第7話 しゅしゅ、しゅきっ!?
「守くん、そろそろ時間じゃないかしらー?」
「あ、本当だ! いけね」
「ふふふ、とっても集中してたものね。ありがとう、助かったから、後はお姉さんに任せて」
美咲さんに言われて時計を見ると、もう九時前だった。
あまりの忙しさに、目の前のやることに意識が奪われて、時間感覚を失っていた。
高校生のバイトは夜の一〇時までと決められている。
駆叔父さんは時間いっぱいまで働かせてくれる日もあるけど、基本的には九時上がりと約束していた。
働くのも週に三日までで、体育祭や文化祭といった行事がある時や、テスト前なんかはむしろ積極的に休むように言われている。
学生の本分はあくまでも勉学。
一日も早く腕を磨きたい、という気持ちがあったんだけど、「将来料理人として生きるなら、仕事の時間はいくらでもあるが、学生時代は二度と取り返せないぞ」と強く言われたら、引き下がるしかなかった。
それに下手にチェーン店で働くより、よっぽど腕を振るう機会は多い。
時間は短くても、その分どこよりも濃密な経験を積めている、という感覚はあった。
幼少期からの経験と、今のバイトの経験。
これらの積み重ねは、僕の将来にとって、大きな有利になるはずだ。
「お先失礼しますー! お疲れ様でした!」
「お疲れ様でしたー」「お疲れ!」「おつー!」「お疲れさん!」
美咲さんだけでなく、スタッフみんなからねぎらいの声をかけてもらい、スタッフルームに入る。
厨房の喧騒から解き放たれ、静かになった途端に、全身に気だるい疲労感と、今日のバイトをやりきった充足感を覚えた。
ふうっと息を吐く。
白衣を脱ぐと、ロッカーにかけて、手早く店に出る。
六月の夜空は、お昼の暑さに比べると、少しひんやりと冷たい。
空には月が煌々と輝いている。
僕は体の熱を冷ますように、自宅への帰路を、ゆっくりと自転車で走った。
家にたどり着いた僕は、自転車を停めて、中に入る。
玄関を開けると、母さんと透花がダイニングで座って話をしていた。
身長は一六〇センチぐらいで、透花と並んで座っていると、ほんの少し高いのがわかる。
僕の帰る時間に合わせて料理を作ってくれていたらしく、すぐに食べられそうだった。
「ただいま」
「お帰りなさい。今日はバイトでしょ。もうご飯できてるから、透花ちゃんと食べなさい」
「おかえり、守くん。お仕事お疲れさまー。美沙さん、今日もご馳走になります」
「良いのよ、遠慮なくたっぷり食べてね」
「えへへ、美沙さんのご飯って、あったかい気持ちになるから大好き」
「あら、嬉しいこと言ってくれるわ」
うちの母さんは女性にしては珍しく、あまり口数が多くなく、大人しいタイプの女性だ。
父さんと母さんが言い争っている姿を見たことがなくて、だいたいは母さんがはいはい、と一歩身を引いている。
でも、父さんいわく、優しくて芯が強いらしい。
居酒屋の開業をためらっていた父さんの背中をバシッと叩いて、何かあってもわたしが家を守ります、と啖呵を切った逸話は、父さんが酔うとよく話す鉄板ネタだ。
開業当初、あまりお客さんが来なかったときは、母さんも店に出て支えていたとかなんとか。
透花も母さんにはものすごく打ち解けている。
テーブルの上には、母さんの手料理が湯気を立てて並んでいた。
今日のメインは、こんがりと焼き色のついたコロッケだ。
油に揚がったじゃがいもの香ばしい匂いがふわりと鼻をくすぐり、僕の空腹を容赦なく刺激する。
衣は見るからにサクサクで、一口噛めばじゅわっと肉汁が溢れ出すのが目に浮かぶようだ。
副菜には、ほうれん草と人参の胡麻和え。鮮やかな緑とオレンジが食卓に彩りを添えている。
そして、豆腐とわかめの味噌汁からは、かつお出汁の優しい香りが立ち上った。
炊きたてのご飯の甘い香りも混ざり合い、家庭の温かさが凝縮されたような空間がそこにはあった。
「いただきます」
「いただきまーす」
「ゆっくりお上がりなさい」
コロッケを箸で軽く押すと、サクサクっとした手応えが感じる。
中からは粗めに潰した熱々のじゃがいもが、もわっと湯気を上げていた。
美味しい料理を堪能しながら、透花と話をする。
「守、バイトお疲れ様。駆さんのところ、今日も忙しかった?」
「うん、相変わらず凄かった。次から次に食材を切ってくれって言われて大変だったよ。でさ、叔父さんから今度テストしてくれるって言われたんだ。一品、何か作ってみろって」
「まあ、すごいじゃない! 子供の頃からあなたはずっと頑張ってたし、それが身になってるのねえ……。駆さんも認めてくれてるの、良かったわね」
「え、守くん、すごーい! じゃあ、その試作品、私が一番に味見してあげるね! んふふ、優しい幼馴染でしょ、感謝してよね」
透花が自分のことのように目を輝かせて喜んでくれる。
その笑顔に、僕も自然と頬が緩んだ。
「もちろん、透花に一番に食べてもらうよ。僕が料理を作るのは、透花に喜んでもらうためだし」
「そ、そうなんだ……、う、うん。真剣に評価してあげる……」
「お、おねがい。ほ、ほら、透花は舌が鋭いからさ、感想を聞くのにいいんだ」
「ふふふ……」
母さんが面白いものを見たとばかりにほくそ笑んだのがわかった。
うわああああ、しまったあああああ、つい本音が。
いや、ちが、違うんだ!
