第3章 思い出してはいけない夜(続き2)
怪異としての恐怖と元恋人としての切なさ
――彼女が戻った理由
彼女は僕の目の前にしゃがみ込み、 まるで昔みたいに、優しく微笑んだ。
ただし―― 瞳の奥だけが、深い闇のように黒い。
「ねえ……どうしてそんな顔するの?」
僕は震える声で言った。
「……お前は……俺に何をさせたいんだ……?」
彼女は首を横に振る。
その動きは、まるで人形のように滑らかで、感情がない。
「違うよ。私は“あなたに何かをさせたい”んじゃない」
「じゃあ……なんで戻ってきた……?」
彼女は僕の頬に触れた。
その指先は、さっきよりも温かい。
まるで、生きている人間の体温。
「あなたが……私を“捨てた”からだよ」
胸が締め付けられる。
「……捨ててない……俺は……」
「捨てたよ」
彼女の声が、少しだけ低くなる。
「私じゃなくて……“私との時間”を」
僕は息を呑む。
彼女は続ける。
「あなたは、私が倒れたあの日……私を助けようとしなかった」
「違う……俺は……」
「助けようと“しようとした”だけで、本当は、心のどこかで……『これで終わる』って思ったんだよ」」
僕の心臓が止まりそうになる。
「……そんなこと……」
「あるよ」
彼女は微笑む。
その笑顔は、優しくて、温かくて―― でも、底がない。
「あなたは、私を愛してた。でも同時に……私を重荷に感じてた」
僕は言葉を失う。
「だから、あの日……私が泣いて、あなたにすがったとき……あなたは“振り払った”。強く。 あれは、無意識じゃないよ」
彼女の声が、耳の奥に直接響く。
「あなたは、私を終わらせたかった。でも、罪悪感が怖くて……その記憶を封じた」
僕は震える声で言う。
「……じゃあ……お前は……俺を責めに来たのか……?」
彼女は首を横に振る。
「違うよ。責めに来たんじゃない」
「じゃあ……何を求めて……」
彼女は僕の胸に手を当てた。
その手は、今度ははっきりと温かい。
「私はね……“あなたの中で生き続けたい”だけなんだよ」
僕は息を呑む。
「忘れられたら、私は消える。あなたの記憶の中から消えたら……私は本当に“いなくなる”。」
彼女の声が震える。それは、怪異の声ではなく―― かつて僕が愛した彼女の声だった。
「だから戻ってきたの。あなたが忘れた分だけ、私は薄くなる。だから……思い出してほしいの」
僕は震える声で言った。
「……思い出したら……お前は……どうなる……?」
彼女は微笑む。
「あなたの中に、戻れる」
その瞬間、部屋の空気が変わった。
照明がゆっくりと暗くなり、影が床で伸びていく。
彼女の影が―― 僕の影に重なり始めた。
まるで、二つの影がひとつになろうとしているみたいに。
「ねえ……私を忘れないで。あなたの中に、いさせて」
その声は、愛のようで、呪いのようで、救いのようで、破滅のようだった。




