第6話 やるじゃん、相馬
『トラットリア・ソーレ』は駅近くの繁華街にある、繁盛店だ。
屋内だけでなくテラス席があり、イタリア料理店らしい、赤緑白の三つのカラーを用いたデザインの外装になっている。
テラス席と屋内席に分かれていて、店内は八十席以上ある広い空間が広がる。
GOOGLEマップでの評価は、レビュー数が二四〇〇件、平均評価は四.八と高く、多くの情熱的なコメントが残されている。
価格帯はチェーン店に比べると少し高めだけど、奮発すれば十分に通えるぐらいには安い。
つまり高校生のバイトの僕が通うにはちょっと分不相応なレベルのお店だ。
鮮度の良い材料、素晴らしい調理技術と、考え尽くされたメニュー。
腕の良い料理人が揃って素晴らしい味を提供してくれることを考えれば、お得な価格帯だと思う。
裏口に自転車を止めて、店の従業員用のドアを開けた瞬間、熱気と喧騒、そして食欲をそそる香りの波が、僕を包み込んだ。
調理場は多くの音の洪水だった。
火を使い炒める音、フライパンを振る音、リズミカルに食材を切る音、メニューの確認や調理時間の確認の声、あるいは食器を並べる音や、食洗機が沢山のお皿を洗う音。
それらの音と音が渾然一体となって、調理場の忙しさを一瞬で感じさせてくる。
鼻腔をくすぐるのは、オリーブオイルで熱せられたニンニクの香ばしい匂い。
それに続いて、じっくり煮込まれたトマトソースの甘酸っぱい香り、石窯で焼かれるピザ生地のイーストが放つ芳醇な香り、そしてパルミジャーノ・レッジャーノの濃厚な風味が追いかけてくる。
この香りを嗅ぐだけで、口の中にじゅわっと唾液が湧いてくるのが分かる。
調理場の外、テーブル席の方からは、陽気な話し声や弾けるような笑い声が、まるで一つの大きな生き物の呼吸のように、心地よく響いている。
カトラリーが皿に当たる軽やかな音、ワイングラスが乾杯で触れ合う澄んだ音、どこかのテーブルで弾けるコルクの小気味よい破裂音。それら全てが混ざり合って、活気という名のNGMを奏でていた。
オープンキッチンの向こうでは、叔父さんがリズミカルにフライパンを煽り、一瞬、ブランデーを浴びせたフライパンから、青い炎が立ち上るのが見えた。
玄関から客席は、琥珀色のペンダントライトが、壁に飾られた無数のワインボトルや、客たちの楽しげな表情を柔らかく照らし出していた。
ウェイターたちが、湯気の立つパスタや、チーズがとろけるピザを乗せたトレイを手に、調理場から滑るように飛び出して、テーブルの間を縫うようにして軽快に行き交う。
ここは戦場だ。でも、僕にとっては最高の場所。
僕は店の奥にある従業員用のスペースで慌ただしく着替え始めると、エプロンの紐をきつく結び、厨房へと足を踏み入れた。
「よう守! 来たか!」
「はい、お願いします!」
「今日も予約はパンパンだ。猫の手も借りたいんだ。時間まで頼むぞ」
「頑張ります!」
「よーい、いい返事だ。さっそく具材の仕込み場で野菜を切ってくれ!」
相馬駆叔父さんは、僕の叔父とは思えないぐらいに格好いい男の人だ。
顔立ちの彫りが深く、綺麗にカットされたヒゲがとてもダンディ。
ビシッと美しい白衣姿で、長年の調理で鍛えられているのか、強靭な体つきをしている。
僕と話をしている間も、目はフライパンに注がれて、手も足も全く止まることはない。
秒刻みでそれぞれの調理を把握し続けて、最適な火加減を追い求めている。
特に叔父さんの作る海鮮メニューは火加減が絶品で、イカやタコ、魚には柔らかさと甘さを保ちながらも、しっかりと火を通されている、絶妙な味わいをしているんだ。
本当はもっと調理作業を眺めていたいけど、店内に入ってからは僕もバイト代が出る立場だ。
親戚だからって甘えていられないと、すぐに仕込み場へと移動した。
「あら、守くんじゃなーい。よろしくね~」
「お願いします! 何からやりましょう?」
「じゃーあ、そこの玉ねぎとパプリカ、ズッキーニ、お願いできる? ぜーんぶみじん切りね。急いでくれると助かるかなー」
声をかけてくれたのは、僕と同じバイトの橘美咲さんだ。
調理師を目指して修行中で、今は専門学校に通いながら、ここで働いている。
おっとりとした話し方をする可愛らしい感じの女性で、僕にも優しく指導してくれる人だ。
ちなみにめちゃくちゃ厨房の男の人の人気が高い。
彼女に指示された仕込み台の上には、コンテナに山と積まれた色とりどりの野菜があった。
玉ねぎ、赤と黄色のパプリカ、ズッキーニ。イタリア料理には欠かせない具材だ。
元々仕込み自体はしていたんだろうけど、その日のお客さんの注文次第で、使う材料は刻一刻と変化していく。
それに対応するのも調理場の大切な仕事だ。
「分かりました。すぐに取り掛かります!」
僕は頷くと、包丁を手に取った。
――トトトトトトトトトトトトトト……ッ!
