1.
――――サァァァァァ……。
夜桜が咲き乱れている丘の上に風が優しく吹き抜ける。
「美影……美影……」
一人の女性が丘のような場所で、誰かの名前を呼びながら、夜空に浮かぶ月に向って静かな声で涙を流す。
そして、何度もその名前を呼び続ける。
「さようなら……美影……」
女性が空に浮かぶ月に手を伸ばしながら静かにそう言葉を綴る。
「一緒に前に進もう……」
女性のすぐ後ろに控えていた男性が女性を後ろから抱き締めながらそう言葉を綴る。
男性のその言葉を合図のように、咲き乱れていた桜の花びらが一斉に風に乗って夜空に舞う。
「あなたは僕が守ります……」
男性が女性を後ろから抱き締めながら優しい声でそう言葉を綴る。
男性の言葉に女性が頷く。
そして、女性は長かった今までの『自分』に解放され、月の明かりに祝福を受けて籠から出てきた……。
これは、長い間、自分を偽り続け、心を閉ざしていた女性が優しい灯りに照らされるまでの軌跡の物語……。
***
「おはようございます」
いつものように近くのカフェで買ってきたカフェラテを手に四季桜 美月は会社に入ってきた。
「おはよう!美月さん!」
美月の会社の所長でもある滝川 奈緒が元気な声で美月に声を掛ける。
「来て早々申しわけないんだけど、この利用者と今度面談することになったの。でも、相手が美月さんじゃなきゃイヤだっているから、その面談までにこの利用者の面談書を作ってくれないかしら?」
「分かりました。今から急いで取り掛かりますね」
奈緒の言葉に美月が微笑みながらそう返事をする。
「ありがと~。本当は私の担当の子だから私が面談しなきゃならないんだけど……」
奈緒が「はぁ~……」と、ため息を吐きながらそう言葉を綴る。
面談者の所には「松木 耕哉」と書かれていて、その名前を確認して美月も心の中でため息を吐く。
美月が働いている職場は、幼少の頃から周りと違う故にいじめを受けたりして心に傷を負った人たちが、人と関わり合うために社会勉強をしていくための訓練施設だった。
社会に出るための訓練でいろいろと学ぶために様々なプログラムがあり、そのプログラム内容によって講師はその道のプロを呼んでいる。なので、美月たちの仕事はそのプログラムを受けている利用者の様子を見て、その利用者一人一人にどのような支援をすればよいかを考えて、その利用者が前に勧めるようにアドバイスをする……というような仕事内容だった。
そして、その場所でその仕事を請け負っているのは美月と所長である奈緒。他にも三名がその仕事を請け負っていた。
「はぁ~……」
美月と奈緒のやり取りを見ながら、水嶋 優樹がため息を吐く。
「どないしたん?でっかい溜息吐きよって」
優樹のその様子を見て木本 正志が声を掛ける。
優樹と正志も美月と同じ仕事をしている人たちだった。
正志は優樹の先輩にあたる人で、関西出身という事もあり、口調も大阪弁が強い。性格もおおらかで大雑把なところがあるが、明るく冗談や洒落で人を楽しませることが得意なので、利用者からも人気がある。
反対に優樹は穏やかで優しい性格のため、利用者でも女性からの人気が高かった。たまに、女性の利用者から手作りのクッキーを渡されたりすることもあるのだが、会社の規則で受け取れないという事をやんわりと説明して、受け取りを拒否している。そして、その度に正志に「よっ!モテ男!憎いね!」と、面白半分にからかわれているという日常があった。
「……なんかムカつく……」
同じ仕事をしている最後の一人、寺本 綾乃が美月と奈緒のやり取りを見てぼそりと呟く。
「綾乃っち、なんや怖い顔しとるけど、どないしたん?」
「別に……」
正志に声を掛けられて、綾乃がそっけなく答える。
「体調が良くないんですか?」
優樹が心配そうに綾乃にそう声を掛ける。
「うぅぅん!大丈夫だよ!心配ありがとう、優樹君!」
先程の表情とは一転して綾乃が笑顔で優樹に声を掛ける。
「ほれほれっ!もう仕事始まっとるんやから仕事開始しなあかんで!」
正志の言葉に優樹と綾乃は返事をすると仕事に取り掛かった。
(面談で何も起こらなきゃいいんだけど……)
美月が奈緒から渡された面談書の名前を見て心でそう呟く。
松木は施設でも問題視されている利用者だった。遅刻は日常茶飯事で他の利用者に暴言を吐くこともある。だが、他の利用者を殴ったというような暴力は行っていないので、利用はそのままにしてあるが、このまま放置するわけにもいかないので、所長である奈緒が松木の担当という事と所長という事もあるので、面談をすることになったのだが、当の本人である松木が、「美月さんじゃないと話さない」との一点張りで、美月が面談するなら応じるというのだった。
「正直、松木君は利用停止にしてもいいくらいなんだけどね~……」
奈緒がそう言葉を漏らす。
「松木君は確かに問題行動も多いですが、素直なところもありますからね。優しい一面もありますし……」
美月がちょっと困ったようにそう言葉を綴る。
