第3話 今から問題を出すから答えてみろ
四時間目の授業が始まって、十分ほど時間が経過した頃だった。
歴史の山中先生の授業は退屈なことで有名な、一定のトーンでずっと話し続けるから、聞いていると眠たくなってくる。
僕はあくびを何度も噛み殺しながら、黒板に書かれた内容を目で追っていた。
前の席の先崎は、完全に夢の中だ。
僕も眠気の限界を感じて、一瞬カクンと舟を漕いでしまった。
その時、こつん、と机の上に小さな何かが置かれる。
見ると、小さく折りたたまれたメモ用紙だった。
そっと開くと、そこには透花の綺麗な字で『おきろー』と書かれている。
デフォルメされた可愛らしい女の子がプンプンと怒っていた。
僕は思わず笑ってしまった。
どうやら格好悪い場面を見られていたらしい。
透花は僕の左斜め後ろの席だ。
振り返らずに親指を立てると、小さく笑うような声が聞こえてきた。
眠気に鈍った頭を振り、再び板書の内容を把握するのに集中する。
ノートにペンを走らせて、「産業革命とその影響」と黒板に書かれたタイトルを書き写す。山中先生の声が単調に響く。
「一八世紀後半、イギリスで始まった産業革命は、世界の歴史を大きく変えました。まずは蒸気機関の発明と、それが工業や交通に与えた影響について……」
ぼんやりしながらも、先生の説明を箇条書きでメモしていく。
イギリス、霧の街。
なんでも産業革命によって石炭を大量に使った結果、光化学スモッグによって視界が悪くなっていたイギリスは、それを当時は霧と捉えたことで、霧の街、と呼んだのだそうだ。
山中先生の授業のトーンは眠たいものの、授業内容については興味深い。
一度集中してしまえば、それなりに面白く受けることができた。
ノートを書くことに集中していると、ふっ――と急に周りが静かになったことに気付いた。
教室に響いていたかすかなざわめきが、完全に途絶えて、静かになる。
まるで息を潜めるように。
気づけば、先程まで黒板に板書していた山中先生が、先崎の机の前に立っていた。
「先崎ぃ」
「……母さん。お昼ごはんまだかぁ……」
「誰がお母さんだ」
「……父さん? 料理作れんの?」
「私は父親でもない!!」
「ん……んん?」
山中先生が大きな声で突っ込んだことで、どっと笑いが起きた。
椅子を軽く引いて、先崎から少しでも距離を取りながら、眉間に皺を寄せて苛立っている山中先生を観察する。
意識がこっちに向けられてはたまらない。
現場から顔を背けるように、左を向くと、視界の隅で透花が口元を抑えて笑いを堪えている。
僕の視線に気づいたのか、透花は僕に向けて、声を出さずに「起こしてあげて良かったでしょ」と呟いた。
本当に危ないところだった。
先崎と一緒に居眠りしているのがバレたら、僕まで怒られるところだ。
同じく声には出さず、「ありがとう」と答えると、透花はニカーっと満面の笑みで笑う。
ふがっ、と鼻を鳴らした先崎は、ゆっくりと上体を起こす。
山中先生がコメカミをヒクヒクと痙攣させながら、居眠りする生徒を睨みつけていた。
「先崎ぃ、良いご身分だなあ」
「…………げっ」
「おはよう。よく眠ってたみたいだなあ」
「す、すみません……昨夜、ちょっと勉強しすぎて……つい……」
「ほぉ~? それは殊勝な心がけだなあ。じゃあ先崎、今から問題を出すから答えてみろ」
「わかりません」
「問題を出す前から諦めるな! 一体何の勉強してたんだ!?」
「イキるべきか死ぬべきか」
「マクベス!? シェイクスピアとは、意外なタイトルが出てきたな」
「いえ、ダークネスってライトノベルです」
「勉強してないじゃないか!」
「先生、俺が日本語をちゃんと読んでるんですよ。そこをもっと評価してください」
山中先生はそれはもう長くながーく溜息を吐いた。
