Section3-1 鷲獅子の王と貧困少女
数日前。アイルランド南西――カミーノール郊外。
周囲を畑と林に囲まれた小さな平屋の中で、青年は意識を覚醒させた。
――……どこだ?
寝かされているのは今にも足が折れてしまいそうな古い簡素なベッド。部屋は狭く、あまりに物が置かれていない。隙間風が入ってくる木製の壁はとても人が住んでいるような環境とは思えなかった。
――俺は、なぜまだ生きている?
ウロボロスに倒され、消滅を待つだけとなったはずの鷲獅子の王は、鮮明になっていく意識で最後の記憶を呼び起こす。
どこかの浜辺に打ち上げられ、よもやここまでかと死を受け入れた時……確か、人間の少女が声をかけてきて――ッ!
ようやくその気配に気づき、視線を真横に向ける。
ベッドの脇、そこに小さな両手を祈るように組んで瞑目している少女がいた。ボサボサに伸びたくすんだ金髪。お世辞にも身なりがいいとは言えない土汚れた作業着。首から提げた手作りと思われるペンダント。人間の美的感覚はわからないが、それでもこの少女がいろいろな意味で貧相だということは理解できた。
「俺を助けたのか、人間?」
上体を起こして声を発する。それすらできなかったあの時から随分と回復しているようだ。魔力もだいぶ取り戻している。
なぜだ?
傷口に包帯が巻かれているが、ただの人間に幻獣を治療できるはずがない。
この少女は何者だ?
「え? あっ! 気がついたんだ。……よかったぁ」
心底安心したように少女はベッドに寄りかかった。
「なぜ俺を助けた?」
「あなた、怪我して死にそうになってたんだよ? そんな人、放っておけないよ」
少女は力なく無理やり微笑んだ。何日も食べていないような痩せ方をしている。自分だって死にそうなくせに、とんだお人好しがいたものだ。
「俺は人ではないぞ」
「?」
少女は青年の言葉を理解できないのか、キョトリと小首を傾げた。彼女が喋っているのはアイルランド英語だが、青年に限らず幻獣の言葉には魔力が宿る。彼女には同じ言語を喋っているように聞こえているはずだ。
となると、理解できなかったのは言葉ではなくその意味。
「貴様は魔術師ではないのか?」
「まじゅつ……え? なに?」
魔術師という単語すら知らない。本当にただの一般人のようだが……どうにも腑に落ちない。さっさと八つ裂きにしてしまってもいいが、そこを明らかにしておく必要はあるだろう。
「ならば、どうやって俺を治した?」
「えっと、わたしの家、電話もなくて救急車呼べなくて……病院まで運ぶこともできなくて……だから、わたしの家で傷の手当てをして……あとは」
少女は覚えていることを一つずつ語ると、先程のように両手を顔の前で組み合わせて目を閉じた。
「ずっと、こうして祈ってた。お母さんが、こうすると早く元気になるって教えてくれたから」
瞬間、青年の中になにかが流れ込んできた。いや、『なにか』などという曖昧なものではない。
これは間違いなく、魔力。
それも、この少女自身の魔力を分け与えているようだ。
だが、少女からは魔力を感じない。
――どうなっている? 祈ることで魔力を生成しているのか? いや待て、そもそもこの人間、魔力を感じなさすぎる。
どんな人間でも多少の魔力は持っているはずだ。でなければ幻獣が人間を喰らう意味がない。全く持っていない人間も中にはいるのかもしれないが、そうだとしてもこの少女にはどこか違和感がある。
祈る彼女から流れ込む魔力を辿る。まるで見えない障壁でもあるかのように彼女の寸前で魔力の流れが一切感じなくなった。
違和感の正体は――彼女が首から提げている手製のペンダントだ。
「そのペンダントは?」
「これは、お母さんが作ってくれたもの。魔除けのお守りで、ずっとつけておくようにって」
ハッキリした。魔除けのペンダントとやらが少女に秘められた魔力を覆い隠している。故に今まで幻獣にも襲われず、魔術師にも見つからず、一人暮らしてこれたのだろう。
一人?
この家には、少女と青年以外の気配はない。
「母はどこだ?」
問うと、少女は表情を陰らせた。
「少し前に死んじゃった。病気で」
「そうか。父もか?」
「お父さんは知らない。わたしが生まれた時にはもういなかったから」
少々デリカシーに欠ける質問だったようだが、別に青年は気にしない。どうせここを離れれば少女とは二度と会うこともないのだ。
「なるほど、俺の状況はだいたい理解した。――望みを言え」
「え?」
「王たる者、恩には報いねばなるまい。命に関わる恩であればなおさらだ。たとえその相手が矮小な人間であろうともな」
「え? ええっ!? あなた、どこかの王様だったの!? いえ、えっと、でしたの?」
「言い直す必要はないぞ、人間。雑魚の言葉遣いで気を損ねるほど俺の程度は低くない」
このままなにもせず立ち去っては王者としての矜持に反する。借りた物を返さないのは下賤な盗賊と同じだろう。
人間に借りなど作らない。
立ち去る前に、この少女には相応の見返りを授ける必要があるのだ。
「ふむ、見たところ貧相な生活をしているようだ。望みは金か? それとももう少しマシな家にでも移るか?」
「ダメ! この家と畑はお母さんが残した大事な物だから! わたしは、ここを離れるつもりはないよ」
少女は今までにない強い意志で反論した。この馬小屋が余程大切と見える。
「ならば金だな。人間とは金が好きなのだろう。この俺ならすぐにでも用意してやれる。どうだ?」
人間の街を襲っては後々厄介なことになるので、適当な鉱山から宝石でも採掘してくればいい。こと宝石に関する嗅覚は種族的に強いのだ。
しかし、少女は首を横に振った。
「いらない。その気持ちだけでいいよ。それよりまだ起きちゃダメ。ちゃんと回復するまで寝てること。あっ、じゃあ、それがわたしの望みってことにして」
少女は無理やり青年をベッドへと寝かせた。確かにまだ万全とは言えない状態だ。介護が必要とは思わないが、もう少し休むことに異議はなかった。
「フン、欲のない奴め」
人間にしては珍しい部類なのだろう。
「あなた、何日も寝たきりだったのよ。お腹空いてるよね? 待ってて、すぐになにか作るから」
「待て」
部屋を離れようとした少女を青年は呼び止める。
「お前の名を聞こう。この俺に名乗ることを許す」
「アリサ・ポッツだよ。えっと、あなたは?」
「グリフォンだ。名ではないが、そう呼ぶがいい」
「うん、わかった。グリフォンさん」
少女――アリサは可憐に微笑むと――トタタッ。今度こそ駆け足で部屋を出て行った。
と、その時だった。
ガガガガガガガガガガガガガガガッ!! と。
けたたましい機械音が家の外から鳴り響いた。