エレベーター・ダンスホール
上司の声は、もはや言葉というより振動だった。意味は分かっている。分かっているが、今さら新しい情報は何もない。
彼は背筋を伸ばし、机の縁を見つめたまま、適切な相槌を選び続けていた。
「……はい」「申し訳ありません」「以後、気をつけます」
三種の神器を順に繰り返す。時計を見る勇気はない。視線を上げれば、さらに延長されることを、彼は経験則で知っていた。
やがて、上司の息が一段落する。語尾が弱まり、結論めいた言葉が置かれる。
「分かったな」
「はい。失礼します」
反射的に頭を下げ、彼は椅子から立ち上がった。扉を閉める瞬間まで気を抜かない。ノブに手をかけ、静かに、慎重に。完全に閉まったのを確認してから、ようやく肺に空気を入れた。
窓の外と比べると廊下はやけに明るい。ずっと同じ姿勢だったからだろう、歩き出そうとして足がもつれた。
手をついた先にあったエレベーターの下降ボタンを、わずかに震えたその指で押し込む。しばらくして箱が到着し、扉が開いた。乗り込んだ瞬間、肩から力が抜ける。
1階のボタンを押し、扉が動き始める。彼は上手く怒られるために貼り付けた神妙な、申し訳なさそうな表情を崩さないままエレベーターホールを見守る。そして扉が閉じた瞬間、彼は
強く中指を突き立てた。
彼の右足がわずかに揺れた。つま先が床を叩き、踵が遅れてついてくる。
素早く、彼は一度だけ天井を見上げた。肩が上下し、ネクタイが小さく跳ねる。肘を引き、体を捻る。
鏡張りの壁に、スーツ姿の男が映る。仕事帰りの、少しやつれて、怒りと悲しみと、そして挑戦的な表情。その他には何も映さない。
彼の脳内に流れるのは今流行りのロックビート。感情豊かな女性ボーカルと非対称的な曲展開が彼のステップを運んでいく。ビートに合わせて一歩、半歩。派手さもキレもない。誰が見ても素人のような無様な動きだ。
それがどうした?
彼は何も語らない。ただ誰の目もないこのエレベーターで彼は踊る。
大した理由もなくこの会社の面接を受け、将来の展望もなく、今こうして働き続けている。なんの特技もない、ただ誰かにとっての『良い人』であり続ける。それが彼の価値であった。
自分の代わりなんてどこにでもいる、誰にでも出来る。先程上司に言われた言葉がふと蘇る。その事実は誰よりも彼がわかっていた。きっと自分は何者にもなれない。
諦めでも怠惰でもあるその言葉を飲み込みながら、彼はそれでも踊るのだ。ただ自分を救うために彼は踊るのだ。
誰かに見られたら気が狂ったとでも思われるこの挙動。それでもこの狂気こそが、彼が彼を保つ唯一の方法だった。
やがて、チンという間の抜けた音とともに、エレベーターが止まる。
彼は何事もなかったように足を揃え、背筋を伸ばした。
何事もなかったかのように無表情を貼り付ける。
踊った事実は、箱の中に置いていく。明日まで持ち越すほどのものでもない。
ここはエレベーター・ダンスホール。棘の中で日々を生きる人達の解放の場所。誰のためでもなく、ただ自分のために踊る数メートル四方のステージ。
そしてそれを覗き見てしまった、監視カメラの先の僕の物語。
扉が閉まる音が、舞台袖の暗転に似ていると、彼女は思った。
ほんの一瞬だけ、外界が切り離される。その感覚が、今も身体に残っている。
突然の発表だった。この劇団が解散する。いや、薄々はわかっていた。程々に人気のある中小劇団だったが、劇団が大きくなるほどに採算が取れなくなってきていたのだ。楽しかった、それで問題から目をそらしてきたのだ。
結果残ったのは大した社会経験もないまま大きくなってしまった、大人でも子供でもない何か。
エレベーターの中で、彼女は無意識に立ち位置を測る。天井の高さ、床の幅、鏡の角度。どれも舞台としては狭すぎる。それでも、体は覚えている。
照明は均一で、観客はいない。それでも彼女は、背筋を伸ばし、呼吸を整えた。
まだ終わっていない。
少なくとも、身体はそう言っていた。
洗練されたステップ、研ぎ澄まされた体重移動。だが彼女のダンスは技術ではない、感情そのものだ。言葉だけでも歌でも足りなくなった何かを伝えるための動き。
手を叩き、爪先で床を鳴らす。音に押されて背中を伸ばし、視線を上げる。彼女が着ているのはTシャツにジーパン。だが踊る彼女の指先には確かに、ロングスカートの裾が摘まれている。華やかで優雅なその動きは数メートル四方を舞踏会へと変貌させた。
