こちら、婚約破棄のお手順書でございます
三度婚約破棄された令嬢が、四人目に「破棄の手順書」を渡す話。
「こちら、婚約破棄のお手順書でございます」
初顔合わせの席で、わたしは革表紙の冊子を差し出した。
応接間が静まり返る。
わたしの父は白目を剥きかけ、先方のご両親は紅茶のカップを持ち上げたまま固まった。給仕の手からミルク差しが滑り落ちなかったのは、彼女の職業意識の勝利だと思う。
コルネリア・フォン・リンドナー、二十歳。
婚約破棄された回数、三回。
四人目の婚約者となる予定の青年は、テーブルの向かいで目を瞬いていた。テオバルト・フォン・エッシェン子爵家嫡男。歳は二十二。書物がお好きだと聞いている。
その人が、冊子とわたしの顔を交互に見た。
「……拝見しても?」
「どうぞ」
意外だった。三人目までの反応はこうではない。笑うか、怒るか、聞かなかったふりをするか。だいたいこの三択だった。
テオバルト様は冊子を開いた。目が文字の上を走り始める。
説明しよう。『婚約破棄のお手順書』全四章。
第一章、破談の類型と初動対応。第二章、円満な破談のための交渉手続き。第三章、慰謝料と結納返しの相場一覧。第四章、社交界向け声明文の雛形集。
三度の実体験に基づく、渾身の自信作である。
我ながら、何の自信なのかはわからないけれど。
「あの、テオバルト様。それは冗談の類ではなく——」
「静かに」
短く言われた。わたしではなく、口を挟みかけた自分の母君に向けてだった。
彼は黙って頁をめくり続けた。応接間には、紙の音と、双方の親の胃が軋む音だけが響いた。
長い沈黙のあと、テオバルト様は顔を上げた。
「興味深い。ですが第三章に欠陥があります」
「……欠陥、ですか」
「慰謝料の相場が三年前の水準です。昨年の王国民法改正で基準が変わりました。このままでは、あなたが損をする」
わたしが損をする。
破棄される側の、わたしが。
この人は今、手順書を「使う側」として読んだのだ。しかも、わたしに不利がないように。
「お借りしても? 精読したい」
「……どうぞ」
それが、四度目の婚約の始まりだった。
変な始まり方だという自覚はある。
ここで、わたしの輝かしい戦歴を紹介しておきたい。
一人目は十六の春。相手は侯爵家の三男だった。婚約の半年後、先方の家格が上がり、釣り合わぬという理由で破談になった。わたしは何もしていない。強いて言えば、家格が上がったのはわたしのせいではない。
二人目は十八の夏。伯爵家の嫡男は、婚約発表の夜会で別の令嬢と恋に落ちた。二人は国境まで逃げた。追手をかける気力は、こちらにはもうなかった。お幸せに。
三人目は十九の冬。商会と組んだ投機に失敗した男爵家が、醜聞ごと沈んだ。破談の書状は債権者一覧と同じ封筒で届いた。いっそ清々しい事務処理だった。
おわかりいただけただろうか。
三回とも、わたしに非はない。
非がないのに、壊れた。
だから学んだのだ。婚約とは壊れるもの。ならば、壊れたときに美しく着地する準備こそが淑女の嗜みである。
……という理屈で手順書を編纂したと言ったら、侍女のマルタは遠い目をした。
「お嬢様。それは嗜みではなく、傷の舐め方と申します」
「傷なんてないわ。わたし、一度も泣いていないもの」
「存じております。それが一番の心配なのですけれど」
マルタの言うことは、ときどき難しい。
手紙は十日後に届いた。
封を開けると、几帳面な字がびっしりと並んでいた。
『拝啓 コルネリア嬢。手順書を精読しました。以下、指摘事項を申し上げます。計十七件』
十七件。
第三章の相場改定に始まり、第二章の交渉手続きの穴、第四章の声明文の文法まで。指摘は正確で、容赦がなかった。
腹は立たなかった。むしろ、少し楽しかった。三年かけて編んだ手順書を、ここまで真剣に読んだ人は初めてだった。作者冥利に尽きるというものだ。
いや、冥利に尽きている場合ではないのだけれど。
問題は、手紙の末尾だった。
『なお、別紙として改善案を同封します。ご検討ください』
別紙を開く。
表題を見て、わたしは手を止めた。
『婚約破棄回避のための改善案(第一版)』
……回避?
