第37話 僕の料理
僕たちの厨房は、まさに戦場だった。
でも、それは孤独な戦いじゃない。互いの背中を預け、一つの目標に向かって突き進む、心地よい緊張感に満ちた戦場だ。
「守、ソースを作り始めるぞ! タイミング合わせろ!」
「はい! 茹でます! あと肉料理のソース仕上がります!」
「守くん、前菜の盛り付け終わったよー! 次は何を手伝おうか?」
「美咲さん、ありがとうございます! そっちの肉料理のソース、少し煮詰めてもらえますか?」
「オッケー」
叔父さんの的確な指示が飛び、美咲さんがそれに完璧に応え、僕も自分の役割に全神経を集中させる。
一人では途方に暮れてしまいそうだった作業量が、三人で分担することで、驚くほどスムーズに進んでいく。
オリーブオイルとニンニクの香ばしい匂い、トマトソースの甘酸っぱい香り、そして肉が焼ける食欲をそそる匂い。
様々な香りが混ざり合い、厨房は幸福な匂いで満たされていた。
僕の心にあった不安は、もうどこにもない。
今はただ、みんなの「美味しい」という顔が見たい、声が聞きたい、その一心だった。
やがて、店のチャイムが鳴り、クラスメイトたちがやってくる時間になった。
「うわー、すげえ! ここが相馬のバイト先かよ!」
「お洒落ー! 本当にここでパーティーしていいの?」
先崎くんや三鷹さんたちの、興奮した声が聞こえてくる。
僕は厨房からそっとホールを覗き見た。
貸し切りになった店内を楽しそうに見て回るクラスメイトたち。
その中心で、透花が自分のことのように誇らしげな顔で、みんなに店の説明をしていた。
「すごいでしょ? 守くん、いつもここで頑張ってるんだよ」
その笑顔を見て、僕の胸が温かくなる。
よし、最高の料理で、君の自慢に恥じない結果を出してみせる。
「守! ぼさっとするな! 一皿目、出すぞ!」
「はいっ!」
叔父さんの声に、僕はハッと我に返る。
僕の料理人としての、本当の戦いが今、始まる。
「うわあああ! 何これ、宝石箱みたい!」
最初の一皿、前菜の盛り合わせがテーブルに運ばれた瞬間、榛葉さんが感嘆の声を上げた。
いつも物静かな彼女からは、最大限の賛辞だ。
白い大皿の上には、色とりどりの前菜が美しく盛り付けられている。
真っ赤なトマトと白いモッツァレラチーズのカプレーゼ、薄くスライスされた生ハムメロン、新鮮な真鯛のカルパッチョ。
そして僕が丹精込めて作った、鶏レバーのパテを乗せたブルスケッタ。
「うっま! このカルパッチョ、魚がぷりっぷりじゃん!」
「鶏レバーのパテ、全然臭みがなくて濃厚……! こんなの初めて食べた!」
「相馬、本当にこれ全部作ったの? お店の味だよ!」
「先崎くん、ここはお店なんだよ」
「あ、そっか」
口々に上がる称賛の声。
みんな、目を輝かせながら料理を頬張っている。
厨房からその光景を見ていた僕は、胸が熱くなるのを感じた。
嬉しい。
透花一人に「美味しい」と言ってもらえるのとは、また違う、大きな喜びがそこにはあった。
「次、パスタ行くぞ!」
叔父さんの声とともに、厨房は再び活気づく。
一皿目は、魚介の旨味が凝縮されたペスカトーレ・ビアンコ。
そして二皿目は、濃厚なミートソースを絡めたタリアテッレだ。
「きたきたー! パスタ!」
「うわ、これもめちゃくちゃ良い匂い……!」
湯気の立つパスタがテーブルに並ぶと、再び歓声が上がる。
「このペスカトーレ、魚介の出汁がすごい! 一口食べただけで海の香りが口いっぱいに広がる!」
「ミートソースも、ただのミートソースじゃない! お肉がゴロゴロ入ってて、赤ワインでじっくり煮込んだ深い味がする……!」
特に、高山くんが目を丸くしてパスタを頬張っているのが印象的だった。
彼はスポーツマンらしく、普段は味よりも量を重視するタイプだと思っていたからだ。
「相馬……お前、すげえな。料理で、こんなに人を感動させられるなんて」
その素直な称賛の言葉に、僕は少しだけ、照れくさくなった。
これまで、何かと僕に対しては当たりがキツい彼だったけど、今は素直に僕を認めてくれている気がした。
そして、メインディッシュ。
じっくりとローストした、豚肩ロースの香草焼き。
ナイフを入れると、サクッという小気味よい音とともに、中から肉汁がじゅわっと溢れ出す。