優雅な回転の中でスカートが一瞬だけ遅れる。そのわずかな遅れを許すように、彼女は体を預けた。
彼女の視線の先はきっとエレベーターの鏡ではない。居て欲しいと、心から願った観客達を見ているのだろう。
跳躍は高くない。ふわりとした軽い着地。だが、舞台に選ばれた人間の重さがあった。
最後のポーズで、彼女は胸に手を当てる。心にある全てを観客に捧げるように、優雅で繊細な指先を、彼女は胸に当てる。
やがて、チンという間の抜けた音とともに、エレベーターが止まる。
彼女は何事もなかったように足を揃え、背筋を伸ばした。
だが彼女は前を見る。次の歌と踊りと台詞を、彼女は求めていた。
昔から威圧感だけはあった。身長も高く、表情も乏しい。この警備員という仕事は、確かに天職ではあったのかもしれない。
カードキーをかざし、低くなる電子音に会釈をする。磨かれた床は朝の蛍光灯を薄く反射し、天井の高さだけがやけに主張している。彼は警備服の襟を正し、巡回用の端末を腰に装着した。
同じ建物をグルグルと永遠に回る、または入口にどっしりと立つ、そんな仕事。警備員はとにかく座らない。座っているよりも存在感を示す抑止力、何かあったときに即座に動ける即応性、この2つのためだ。
何があっても弱さを見せてはならない。それが警備員の仕事である。
いつもの巡回を終え、彼は警備員の詰め所に戻る。運よく彼のいる階にエレベーターは止まっていた。ボタンを押せばすぐに扉が開く。
箱に足を踏み入れ、彼は一人になってから、ようやく大きく息を吐いた。
靴の中で、足指を動かす。長時間立ちっぱなしの後にやる、いつもの動作だ。
その延長で、ほんの少しだけ、膝を曲げた。
あの子は元気だろうか。
しゃがんだ拍子にふと思う。あの頃の自分は仕事を転々として長続きしなかった。子供の行事に参加もろくにせず、病気になったときと大したことをしてこなかった。
その積み重ねの順当な結果が今の孤独だ。自分の家庭も守れなかった男が、今警備員などという守る仕事をしているのはなんたる皮肉だろうか。
ゆっくりと立ち上がる男。右足が床を探る。踏み出すというより、重さを移すだけの動きだ。伸びと体操の中間のような無骨な動き、だが彼にとってはこれも踊りであった。
肩がわずかに上がり、すぐに落ちる。腕を上げかけて、途中で止める。そのまま引き戻すように、胸の前で手を握った。
鏡の中の自分と目が合う。その目線を足元に下げる。足先を見ているようで、実際には何も見ていない。ただ、この姿を見たくなかった。
回転しようとして、半分で終わる。バランスを崩し、どうにか踏みとどまる。何もかもが中途半端な動き。
彼は一度だけ強く床を踏む。それは怒りか悲しみか。だが、彼は踏み込めど跳ばなかった。
やがて、チンという間の抜けた音とともに、エレベーターが止まる。
彼は何事もなかったように足を揃え、背筋を伸ばした。
今は、後悔しかない。ただそれで今を全うしなければ。あの子に胸を張って会うこともできない。
エレベーターを出た彼は、弱さを見せない。それが、彼の仕事であった。
家に帰って、おかえりの言葉がなくなってから何年が経っただろうか。手を繋いで歩いたスーパーの帰り道、今彼女の手にあるのは伴侶の手ではなく木で作られた持ち手の杖である。
あの人と手を繋ぐのが好きだった。自分以外の誰かと一緒になる、自分と違う体温が、自分と共にある。生きる意味がそこにあると思った。
最後に手を繋いだあの日、体温が自分にしかなかった。決して悪い終わり方でなかったはずなのに、その事実が酷く悲しかった。
杖を片手に彼女はエレベーターの前に立っている。あの頃ならば迷わず階段を選んでいただろうが、もう年が年だ。多少の楽は許されるだろう。
扉が閉まると、外の音がすべて遠のいた。
老婆はその静けさを、懐かしいと思った。
エレベーターの中は明るい。だが、どこか黄ばんだ光に見えるのは、きっと彼女の目のせいだ。
鏡の中に映る自分は、思っていたよりもずっと小さい。
いつかまた、会えるのなら。
右手を、何もない空間に差し出す。当時と何も変わらない。肩の高さ、肘の角度、その全てを覚えている。重みはない。それでも指先は確かに誰かの手を受け取った。丸まった背中を伸ばす。
左手を相手の方に回す。実際に手に取っているのはただの杖、それでも十分だった。
