第2章 消えたはずの足音
何かがおかしい
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の輪郭を淡く照らしていた。
僕は目を開けると同時に、胸の奥に沈んでいた違和感が再び浮かび上がってくるのを感じた。
昨夜、確かに聞こえた。
キッチンで食器が触れ合う乾いた音。
誰かが床を歩く、微かな足音。
そして、あの――鼻歌。
「……気のせい、だよな」
声に出してみても、説得力はなかった。
僕はベッドから起き上がり、キッチンへ向かう。
床は冷たく、昨夜の足音の主が残した痕跡などどこにもない。
けれど、ひとつだけおかしなものがあった。
シンクの端に置かれた、見覚えのないマグカップ。
白地に、淡い青で花の模様が描かれている。
僕のものではないし、彼女が使っていたものでもない。
「……いつから、ここに?」
触れると、ほんのり温かかった。
まるで、ついさっきまで誰かが使っていたみたいに。
胸の奥がざわつく。
僕はマグカップを手に取り、裏返してみた。
底には、薄く擦れた文字が残っている。
“Yui”
「……誰だよ、これ」
思わず呟いた瞬間、背後で“コトン”と何かが落ちる音がした。
振り返ると、リビングの棚に置いていたはずの写真立てが床に倒れている。
写真は、僕と彼女が笑って写っているもの。
けれど――
写真の中の彼女の顔だけが、薄く滲んでいた。
まるで、そこにいたはずの人間が、少しずつ世界から消えていくみたいに。
「……やめてくれよ」
僕は写真を拾い上げ、指で滲んだ部分をなぞる。
だが、輪郭は戻らない。
そのとき、部屋の奥――寝室の方から、また音がした。
シャッ……シャッ……
布が擦れるような、誰かがベッドの上で動くような音。
僕は息を呑む。
昨日まで、あの部屋には確かに誰もいなかった。
彼女がいなくなってから、ずっと。
それでも、音は続く。
まるで、誰かがそこに“いる”と主張するように。
僕はゆっくりと寝室のドアに手をかけた。
心臓が、嫌なリズムで脈打つ。
ドアを開けると――
ベッドの上には、誰もいなかった。
ただひとつ。
枕元に、見覚えのあるものが置かれていた。
彼女が最後に使っていた、黒いヘアゴム。
僕はそれを手に取る。
冷たい。
ずっと触れられていなかったはずなのに。
その瞬間、背後から――
「……どうして、捨てちゃったの?」
女の声がした。
僕は振り返る。
そこには誰もいない。
ただ、部屋の空気だけが、確かに揺れていた。