めくる。目を疑った。
わたしの三度の破談が、類型別に分析されていた。第一の破談、政略変動型。第二の破談、心変わり型。第三の破談、経済破綻型。それぞれに対して、予防策が列挙されている。
政略変動型への対策。エッシェン子爵家は領地経営が安定しており、家格変動の予定なし。証拠資料として過去十年の収支概要を添付する。
経済破綻型への対策。投機は行わない主義である。祖父の代の家訓による。家訓の写しを添付する。
添付されていた。本当に添付されていた。
そして、心変わり型への対策の欄には、一行だけ。
『対策困難。心は資料化できないため。ただし、現時点で僕は他の誰にも興味がありません』
わたしは手紙を持ったまま、しばらく動けなかった。
なんなのだ、この人は。
婚約破棄の手順書を渡されて、怒りもせず、笑いもせず、破棄されない方法を研究して寄越す人がいるだろうか。ここにいた。実在した。
「マルタ。返事を書くわ」
「畏まりました。……あら、お嬢様」
「なに」
「笑っていらっしゃいます」
「笑っていないわ。口の筋肉が緩んだだけ」
「それを世間では笑うと申します」
マルタはときどき、余計なことに詳しい。
それから、奇妙な文通が始まった。
わたしが手順書を改訂して送る。テオバルト様が指摘と改善案を返してくる。月に二度ほどの頻度で、革表紙の冊子は二人の間を往復した。
会うときは、いつもエッシェン家の書庫だった。夜会よりも書庫がいいと言ったら、彼は初めて目に見えて嬉しそうな顔をした。
その日は、手順書の第五版を挟んで向かい合っていた。
「第四章の声明文ですが」
テオバルト様が頁を開いた。
「どの雛形も『双方の合意により』と書き出している。三度とも、あなたに非はなかったのに」
「そのほうが、角が立ちませんから」
「あなたが我慢すれば、ですね」
言葉に詰まった。
彼は責める口調ではなかった。ただ、資料の欠陥を指摘するのと同じ声で、まっすぐに言った。
「この手順書は、よくできています。ただ、一貫した設計思想がある。全篇を通して、あなたが誰も責めずに済むように書かれている」
「……それの、何がいけませんの」
「いけなくはありません。ただ」
彼は冊子を閉じて、表紙を撫でた。
「これは、壊れたときの準備というより。壊れても痛くないと、自分に言い聞かせるための本に見えます」
応接間でも、夜会でも、誰の前でも崩れなかったものが、書庫の静けさの中で音を立てた。
三回。わたしは一度も泣かなかった。
泣く理由がないと思っていた。非がないのだから、傷もないはずだと。傷がないのだから、手順書はただの合理的な備えであるはずだと。
備えあれば、憂いなし。
……本当は、順番が逆だったのだ。
憂いをなかったことにするために、備えていた。
「テオバルト様は」
声が少しだけ揺れた。気づかないふりをして続ける。
「ずるい方ですね。資料の指摘みたいな顔で、そういうことを言う」
「すみません。言い方の資料は、持っていないので」
「……なんですの、それ」
笑ってしまった。目の縁が熱かったけれど、こぼれる前に笑えたので、引き分けということにしておく。
テオバルト様は懐から紙を一枚取り出した。几帳面に折り畳まれた、あの字の並ぶ紙。
「改善案の最終版です」
受け取って、開いた。
一行だけ書かれていた。
『本手順書に、有効期限を設けることを提案します』
「有効期限……」
「期限の日付は、あなたが決めてください。急ぎません。僕は資料を読むのが得意なので、待つのも得意です」
それは理屈になっていないと思う。
思うけれど、指摘しないでおいた。
手順書は今も、わたしの書斎の抽斗にある。
第五版から、改訂は止まっている。直すところが見つからないからではない。開く理由が、見つからないからだ。
表紙の裏には、几帳面な字で日付がひとつ書き込まれている。
来年の春。わたしが決めた、有効期限。
その日付が、そのまま式の日取りになったことについては——まあ、手順書には載っていない展開だったので、仕方がないと思う。
責任は、あの指摘の多い婚約者に取っていただく予定だ。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
それでは、また別の物語で。




