第8話 いっぱい優しくしてね?
しばらくの間、普段には賑やかな食卓には、微妙な空気が漂っていた。
体中がむず痒くなる、今から全身をうごめかしたくなるような、猛烈な衝動に耐えながら、僕はお茶を飲んで耐え忍んでいた。
ただ普通に食事を取ってただけなのに、どうしてこんなにもダメージを食らってるんだろう。
見れば透花も似たような状況のようで、顔を伏せたまま、少しも上げようとしない。
艷やかな、美しい光沢を放つ長い茶髪からのぞく耳は、真っ白な肌のせいで、真っ赤になっているのが余計に目立った。
「そういえば、もうすぐ体育祭だね。二人とも、種目は決まったの?」
ニコニコと僕たちの恥ずかしいやり取りを眺めていた母さんの言葉に、僕と透花は顔を見合わせた。
ともあれ、話題を提供してくれたのはすごく助かる。
助け舟に全力で乗りかかった。
「ぼ、僕は玉入れに出るよ。あとは透花と二人三脚」
「私はリレーのアンカーと二人三脚に出ます!」
「あら、体育祭でも二人で行動するのね」
「たまたま籤が当たったんだ。透花は足速いから、きっとリレーで活躍しそうだよね。去年もアンカーじゃなかった?」
「ふふん、任せて。びゅーんと走ってトップを取ってくるよ!」
自信満々に大きな胸を張る透花が可愛らしい。ばいん、と服を押し上げて揺れている。
でもそれ以上に魅力的なのが、むふん、と鼻を鳴らすその仕草。
まるで大型犬が主人の期待に応えようと、尻尾を振ってるよう。
僕の心臓がキュンと音を立てる。
ああ、もう…………。なんでこんなに可愛いんだ。
体育祭は、学校行事の中でも特に盛り上がるイベントの一つだ。
運動神経抜群の、モデルができるぐらい可愛らしい透花は、きっと誰よりも注目を集めるだろう。
平々凡々な身体能力の僕とは大違いだ。
その姿を想像するだけで、誇らしい気持ちと、誰にも見せたくないという独占欲がごちゃ混ぜになる。
「二人三脚かあ。透花との息は自然と合いそうだけど、練習はしないとダメだよね」
「ふっふっふ。たっぷり練習しよ。守くんが遅かったら私が引きずって走ってあげるよ」
「やめてくれ……。それなら僕が透花をお姫様抱っこして走るよ」
「そんなの反則じゃん!」
「引きずるよりマシでーす」
つい、今朝の出来事を思い出して、口走ってしまったけど、実際には絶対にしたくない。
布団ごと抱き上げた時の、彼女の軽さと柔らかさ。
僕の腕の中で安心しきって身を委ねる姿。
あの無防備な甘え顔は、僕だけの特権だ。
誰にも見せてたまるか。
「何笑ってんのさ! 私のほうが絶対速いんだから!」
「二人三脚なんだから透花のほうが速かったらダメだろ」
「もー! そういう話じゃないの!」
「どういう話だよ……ククク。二人三脚で私のほうが速いだって……! アハハハハ」
「うふふふ……」
「もうっ、怒ってるのに……アハ、アハハハハ!」
頬を膨らませて怒る透花に、思わず母さんと一緒になって笑ってしまう。
怒った顔も、拗ねた顔も、全部が全部、僕の心をかき乱す。
プンプンと怒っていた透花も、次第に笑みに変わり、大きな声を上げて笑いはじめた。
やっぱり、透花と一緒に食べるご飯は美味しいな……。
「まったく、二人は仲がいいわねえ。体育祭もそうだけど、中間テストもすぐそこじゃない。勉強の方は大丈夫なの?」
母さんの現実的な指摘に、さっきまで輝いていた透花の顔が、途端に曇った。
僕も思わず苦々しい表情を浮かべてしまう。
「うっ……美沙さん、それは言わない約束……」
「透花はいつも成績優秀だし、要領いいから大丈夫だろう。問題は僕なんだよな……」
「バイトも許してるんだから、好きなことをするにはちゃんと勉強もしなさいね?」
「分かってるって。勉強するよ」
「そこは信頼しておきます。守は約束を守れる子だから」
「私はさ、ほら、お勉強できますよってスタンスじゃん。やっぱり期待に応えたいけど、プレッシャーだよ」
「まあ、透花は優等生って感じだもんな。いつも勉強頑張ってるのは知ってるよ」
「そうでしょ!」
そう。透花は別に天才じゃない。
一度見ただけで教科書を全部暗記できたり、復習もせずに満点を取るような、ちょっとおかしいレベルの頭の良さとは違う。
透花は努力家なんだ。
生徒として、モデルとして、どちらも自分の役割を全力でこなそうとする。
時々その努力が行き過ぎて、潰れてしまわないかって、見守る僕が不安になるぐらい。
だからこそ、支えたくなる。
「私一人だと、疲れて寝落ちしないか不安だな。今回も、一緒に勉強してくれる?」
「…………っ、うぐ……」
「守……? どうかしたの?」
「なんでもない」
透花が、テーブルの下で僕のズボンの裾をきゅっと足の指で掴みながら、上目遣いで見てくる。
うるうると瞳をうるませ、許しを請うかのような、思わず守ってあげたくなるようないじらしい表情。
そんな顔で、そんな声で、そんな仕草で頼まれたら、断れるわけないだろ……!