透花が嬉しそうにしているのを見て、僕も嬉しくなって、つい口が滑ってしまっただけで、僕の本当の目的は料理人になることなんだ。
断じて透花のためなんかじゃない。
なんだか告白みたいで、ものすごく恥ずかしい。
これはそういうのじゃないんだ。本当に!
うわー、正面に座る透花の顔をまっすぐに見れない。
彼女は僕の言葉にどんな顔をしているんだろう。
ちらりと視線を上げると、透花は頬をほんのり赤く染めて、はにかむように笑っていた。
その表情に、僕の心臓がドクンと大きく跳ねる。
うっわ、反則的に可愛い……。
いつも見ているはずなのに、今日の彼女はなんだか特別に見える。
僕は慌ててコロッケにかぶりつくけど、なんだか味がよく分からなかった。
おかしいな、母さんのコロッケは大好きなのに。
透花も何も言わず、黙々とご飯を噛んでいる。
母さんはおっとりと笑ったまま、何も助けてくれないし。
お願いだから、誰かなにか言ってくれないかな……。
ダメか。自分で話題を変えないと。
「……そ、それで、透花こそ、今日の撮影はどうだった? 秋服、暑かったんでしょ?」
「すっごく! スタジオの中はライトで暑いのに、ニットにコートだから汗かいちゃった。エアコンは効いてるんだけどねー。でも、可愛い服がいっぱいあったよ!」
そう言って、透花は楽しそうに今日の撮影であった出来事を話してくれた。
人気モデルとのツーショットや、カメラマンからの意外なリクエストなど、聞いているだけで華やかな世界が目に浮かぶようだ。
気に入ったものはスマホで自撮りしたらしく、見せてくれた。
「これ、どうかな? 新作のコート、すっごく可愛くない?」
スマホの画面には、柔らかなベージュのトレンチコートを羽織った透花が写っていた。
中のワインレッドのニットが、彼女の白い肌をより一層引き立てている。
プロの撮影とはまた違う、少しはにかんだような自然な笑顔。
それが、僕の知っている普段の彼女と、モデルとしての彼女のちょうど中間にあって、思わず心臓が跳ねた。
「……うわ」
思わず、声が漏れた。
いつも見ているはずの透花なのに、写真の中の彼女は、まるで知らない人のように綺麗で、大人びて見えた。
とっても……きれいだ。
「え、なに? 変だった?」
「いや、逆。すごく……綺麗だなって。いつも綺麗だけど、これは……なんか、ドキッとする。綺麗で、可愛い。すごく好き」
「ほあっ!?」
我ながら、あまりにも素直すぎる感想だった。
でも、そうとしか言いようがなかった。
僕の言葉に、透花は一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、それからみるみるうちに顔を赤く染めていく。
「へっ!? あ、な、なな、何言ってんの、守くん……! べ、別に、いつもと変わらないでしょ……!」
慌ててスマホを僕の手から奪い返そうとするけど、僕はまだ画面から目が離せないでいた。
写真の中の透花は、僕が今まで見たどんな彼女よりも、輝いて見えた。
「全然違うよ。この表情、すごくいい。プロのモデルのキリッとした顔とも違う、なんていうか……すごく親しみも感じられて、好きだ、こういうの」
「しゅしゅ、しゅきっ!?」
透花が素っ頓狂な声を上げる。
僕はハッとして、自分の失言に気づいた。
「あ、いや、違う! ちちちち、違うから! そういう意味じゃなくて、この写真の雰囲気が、ってこと! 勘違いするなよ!?」
「~~~~~~っ! もう、知らない! 守くんのバカ! いじわる!」
透花は僕の手からスマホを奪い取ると、真っ赤な顔を手で覆って、ぷいっとそっぽを向いてしまう。
その耳まで赤くなっている姿が、たまらなく可愛くて、僕はまた心臓が大きく音を立てるのを感じた。
「っ……!?」
あああああ、ヤバい。
この表情はズルいって。心臓が持たないって!
いつもは大人びていて、周りからの称賛にも慣れているはずの彼女が、僕のたった一言でこんなにも動揺している。
その事実が、僕の胸を甘く締め付けた。
「ご、ごめん……。でも、本当に綺麗だと思ったから。ただ素直に思ったことを言っただけで……」
「……うるさい。もう、言わなくていい。……やめて……お願いだから」
「ごめん……」
小さな声で呟く透花は、まだ僕の方を向いてくれない。
少し怒ったような声は、まるで機嫌を損ねているようにも思える。
でも、その横顔が、少しだけ嬉しそうに綻んでいるのを、僕は見逃さなかった。