半歩、半歩、止まる。半歩、半歩、止まる。若い頃のように大きくは進めない。だが彼女の身体は円を描く歩幅を、三拍子の周期的なリズムを、忘れてはいなかった。
ゆっくりとした回転、遠心力は生まれない。それでも回り、流れる景色の中に、彼の姿を見た。
何度練習してもワンツースリーと口で数えてしまう彼のクセ。彼女は息で拍を取る。吸って、吐いて、また吸って。彼の胸の動きと、同じ速さで。
途中で、バランスを崩しかける。彼女は空いているはずの場所に、体を預けてしまった。だが、倒れない。あの時も彼女は倒れなかった。転んで、頭を掻いて誤魔化すのはいつだって彼だったから。
彼女は一歩下がり、確かめ合うように軽く頭を下げる。
そこには誰もいない。それでも礼は、省かなかった。
やがて、チンという間の抜けた音とともに、エレベーターが止まる。
彼女は何事もなかったように足を揃え、背筋を伸ばした。
きっとあの人はまだ、ワルツの練習をしている。なら次会うときまでに、彼よりもずっと上手くなくてはならない。
また会う日のために。彼女はそう信じて、最初の一歩を踏み出す。
エレベーターの監視カメラに目を向けたことはあるだろうか?誰かに見られていると気にしたことはあるだろうか?
大抵の場合エレベーターの監視カメラは録画データを保存するのみで、リアルタイムで映像を見ることはあまりない。
ただ、ショッピングモールや大きなビルでは映像監視が行われていることもある。
とはいえ、よほど重大な出来事が起こらない限りは警備員もカメラに目を向けたりなどはしないものである。事実同僚はエレベーターの映像になど何も興味を持たずぼんやりとしていた。
ただ、時々どうしても気になってしまうことがある。エレベーターで踊る人たちだ。
エレベーターに乗っているたった数十秒、本当に短い時間で彼らは踊り、そして救われたような顔で生活に戻っていくのだ。上手い下手に関わらず、ほんの少しだけ、救われているように見えるのだ。
彼らのプライベートを覗き見しているようで罪悪感を感じたが、それでも目を離すことが出来なかった。そのたった数十秒に人生が込められているような気がして。
タイムカードを切り、同僚に挨拶を終えた僕はエレベーターの扉の前に立つ。
ボタンを押せば数メートル四方の、小さなステージが運ばれてくる。
扉が開けばそこに映るのは自分の姿。何の特徴もない、誇りも、守るべきものもない、ただの男の姿。目をそらし、振り返り、地上1階のボタンを押す。扉はゆっくりと閉まる。
それでも、箱が動き出した瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。モニター越しでは、決して感じなかった感覚だった。彼は天井のカメラを見上げる。
いつもなら、ここから「見る側」だ。だが、今日は違う。
言葉に出来ない息の詰まりと、周りを取り巻く棘を、僕は見た。
振り払うような肩の動き、爪先で床を叩く。体幹の弱い、慣れない動き。それでも構わなかった。
次は優雅に舞う、優雅を意識するだけ、それでよかった。ふわりと舞う、私を見ろと叫ぶような、そんな動き。
動きに迷う、この先への不安が浮かぶ。自分はまだ、自分の未来が分からない。それでも、強く踏み込んだ。
不安で丸まった背中を伸ばす。爪先からもう一歩だけ前に。今はまだいない、誰かとともに踊るように、胸を張る。
指先で弧を描く。不格好に、それでも美しく回る。固まった空気を振り払うように、名前のない棘を振り払うように、美しく、回るのだ。
やがて、チンという間の抜けた音とともに、エレベーターが止まる。
僕は何事もなかったように足を揃え、背筋を伸ばした。
なんだか身体が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
呼吸が整うのを待ち、それから半歩だけ、横にずれる。
そこに、何もない空間が生まれる。
僕はその空間に視線を落とし、次に、ゆっくりと天井のカメラを見上げた。
返ってくるのは監視カメラの赤い光。
僕はその光に手のひらを向け、そして再び世界へと歩き出す。
数メートル四方のダンスホールに人の姿はない。そして僅かに、映像が振動した。
振動が止み、僅かな間の後に扉が開く。
ダンスホールは、また誰かを迎え入れた。
貴方はエレベーターで踊ったことがありますか?僕は時々、踊ります。




