第2章 消えたはずの足音(続き5)
気づいたらもう目の前にいる
ドアノブが完全に回りきった瞬間、
“彼女の姿をした何か”は、音もなく部屋に入り込んだ。
足音がしない。
呼吸の気配もない。
ただ、そこに“立っている”。
僕は後ずさる。
けれど、足が床に吸い付いたように動かない。
「ねえ……そんなに怖がらないでよ」
その声は、僕の知っている彼女の声に限りなく近い。
けれど、ほんの少しだけ“遅れて”響く。
まるで、別の声が後ろから追いかけてくるみたいに。
「……お前は誰だ」
僕が言うと、彼女はゆっくりと首を傾けた。
その角度が、ありえないほど深い。
骨が折れそうなほど。
コキ……コキ……
首の骨が軋む音が、静かな部屋に響いた。
「誰って……私だよ?」
彼女は一歩、近づく。
その瞬間、部屋の空気が“沈んだ”。
まるで、彼女の周囲だけ重力が強くなったみたいに。
僕は息を呑む。
視界の端で、何かが揺れた。
テーブルの上のマグカップ。
さっきまで二つだったはずのカップが――
三つに増えていた。
白い“Yui”のカップ。
ピンクのカップ。
そして、見覚えのない黒いカップ。
黒いカップからは、湯気が立っている。
「……誰のだよ、これ」
僕が呟くと、彼女は微笑んだ。
「あなたのだよ。昨日、一緒に飲んだでしょ?」
「飲んでない……」
「飲んだよ」
彼女は僕の目を覗き込む。
その瞳の奥で、何かが“揺れている”。
水面のように、ゆらゆらと。
僕の顔が、その揺れの中に映っている。
いや―― 映っているのは、僕の“顔”ではない。
知らない男の顔だった。
僕は息を呑む。
「……誰だよ、これ」
「あなたでしょ?」
彼女は笑う。
その笑顔は、僕の知る彼女の笑顔と完全に一致している。
でも、瞳の奥に映る“僕”だけが、知らない誰か。
「ねえ……どうして忘れるの?」
彼女が一歩近づくたびに、部屋の照明がわずかに明滅する。
影が揺れる。 影が増える。
僕の影が二つ。 彼女の影が三つ。
「……やめろ……」
僕が後ずさると、背中が壁にぶつかった。
逃げ場がない。
彼女は僕の目の前まで来ると、そっと手を伸ばした。
その指先が僕の頬に触れた瞬間――
冷たさが、皮膚の下に入り込んできた。
触れられているのに、触れられていない。
指先が、皮膚をすり抜けて、記憶の奥に触れてくる。
「昨日のこと……思い出して」
「昨日なんて……何も……」
「あるよ」
彼女の声が低くなる。 耳元で囁くように。
「あなた、昨日……私を殺したでしょ?」
僕の心臓が止まった。
「……は?」
彼女は微笑む。
その笑顔は、優しくて、温かくて―― でも、底がない。
「だから、戻ってきたんだよ」
その瞬間、部屋の照明が完全に落ちた。
暗闇の中で、彼女の声だけが響く。
「ねえ……続きをしよう?」