ローズマリーとニンニクの香りが、食欲をさらに刺激する。
「……っ!」
一口食べた先崎くんが、言葉を失って固まった。
そして、次の瞬間、椅子から転げ落ちんばかりの勢いで叫んだ。
「うおおおおおお! うめえええええええっ! 肉が、肉が口の中でとろける! なんだこれ! 俺が今まで食ってた肉は、ゴムだったのか!?」
「お前は料理漫画のリアクション担当か!?」
そのあまりにも大袈裟なリアクションに、クラス中から笑いが起こる。
でも、その笑顔は、誰もが僕の料理を心から楽しんでくれている証拠だった。
美咲さんが作ってくれたデザートのティラミスとパンナコッタを出し終える頃には、パーティーの盛り上がりは最高潮に達していた。
「相馬、お前、マジで神だわ!」
「相馬くんの料理、毎日食べたい!」
クラスメイトたちに囲まれ、次々と肩を叩かれる。
僕は、その一つ一つに「ありがとう」と返すので精一杯だった。
僕の料理が、みんなを笑顔にしている。
透花だけじゃない。こんなにたくさんの人を、幸せな気持ちにできている。
叔父さんに言われた「たった一人のための料理」という言葉が、もう僕を縛ることはなかった。
心を縛り付けていた幻の紐が、解けていくのを感じる。
僕の料理は、透花という原点から始まって、今、もっとより多くの人へ、大きな世界へと広がろうとしている。
その確かな手応えが、僕の胸を熱く満たしていた。
パーティーが終わり、後片付けも一段落した頃。
僕は一人、静かになったホールで、窓の外の夜景を眺めていた。
「守くん」
「透花……? どうしてここに」
「守くんは一人で片付けしてるだろうなって思ったから」
不意に、優しい声に呼ばれて振り返る。
そこには透花が、優しい笑顔で立っていた。
「お疲れ様。今日の守くん、世界で一番格好良かったよ」
「……ありがとう。みんな、喜んでくれたかな」
「当たり前でしょ! 言ったでしょ? 守くんの料理は、世界一美味しいんだから」
「そっか、それは良かった」
透花はそう言うと、僕の隣に並び、そっと僕の手に自分の手を重ねた。
その温かさが、心地よかった。
「私の自慢のシェフだもん。みんなにも、そのすごさが分かってもらえて、私もすっごく嬉しかった。ずっと守くんが一歩距離を引いて、皆からすごさを分かってくれてなくて、私不満だったんだ」
「……透花」
「私の幼馴染は、本当は凄いんだぞって言いたかった。でも、そんなことを言ったら、かえって変なやっかみを受けそうな気がしてたから、ずっと機会を待ってたの。急なお願いをしてゴメンね?」
「いや、ありがとう。僕は今日、自分の料理がみんなに認められて、嬉しかったよ」
僕が何かを言う前に、透花は僕の胸にこてん、と頭を預けてきた。
甘い香りが、僕の心を優しく包み込む。
「これからも、たくさん、美味しいご飯作ってね。私のために。……ううん、みんなのために」
言い直そうとした透花の言葉を、僕は遮った。
「ううん、それで良いんだよ。僕は、君のために作る」
「え……?」
「君だけの、専属シェフになる。前に、そう言ってくれただろ?」
僕は、重ねられた透花の手を優しく握り、そっと引き寄せる。
驚きに目を見開く彼女の体を、壊れ物を扱うように、でも力強く抱きしめた。
腕の中で、透花がびくりと震えるのが分かる。
「守、くん……?」
「僕の料理は、君を喜ばせたいって気持ちから始まったんだ。だから、これからも、僕の一番は君だよ。君が『美味しい』って笑ってくれるだけで、僕はなんだってできる気がする」
僕の告白に、透花は何も言わず、ただ僕の背中に腕を回し、ぎゅっと強く抱きしめ返してくれた。
それだけで、彼女の答えは十分に伝わってくる。
僕の料理人としての道は、まだ始まったばかりだ。
でも、もう一人じゃない。
最高の仲間と、そして何より、世界で一番大切な君が、こうして腕の中にいてくれる。
僕の未来は、きっと、この店の料理のように、温かくて、甘くて、幸せな味に満ちている。
僕はそっと体を離すと、潤んだ瞳で僕を見上げる透花の頬に手を添え、優しく口づけをした。
それは、今日作ったどんな料理よりも、甘くて、とろけるような味がした。
そんな確信を胸に、僕は窓の外の星空を見上げた。
星々が、僕たちの未来を祝福するように、キラキラと輝いていた。