「まぁ、そうなんだけどね~。美月さんには懐いているのよね。だから美月さんの言う事は素直に聞くのだけど、私や正志君の言葉は全く聞かないどころか反発してくるのよね~」
奈緒が「やれやれ」と溜息交じりにそう言葉を綴る。
「まぁ、厄介な事お願いしてごめんだけどよろしく頼むわね」
「はい」
奈緒がそう言って自分のデスクに戻っていく。
美月は松木のファイルを取り出すと、面談書の作成に取り掛かっていった。
***
――――ポッポー、ポッポー、ポッポー…………。
会社に取り付けてあるちょっとレトロな時計がお昼休みになったことを告げる音が鳴る。
「は~い!じゃあ、みんなお昼にしてね~!」
奈緒が仕事場にいる美月たちにそう声を掛ける。
そして、いつものように美月は奈緒とランチに行くことになり、優樹と正志と綾乃はそれぞれのデスクで買ってきたお昼ご飯を食べ始めることになった。
「……あれ?綾乃っち、お昼それだけなん?」
綾乃が持ってきたお昼を見て、正志がそう声を発する。
綾乃が袋から出してきたのは、小さなサラダと小さなスモークチキンだった。
「綾乃っち~、ちゃんと食べないとぶっ倒れるで~。なんや?ダイエットでもしとるんか~?これで、ぶっ倒れたら会社問題やからちゃんと食べろや~」
正志が大きな弁当を食べながら、茶化すようにそう言葉を綴る。
「放っておいてください」
綾乃が正志を睨みつけながらそう言葉を発する。
「へいへい」
正志が「やれやれ」とでも言うような雰囲気で軽く返事をする。
「でも、本当に倒れたら心配なのでちゃんと食べてくださいね?」
優樹が心配そうな顔で綾乃にそう声を掛ける。
「う……うん!だ……大丈夫だよ!心配ありがと!」
綾乃が顔を少し赤くしながら笑顔でそう答える。
(綾乃っち……分かりやすすぎやで……)
正志が心の中でそう呟く。
「そういえば、奈緒さんと美月さんって仲良いですよね。毎回二人でご飯食べに行くし……」
優樹がお昼用に買ってきたおにぎりを頬張りながらそう口を開く。
「せやな~。まぁ、奈緒ちゃんと美月ちゃんは元々幼馴染みたいやしな」
「「えっ?!!」」
正志の言葉に優樹と綾乃が驚いたように同時に声を上げる。
「あれ?でも、この会社を立ち上げたのって奈緒さんと正志さんですよね?美月さんも立ち上げたメンバーの一人なんですか??」
優樹が頭にはてなマークを浮かべながらそう言葉を綴る。
何故優樹が頭にはてなマークを浮かべたのか?
それは、優樹がこの会社に入った時、メンバーは奈緒と正志だけと聞いていたのと、最初自分が入社したときに美月は居なかった。優樹が入社してしばらくしてから今日からメンバーになるという事で美月が入社してきたからだった。
「……じゃあ、美月さんはコネで入社したってことなの?」
奈緒と美月が幼馴染だと聞いた綾乃がそう口を開く。
「あ~……まぁ、悪い言い方をするとそう聞こえるかもしれへんな。でも、実際は仕事できる方やし、どの利用者にも分け隔てなく優しいし、この仕事には打って付けの人材やと思うで?」
正志がお弁当に入っているカラアゲに齧り付きながらそう言葉を綴る。
「確かに美月さんって仕事できますよね。僕なんか未だに利用者によってはどう対応していいか分からないのに、美月さんの対応って瞬時にこの利用者にはこういう対応が良いんじゃないのかっていうのを見抜くので、神業対応なんじゃないかって思ってしまう時がありますね」
「せやな~。時々、美月ちゃんを見ていると自分も見習わなあかへんなって思う時はあるな~」
優樹の言葉に正志が頷きながらそう言葉を綴る。
「……綾乃さん?大丈夫ですか?」
綾乃の表情がどこか険しいように見えたので、優樹が心配してそう声を掛ける。
「えっ?!あ……うん……」
綾乃が慌てた様子でさっきの自分を誤魔化すように優樹に笑顔を向ける。
(めっちゃムカつく……)
表情では笑顔を装っているが、綾乃の心の中では美月に対する憎悪が膨れ上がっていく。
綾乃はこの会社に入社して、しばらくした頃からだろうか……。利用者にも人気があり、仕事もこなし、人当たりも良い美月の事をあまり良くは思っていなかった。
逆に綾乃の方は仕事は出来る方ではあるが、利用者によっては綾乃の言う事を一切聞かない人もいたり、心を開いてもらうために優しく接しても口を聞いてくれなかったりしていた。
その事を正志に尋ねたら「利用者の大半は本能的にその人を見極める目を持っている人がいる」という答えが返ってきた。その答えを聞いて綾乃は「じゃあ、私は嫌な人間ってことなの?」と感じて、ショックを受けるどころか、はらわたが煮えくり返るほどの怒りを感じたのだった。
(……綾乃っちはこの仕事向かないかもしれへんな~)
正志が綾乃の表情を横目で見ながら、心でそう呟く。
そして、優樹は綾乃の気持ちや綾乃が美月をよく思っていないことに気付いていないのか、いつものように黙々とお昼ご飯を食べていた。
そこへ、施設に電話がかかって来て、正志がその電話を取った。
***
「……美月、一旦リセットしていいよ」