小気味良い、リズミカルな音が厨房に響き渡る。
僕の動きに無駄はない。
子供の頃からずっと料理は続けていた。
透花に料理を振る舞うため、彼女が美味しいと喜ぶため、何度も何度も作った。
プロの料理人である父さんからは、何かあれば聞いて腕を磨いた。
彼女が食べやすいように、美味しく感じてもらうために。
野菜の大きさを均一に、そして火が通りやすいように、ミリ単位で揃えるように意識した。
火の通り加減は、味にものすごく影響するから。
この店で働きはじめてからも、沢山の具材を切っている。
珍しい食材だけでなく、慣れ親しんだものも、ビックリするぐらいに大量に。
それらの経験が、今ここで活きている。
駆叔父さんは、僕を学生だからと軽んじることもなかったし、親戚だからと特別扱いもしなかった。
技術があるならその場所につかせる。
僕にその技術があると、信頼してくれている。
だから、僕はその期待に応えたい。
玉ねぎを、パプリカを、ズッキーニを、目に入った片っ端から、次々に処理していく。
まな板の上の具材が前部綺麗にカットできたら、籠に移す。
一心不乱に野菜を刻んでいると、ふと周りの空気が変わったことに気づいた。
さっきまで僕に指示を出していた美咲さんが、目を丸くして僕の手元を凝視している。
「え、うそ……早っ! しかも全部大きさが完璧に揃ってる……! 守くんすごいねーっ!」
その声に、他のスタッフもちらほらとこちらに視線を向ける。
僕は少しだけ誇らしい気持ちになりながら、さらに包丁のペースを上げた。
「それこっち運んでくれ!」
「すぐ行きます!」
「やるじゃん、相馬。おう、ありがとよ! 助かった」
炒め物を任されてるスタッフに呼ばれて、僕は籠に入れていた具材を急いで運ぶ。
渡した具材を見て、その人は僕を褒めてくれた。
何気ない言葉だけど、とても嬉しい。
この場所で、僕は僕の価値を証明できる。
透花にとっての特別であるように、この厨房でも特別な存在になってみせる。
そしてゆくゆくは、一人前の料理人として成長したい。
美咲さんに次の調理する具材を聞くために仕込み台に戻ると、なぜか叔父さんが立っていた。
美咲さんは、叔父さんを見てビックリしてる。
普段はあまりこっちには来ないしね。
「りょ、料理長……?」
「守! 今度一品、なにか得意なものを作ってみろ。テストしてやる」
「良いんですか!?」
「ああ。ただし半端なものだったら合格は出せないからな」
「お、お願いします!」
驚く僕に、叔父さんは渋い声とともに、笑みを浮かべた。
イケメン特有の、ちょっとした笑みがものすごく絵になって、少しずるい。
隣でハラハラと事態を見守ってくれていた美咲さんが、僕の肩を叩いた。
調理師で非力な人はいない。
バッシバシと叩かれた肩が痛い。
ちょっ、ほんとに痛いんだけど!? いたっ、いたい!!
「うわあ、すごい! バイト始めてこんなに早く料理長からテストされるなんて、すごいねえ!」
「あ、ありがとうございます」
「わたしも負けてらんないな!」
「一緒に頑張りましょう!」
「うん、そうだねー!」
『トラットリア・ソーレ』では、仕事のできない人は誰もいない。
恐ろしく忙しい繁盛店では、次々に襲いかかる作業量に、否が応でも対応せざるを得なくなるからだ。
おっとりとした話しぶりとは裏腹に、同じく仕込みを任されている美咲さんの手は、残像が見えそうなぐらい恐ろしい勢いで海老の頭をもぎ、イカの骨を抜いて輪切りにしていく。
この人もめちゃくちゃできる人なんだよな……。
負けてられないな、と僕は苦笑を浮かべながらも、絶好のチャンスを前に、やる気をみなぎらせていた。




