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こちら、婚約破棄のお手順書でございます

作者: はるのあめ
掲載日:2026/07/04

三度婚約破棄された令嬢が、四人目に「破棄の手順書」を渡す話。

「こちら、婚約破棄のお手順書でございます」



初顔合わせの席で、わたしは革表紙の冊子を差し出した。


応接間が静まり返る。


わたしの父は白目を剥きかけ、先方のご両親は紅茶のカップを持ち上げたまま固まった。給仕の手からミルク差しが滑り落ちなかったのは、彼女の職業意識の勝利だと思う。


コルネリア・フォン・リンドナー、二十歳。


婚約破棄された回数、三回。


四人目の婚約者となる予定の青年は、テーブルの向かいで目を瞬いていた。テオバルト・フォン・エッシェン子爵家嫡男。歳は二十二。書物がお好きだと聞いている。


その人が、冊子とわたしの顔を交互に見た。



「……拝見しても?」



「どうぞ」



意外だった。三人目までの反応はこうではない。笑うか、怒るか、聞かなかったふりをするか。だいたいこの三択だった。


テオバルト様は冊子を開いた。目が文字の上を走り始める。


説明しよう。『婚約破棄のお手順書』全四章。


第一章、破談の類型と初動対応。第二章、円満な破談のための交渉手続き。第三章、慰謝料と結納返しの相場一覧。第四章、社交界向け声明文の雛形集。


三度の実体験に基づく、渾身の自信作である。


我ながら、何の自信なのかはわからないけれど。



「あの、テオバルト様。それは冗談の類ではなく——」



「静かに」



短く言われた。わたしではなく、口を挟みかけた自分の母君に向けてだった。


彼は黙って頁をめくり続けた。応接間には、紙の音と、双方の親の胃が軋む音だけが響いた。


長い沈黙のあと、テオバルト様は顔を上げた。



「興味深い。ですが第三章に欠陥があります」



「……欠陥、ですか」



「慰謝料の相場が三年前の水準です。昨年の王国民法改正で基準が変わりました。このままでは、あなたが損をする」



わたしが損をする。


破棄される側の、わたしが。


この人は今、手順書を「使う側」として読んだのだ。しかも、わたしに不利がないように。



「お借りしても? 精読したい」



「……どうぞ」



それが、四度目の婚約の始まりだった。


変な始まり方だという自覚はある。






ここで、わたしの輝かしい戦歴を紹介しておきたい。


一人目は十六の春。相手は侯爵家の三男だった。婚約の半年後、先方の家格が上がり、釣り合わぬという理由で破談になった。わたしは何もしていない。強いて言えば、家格が上がったのはわたしのせいではない。


二人目は十八の夏。伯爵家の嫡男は、婚約発表の夜会で別の令嬢と恋に落ちた。二人は国境まで逃げた。追手をかける気力は、こちらにはもうなかった。お幸せに。


三人目は十九の冬。商会と組んだ投機に失敗した男爵家が、醜聞ごと沈んだ。破談の書状は債権者一覧と同じ封筒で届いた。いっそ清々しい事務処理だった。


おわかりいただけただろうか。


三回とも、わたしに非はない。


非がないのに、壊れた。


だから学んだのだ。婚約とは壊れるもの。ならば、壊れたときに美しく着地する準備こそが淑女の嗜みである。


……という理屈で手順書を編纂したと言ったら、侍女のマルタは遠い目をした。



「お嬢様。それは嗜みではなく、傷の舐め方と申します」



「傷なんてないわ。わたし、一度も泣いていないもの」



「存じております。それが一番の心配なのですけれど」



マルタの言うことは、ときどき難しい。






手紙は十日後に届いた。


封を開けると、几帳面な字がびっしりと並んでいた。



『拝啓 コルネリア嬢。手順書を精読しました。以下、指摘事項を申し上げます。計十七件』



十七件。


第三章の相場改定に始まり、第二章の交渉手続きの穴、第四章の声明文の文法まで。指摘は正確で、容赦がなかった。


腹は立たなかった。むしろ、少し楽しかった。三年かけて編んだ手順書を、ここまで真剣に読んだ人は初めてだった。作者冥利に尽きるというものだ。


いや、冥利に尽きている場合ではないのだけれど。


問題は、手紙の末尾だった。



『なお、別紙として改善案を同封します。ご検討ください』



別紙を開く。


表題を見て、わたしは手を止めた。



『婚約破棄回避のための改善案(第一版)』



……回避?


