第2章 消えたはずの足音(続き2)
誰かが入り込んでいるのか?
湯気の立つピンクのマグカップを前に、僕はしばらく動けなかった。
手を伸ばせば触れられる距離に、彼女の“今”がある。
けれど、触れた瞬間に何かが壊れそうで、指先が震えた。
「……こんなの、ありえない」
声に出すと、部屋の空気がわずかに揺れた。
まるで、誰かが僕の言葉に反応したみたいに。
そのとき、スマホが再び震えた。
画面には、また彼女の名前。
『ねえ、怒ってるの?』
「怒ってるわけ……」
言いかけて、言葉が喉で止まった。
僕は、誰に向かって返事をしようとしているんだ。
スマホをテーブルに置くと、背後で“トン”と軽い音がした。
振り返ると、ソファの上に何かが落ちている。
黒い、細いもの。
近づいて拾い上げると、それは――
彼女のイヤリング。
片方だけ。
失くしたと言って、しばらく探していたやつだ。
「……なんで、ここにあるんだよ」
僕の声は、もはや自分のものじゃないみたいに震えていた。
そのとき、耳元でふっと息がかかった。
「だって、あなたが見つけてくれなかったから」
僕は反射的に振り返る。
誰もいない。
けれど、確かに“誰かがそこにいた”気配だけが残っていた。
「……やめろ。やめてくれ」
思わず後ずさると、ソファのクッションが沈んだ。
まるで、誰かがそこに腰を下ろしたみたいに。
沈んだ部分が、ゆっくりと元に戻る。
僕は息を呑む。
視界の端で、何かが動いた。
テーブルの上のマグカップ。
さっきまで湯気を立てていたピンクのカップが――
僕の方へ向けて、少しだけ傾いた。
「……嘘だろ」
その瞬間、部屋の照明が“パチッ”と一度だけ明滅した。
暗闇に沈む一瞬の中で、僕は見た。
キッチンの入り口に、誰かが立っていた。
細い肩。
長い髪。
白いワンピース。
彼女だ。
「……っ!」
明かりが戻った瞬間、そこには誰もいなかった。
ただ、床にひとつだけ落ちていた。
彼女の家の合鍵。
僕が返してもらったはずのもの。
拾い上げると、金属の冷たさが指に刺さる。
その冷たさが、逆に“現実”を感じさせた。
「……俺、どうかしてるのか?」
呟いた瞬間、スマホがまた震えた。
『ねえ、開けて。外にいるの』
僕は玄関を見た。
チェーンはかかったまま。
鍵も閉まっている。
それでも――
コン、コン
玄関の向こうから、ノックの音がした。
「……やめろ……」
声が震える。
ノックは続く。
コン、コン、コン
リズムが、彼女がいつもしていたノックと同じだった。
僕は玄関に近づく。
足が勝手に動く。
心臓が嫌な音を立てる。
ドアの前に立つと、ノックが止んだ。
静寂。
僕は息を呑む。
次の瞬間――
ドアの向こうから、鍵が回る音がした。
僕の手元にあるはずの鍵が、向こう側で回っている。
「……なんで……」
チェーンが揺れた。
金属が軋む。
「ただいま」
女の声が、ドアの隙間から漏れた。
それは確かに彼女の声だった。
けれど、どこかが違う。
ほんの少しだけ、音の“深さ”が違う。
まるで、別の誰かが彼女の声を真似しているみたいに。