その心労には思わず深く同情してしまう。
こんな生徒にもちゃんと対応しないといけないんだから、教師って仕事も大変だよね。
なんとか気持ちを切り替えたのか、山中先生は鋭く問題を出した。
「問題だ! イギリスの産業革命で最初に発明された代表的な機械は何だ?」
「……えっと、紅茶を自動で入れてくれるマシーンですか?」
「そんな便利なものは当時ない! 蒸気機関だ、蒸気機関!」
「超危機感?」
「それはお前が持て! はぁああああ……もういい。お前と話してると頭が痛くなってくる」
「偏頭痛持ちですか? 大変ですね」
どっと再び教室が沸いた。
山中先生は、先崎とのやり取りで疲れ切った顔をしながらも、ふと教室を見渡した。
そして、何かを思いついたように、今度は透花の方へと視線を向ける。
「……さて、白崎。君ならこの問題、分かるかな?」
突然の指名に、教室が一瞬ざわつく。
透花は驚いたように目を丸くしたが、すぐに落ち着いた表情に戻り、すっと背筋を伸ばした。
「はい、先生」
山中先生は黒板にチョークでさらさらと何かを書き始める。
「では、問題だ。イギリスの産業革命で、蒸気機関の発明が社会に与えた影響を、三つ挙げて説明しなさい」
教室の空気が一気に引き締まる。
難しい問題だ。先崎が「紅茶マシーン」とか言っていたのと同じ授業とは思えない。
透花は一瞬だけ考える素振りを見せたが、すぐに口を開いた。
「まず一つ目は、工場制手工業から工場制機械工業への転換です。蒸気機関の導入によって、大量生産が可能になり、産業構造が大きく変化しました」
山中先生が「うむ」と頷く。
堂々とした話し方、綺麗に伸びた姿勢と、真っ直ぐに前を向いた目線。
どれも透花の自信を感じさせる態度だけど、本当は結構緊張しているのが、僕には分かった。
キュッとスカートの裾を握っているし、口を時折固く引き結ぶのは、透花の緊張したときの癖だ。
「二つ目は、交通機関の発展です。蒸気機関車や蒸気船が登場し、物流や人の移動が飛躍的に効率化されました。海外への輸出入もそれにともなって大きく増大しました」
教室の何人かが「おお……」と小さく感嘆の声を漏らす。
「三つ目は、都市化の進行です。工場労働者が都市に集まり、都市人口が急増しました。その結果、都市問題や労働問題も生まれました。村の労働人口の減少問題も同時に引き起こしました」
透花は、落ち着いた声で、はっきりと答えを述べ終えた。
山中先生は、しばし感心したように透花を見つめていたが、やがて満足げに微笑んだ。
「イギリス料理があまり美味しくないのは、出稼ぎでレシピの継承が絶たれたから、という考えもあるらしいぞ。素晴らしい。模範解答だ。まさにその通りだな!」
教室がどよめく。
普段は完璧超人として知られる透花だが、こうして実際に難問に即答する姿を見ると、改めてその凄さを実感させられる。
先崎が小声で「すげぇ……」と呟くのが聞こえた。
お前はもっと勉強しろ。感心してる場合じゃないだろ。
山中先生は続ける。
「白崎の答えは、どれも教科書以上の内容だ。特に、都市化と労働問題まで言及できるのは素晴らしい。皆も見習うように」
小さくパチパチとまばらな拍手が響く。
透花は少しだけ頬を赤らめ、恥ずかしそうに微笑んだ。
僕は思わず、そんな彼女の横顔を見惚れてしまう。
普段はどこか抜けているところもある透花だけど、やっぱり本気を出すとすごい。
僕の自慢の幼馴染だ。
教室の空気が、少しだけ明るくなった気がした。
それとほとんど同時に、授業が終わるチャイムが鳴り響く。
山中教授が肩を落として、授業の終了を告げると、今日の日直が号令をかける。
僕の頭を下げる角度は、いつもよりも少しだけ深くなった。