めくる。目を疑った。


わたしの三度の破談が、類型別に分析されていた。第一の破談、政略変動型。第二の破談、心変わり型。第三の破談、経済破綻型。それぞれに対して、予防策が列挙されている。


政略変動型への対策。エッシェン子爵家は領地経営が安定しており、家格変動の予定なし。証拠資料として過去十年の収支概要を添付する。


経済破綻型への対策。投機は行わない主義である。祖父の代の家訓による。家訓の写しを添付する。


添付されていた。本当に添付されていた。


そして、心変わり型への対策の欄には、一行だけ。



『対策困難。心は資料化できないため。ただし、現時点で僕は他の誰にも興味がありません』



わたしは手紙を持ったまま、しばらく動けなかった。


なんなのだ、この人は。


婚約破棄の手順書を渡されて、怒りもせず、笑いもせず、破棄されない方法を研究して寄越す人がいるだろうか。ここにいた。実在した。



「マルタ。返事を書くわ」



「畏まりました。……あら、お嬢様」



「なに」



「笑っていらっしゃいます」



「笑っていないわ。口の筋肉が緩んだだけ」



「それを世間では笑うと申します」



マルタはときどき、余計なことに詳しい。






それから、奇妙な文通が始まった。


わたしが手順書を改訂して送る。テオバルト様が指摘と改善案を返してくる。月に二度ほどの頻度で、革表紙の冊子は二人の間を往復した。


会うときは、いつもエッシェン家の書庫だった。夜会よりも書庫がいいと言ったら、彼は初めて目に見えて嬉しそうな顔をした。


その日は、手順書の第五版を挟んで向かい合っていた。



「第四章の声明文ですが」



テオバルト様が頁を開いた。



「どの雛形も『双方の合意により』と書き出している。三度とも、あなたに非はなかったのに」



「そのほうが、角が立ちませんから」



「あなたが我慢すれば、ですね」



言葉に詰まった。


彼は責める口調ではなかった。ただ、資料の欠陥を指摘するのと同じ声で、まっすぐに言った。



「この手順書は、よくできています。ただ、一貫した設計思想がある。全篇を通して、あなたが誰も責めずに済むように書かれている」



「……それの、何がいけませんの」



「いけなくはありません。ただ」



彼は冊子を閉じて、表紙を撫でた。



「これは、壊れたときの準備というより。壊れても痛くないと、自分に言い聞かせるための本に見えます」



応接間でも、夜会でも、誰の前でも崩れなかったものが、書庫の静けさの中で音を立てた。


三回。わたしは一度も泣かなかった。


泣く理由がないと思っていた。非がないのだから、傷もないはずだと。傷がないのだから、手順書はただの合理的な備えであるはずだと。


備えあれば、憂いなし。


……本当は、順番が逆だったのだ。


憂いをなかったことにするために、備えていた。



「テオバルト様は」



声が少しだけ揺れた。気づかないふりをして続ける。



「ずるい方ですね。資料の指摘みたいな顔で、そういうことを言う」



「すみません。言い方の資料は、持っていないので」



「……なんですの、それ」



笑ってしまった。目の縁が熱かったけれど、こぼれる前に笑えたので、引き分けということにしておく。


テオバルト様は懐から紙を一枚取り出した。几帳面に折り畳まれた、あの字の並ぶ紙。



「改善案の最終版です」



受け取って、開いた。


一行だけ書かれていた。



『本手順書に、有効期限を設けることを提案します』



「有効期限……」



「期限の日付は、あなたが決めてください。急ぎません。僕は資料を読むのが得意なので、待つのも得意です」



それは理屈になっていないと思う。


思うけれど、指摘しないでおいた。






手順書は今も、わたしの書斎の抽斗にある。


第五版から、改訂は止まっている。直すところが見つからないからではない。開く理由が、見つからないからだ。


表紙の裏には、几帳面な字で日付がひとつ書き込まれている。


来年の春。わたしが決めた、有効期限。


その日付が、そのまま式の日取りになったことについては——まあ、手順書には載っていない展開だったので、仕方がないと思う。


責任は、あの指摘の多い婚約者に取っていただく予定だ。


最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

それでは、また別の物語で。

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