乏な格好を見ても顔色一つ変えない。気圧されたアリサは、なんと答えればいいかわからず口をパクパクさせてしまう。
代わりにグリフォンが店員に告げる。
「こいつに合う服を寄越せ。貴様の感覚で選んで構わん」
「ひえっ!? か、かかかかしこまりました!?」
ビクリと飛び跳ねた店員は今にも泣きそうな顔で走り去ってしまった。どうやらまた〝王威〟で威圧したらしい。
「グリフォンさん! いちいち店員さんを睨まなくていいから!」
流石にこれにはアリサも怒らないとマズい気がした。今後店どころかディングルの街自体に出禁となっては非常に困る。
「いくつかお持ちしました。こちらで試着できますが」
「お願いします」
グリフォンに応対させてはいけない。その思いが緊張を上回り、アリサは先程よりもしっかりと発音して店員の後へとついて行く。
試着室に入り、渡された服に着替える。キャラメルのお菓子がプリントされたオフショルダーのワンピースに、ストライプのソックス。どことなく子供っぽくて奇抜な感じもするが、これはこれで可愛い気もする。
姿見の前に立つ自分が別人のように見え、アリサはちょっとウキウキしながらカーテンを開いた。
「えっと、グリフォンさん。これ、似合ってるかな?」
「知らん」
華やかになったアリサの格好を見ても、グリフォンは眉一つ動かさなかった。なぜかムッとしたアリサは、次に店員が渡してくれた服を持って試着室に戻る。
Tシャツにキャミソールにホットパンツ。店員のチョイスのせいかこれも幼いイメージを抱いてしまうが、今度こそはとカーテンを開く。
「これはどう?」
「お前が気に入ったのなら買えばいい」
グリフォンはアリサを見てすらいなかった。近くのアクセサリー売り場で宝石や真珠を凝視している。ぷくぅと頬を膨らますアリサに、店員だけが「とてもよくお似合いですよ」と誉めてくれたが、なんか嬉しくない。
不貞腐れながらも次の服に着替える。
ノースリーブで襟ぐりが腰まである胴衣にパフスリーブのブラウス。ロングスカートは少し歩きづらいが、アリサ的にはこれが一番可愛くて気に入った。大き目のリボンのあるカチューシャを頭につけ、三度目の正直ということでカーテンを勢いよく開ける。
「グリフォンさん! じゃあこれはどう!」
「だからなぜ俺に訊く? この俺に人間の美的感覚を問うな」
グリフォンもグリフォンで呆れた様子だった。自分から服を買ってくれると言い出したのにこの無関心。なんだか腹が立ってきたアリサである。
「(わかんないなら作業着のままでいいんじゃ……)」
「なにか言ったか?」
「なにも言ってないよ」
結局、アリサは店員が持って来た服を全て買うことにした。ほとんどヤケクソだった。
「なにを怒っている」
「知らない」
最後に試着した服はそのまま着て店を出た。ぷんすかしていたアリサだが、次に入った生活用品店で並べられた新品の調理器具を見るや怒りなど吹っ飛んでしまった。
使い古されたフライパンや鍋、包丁なども一新する。棚一面にずらりと並んだ香辛料や調味料を見ただけで飛び跳ねたくなった。最初は全力で遠慮するつもりだったアリサであるが、グリフォンが頑なにお礼ではないと言うのだからお言葉に甘えまくることにした。
毛布や枕などの寝具も購入。農具に新しい野菜の種に害獣避け。その他必要だと思う物をあれやこれやと買いながらアーケードを練り歩いている内に、いつの間にか緊張は完全に消えていた。
ショッピングがこんなに楽しいなんて知らなかった。
「あっ」
気づいた時にはアーケードを通り過ぎていた。目の前には大きな敷地と壮麗な建物があり、中から子供たちのはしゃぐ声が聞こえてくる。
公園ではない。
初等教育の学校だ。
浮かれすぎて気づくのが遅れてしまった。
「……」
休み時間なのだろう。わいわいと楽しそうに集まって遊具で遊ぶ子供たちを見て、アリサは複雑な気持ちになった。もし自分の家が普通の家庭だったら、今頃はあの中に混じって――
「なにをしている? この辺りに店はない。戻るぞ、アリサ」
「……うん」
気を遣ってくれたのか、グリフォンがさっさと来た道を戻り始める。少し名残惜しさを感じたものの、アリサは遅れずに彼の後を追いかけた。
「飯にするぞ」
そうこうしていると昼時になり、大荷物を器用に持ち運ぶグリフォンがテラス席のあるレストランを顎で示した。
テラス席に座って出された水を飲み、ショッピングで舞い上がっていたテンションがどうにか落ち着きを取り戻す。そうなると、今度は今まで考えなかった不安が急に押し寄せてきた。
「どうした?」
店員に尊大な態度で注文したグリフォンがアリサの顔色が変わったことを察した。アリサは申し訳なさそうにグリフォンを見ると、思ってしまった不安の内容を打ち明ける。
「あの、本当に二人とも家を出てよかったのかな?」
「なにがだ?」
「また、マフィアの人たちが来たら……」
今、アリサの家には当然誰もいない。帰ってみたら家も畑も更地になっていたでは冗談抜きで笑えなくなる。
だが、グリフォンはそんな心配など微塵もしていないようだった。
「案ずるな。あの辺りには個種結界を張ってある」
「こしゅけっかい?」
聞き慣れない単語をアリサは鸚鵡返しで訊ねた。
「幻獣がその特性を付与して展開する結界だ。普通の人間は本能的に近づこうとしなくなるし、俺の場合は無理やり中に入ろうとしても〝王威〟に威圧され、風で押し出される」
「ほえー」
よくわからないが、大丈夫ということだけはなんとなく伝わったアリサである。注文したパスタが届いたのでフォークに巻きつけていると――
「あれ? なんだろ?」
店の前の通りに人だかりができていることに気づいた。
「おい聞いたか? また失踪事件だってよ」
「これで何件目だ」
「最近多いわね。どうなっているのかしら?」
「そこに被害者のバッグが落ちてたんだと」
「飛び散った血痕も見つかったって」
「やっぱりバケモノに食われちまったんじゃねえか?」
「やだ恐いわ」
人だかりは路地裏の入口を注目しているようだった。あの奥で誰かが誘拐されたのだろうか? よく見ると警察の人もいて現場検証と野次馬たちの整理をしている。
「グリフォンさん、失踪事件だって」
「らしいな」
グリフォンは失踪現場を一瞥もせずローストビーフを口に運んでいた。
「興味ないって顔してる」
「お前はあるのか?」
「興味というか……もし自分がそうなったら怖いなぁとか、いなくなった人は大丈夫かなぁとか」
「くだらん。王の所有物に手を出す人間がいれば八つ裂きにするだけだ」
「守ってくれるのは嬉しいけど、八つ裂きはちょっと……」
グリフォンなら本気でやりかねないので、そこはどうにかアリサがブレーキになれればと思う。いくら悪い人でも、殺してしまうのはよくないことだから。
「む?」
すると唐突に、グリフォンが料理を口に運ぶ手を止めた。彼は口の中に残っていたものを嚥下し、おもむろにどこか遠くを見据える。
それは、カミーノールがある方角だった。
「ど、どうしたの?」
「アリサ、すぐに帰るぞ」
嫌な予感がして訊ねるアリサに対し、グリフォンは仏頂面を獰猛な笑みに変えた。
「面白い。何者か知らんが、この俺の個種結界を破って侵入したようだ」