第2章 消えたはずの足音(続き3)
確実に“何か”が近づいてくる
チェーンが軋む音が、部屋の空気を震わせた。
金属が擦れる、あの嫌な音。
僕は玄関の前で固まったまま、呼吸の仕方すら忘れていた。
「ただいま」
その声は、確かに彼女の声だった。
けれど、ほんの少しだけ“深い”。
声帯の奥に、別の誰かが潜んでいるような響き。
「……やめろ。帰ってくるはずないだろ」
僕が呟くと、ドアの向こうで“クスッ”と笑う声がした。
「どうしてそんなこと言うの? 昨日も会ったのに」
「……昨日?」
僕は思わず言い返していた。
昨日は仕事で遅くなって、帰ってすぐ寝たはずだ。
誰とも会っていない。
「昨日……会ってないだろ」
沈黙。
その沈黙が、逆に耳を刺した。
次の瞬間――
「ねえ、開けてよ。だって……あなた、昨日、私を抱きしめたじゃない」
「……っ!」
背筋が凍る。
そんな記憶はない。
ないはずだ。
けれど、言われた瞬間、胸の奥に“触れた感触”がよぎった。
柔らかい髪。
細い肩。
あの、温度。
「……違う。そんなはずない」
僕は頭を振る。
記憶が勝手に形を持ち始める。
まるで、誰かが僕の脳に指を突っ込んで、記憶をこね回しているみたいに。
玄関の向こうで、鍵がまた回った。
チェーンが揺れる。
「開けて。寒いよ」
その声は、確かに“彼女”だった。
でも、僕の記憶の中の彼女よりも、少しだけ低い。
少しだけ、湿っている。
僕は後ずさる。
そのとき、背後で“パサッ”と何かが落ちた。
振り返ると、リビングのテーブルの上に置いていたアルバムが開いていた。
勝手に。
ページが、ひとりでにめくれる。
1ページ。
2ページ。
3ページ。
止まったのは、僕と彼女が初めて旅行したときの写真。
けれど――
写真の中の僕の顔が、薄く滲んでいた。
「……なんだよ、これ」
滲んだ部分は、まるで誰かが指でこすったみたいに歪んでいる。
僕の顔だけが、世界から消されていくように。
そのとき、背後から声がした。
「ねえ、どうして覚えてないの?」
振り返る。
誰もいない。
でも、声は続く。
「あなたが忘れても……私は覚えてるよ」
耳元で囁かれた。
息がかかるほど近くで。
僕は反射的に振り払うように手を振った。
空を切るだけ。
「……やめろ……やめてくれ……」
そのとき、玄関のノックが再び始まった。
コン、コン、コン、コン
さっきより速い。
焦っているみたいに。
「開けてよ。ねえ、開けて。開けて。開けて」
声が重なる。
ひとつじゃない。
ふたつ、みっつ…… まるで、複数の“彼女”が同時に喋っているみたいに。
僕は耳を塞ぐ。
それでも声は頭の中に直接響く。
「昨日、抱きしめてくれたよね」
「どうして忘れるの」
「私、ずっとここにいたのに」
「ねえ、開けてよ」
玄関のチェーンが、ひとりでに持ち上がった。
金属が、ゆっくりと外れていく。
僕は叫んだ。
「やめろ!!」
チェーンが床に落ちた瞬間、ノックが止んだ。
静寂。
僕は息を呑む。
次の瞬間――
ドアノブが、ゆっくりと回り始めた。