――またその顔だ。
僕がその表情に弱いと知っていて、彼女は確信犯的に使ってくる。
この顔で見つめられると、僕はいつも負けてしまう。
でも、してやられてばかりは少し悔しい。
僕は必死に顔を背けて、肯定も否定もしなかった。
無言の拒否。
「ねえ……ダメかな?」
「おい……足」
「ん? ねえ、勉強会、ダメ? 守くんと夜の勉強会、したいな」
「~~~~~!」
「ま・も・る・く・ん?」
ズボンの裾を掴む、素足の指の感触が、やけに生々しい。
柔らかくて、少しだけひんやりとした指が、僕の足首に触れている。
ゆっくりと、さすさす、と表面をくすぐるように撫でてくる。
その感触が、僕の足首から全身へと、電気みたいに駆け巡る。
その些細な接触が、僕の全身の血を沸騰させる。
ダメだ、ダメだ、ダメだ!
こんなの、意識するなって方が無理だろ!
僕の理性が悲鳴を上げている。もう限界だ。
心の中で絶叫しながらも、僕は平静を装うのに必死だった。
透花の無防備な、しかし計算され尽くしたであろう攻撃に、僕の理性は粉々に砕け散りそうだ。
ゾワゾワとした快感が走り、怪しい衝動が芽生え始める。
なにがとは言わないけど、……大きくなってしまいそうだ。
ああ、もう! 可愛い! 可愛すぎる! なんだこの生き物は!
このまま抱きしめて、めちゃくちゃに甘やかしてしまいたい衝動に駆られる。
透花の足が、足首からスネに上がってくるのを感じた時、僕の抵抗は強制的に終わった。
うわあああああ、それ以上はダメだろ!
「分かった! 分かりました! 透花のうちで勉強会しようか!」
「やった! やっぱり守くんは優しくて頼りになるなあ」
「……はいはい。リクエストにお応えしますよ、お姫様」
「えへへ、楽しみだなぁ。いっぱい優しく指導してね?」
「…………むしろ僕が教えてほしい側なんだよな」
「もちろん、私も分かる範囲でやさしーく、教えてあげるね」
「二人とも、お勉強の話よね……?」
僕は母さんの質問に答える余裕がなかった。
思わず下半身が反応してしまうところだった。
思いっきり、ぜーはーと息を切らせながら、僕はギリギリで尊厳を守った。
僕の返事に、透花は満面の笑みを浮かべている。
その笑顔を見ているだけで、僕は先程の焦りを忘れて、満たされた気持ちになる。
透花は本当にズルいよな。良いようにコントロールされっぱなしだ。
いつも僕は透花に振り回される。
頑張って耐えようとして、結局のところ敗北するのだけど、上手くしてやられた感じがして悔しい。
いつか、今度一矢報いてやりたい。
でも、まあ。
体育祭に、テスト勉強に、バイト。忙しい日々が続きそうだけど、透花と一緒なら、きっと何でも乗り越えられる気がした。




