第1章 静かな同棲生活
説明のつかない物音
翌朝、さくらはいつも通りだった。
「コーヒー淹れるね。今日は仕事、早いんでしょ?」
キッチンに立つ彼女の背中は、昨夜の震えが嘘みたいに落ち着いて見えた。
僕はダイニングの椅子に座りながら、天井を見上げる。
――あの音は、なんだったんだろう。
「ねえ、さくら」
「ん?」
「昨日の夜、本当に何も聞こえなかった?」
さくらはカップを置き、少しだけ眉を寄せた。
「……聞こえなかったよ。私、ぐっすりだったし」
「でも、歩く音みたいなのが――」
「悠斗くん、疲れてるんだよ」
その言い方が、妙に優しすぎた。
まるで、僕が“そう思い込むように”誘導しているみたいに。
さくらは笑って話題を変えた。
「今日、帰り遅くなるかも。会議が長引きそうで」
「そっか。何時くらい?」
「うーん……九時とか、十時とか」
曖昧な返事。
最近、彼女の帰宅時間はよくズレる。
仕事が忙しいのは分かる。
でも、帰ってくるたびに、どこか落ち着かない表情をしているのが気になっていた。
「じゃあ、僕も遅くなるかも。外で食べてくるよ」
「うん。無理しないでね」
さくらはそう言って、僕の頬に軽く触れた。
その指先は、ほんの少し冷たかった。
その日の夜、僕はいつもより早く帰宅した。
玄関の鍵を開けると、部屋は真っ暗だった。
さくらはまだ帰っていない。
靴を脱ぎながら、ふと気づく。
――部屋の空気が、いつもと違う。
湿気が多いわけでも、匂いが変わったわけでもない。
ただ、誰かがついさっきまでここにいたような、そんな気配だけが残っている。
「……気のせいか」
そう言い聞かせながら、リビングの電気をつけた。
その瞬間、背筋がぞくりとした。
テーブルの上に、見覚えのないコップが置かれていた。
僕も、さくらも使っていないデザインだ。
新品ではない。
誰かが、つい最近まで使っていたような、微妙な水滴の跡が残っている。
「……さくら?」
返事はない。
部屋の奥から、かすかに“何かが動く音”がした気がした。
僕は息を呑んだ。
昨夜の音が、頭の奥で蘇る。
――この部屋には、僕の知らない“誰か”がいるのかもしれない。




