第24話 テスト勉強と眠れない夜を抱いて
中間テスト一週間前。
学校全体が、目に見えない緊張感と焦りに包まれていた。
休み時間になると、教室のあちこちで参考書を広げる生徒たちの姿が見られ、「やばい、全然範囲終わってない」「ここ、どうやって解くんだっけ?」といった切羽詰まった声が飛び交う。
全然余裕そうなのは先崎くん、そして我らが学級委員の三鷹さんぐらいなものだろう。
とはいえ、前者は根拠無しの余裕、後ろは信頼と実績の余裕という違いがある……。
ちなみに僕の成績は、平均によりもほんの少しだけ上。
いたって平凡な域を抜けない。
まあ、僕自身が授業について深い関心があるわけでもないし、このあたりは自分の努力不足だと、ちゃんと理解している。
きっともっとしっかりと勉強すれば、もう少し成績は上がるのだろうけど、それよりは料理の腕を磨きたい、透花の世話焼きをしていた、という気持ちが勝ってしまう。
そんなピリピリとした空気の中、透花の周りだけは、まるでそこだけが学びの聖域であるかのように、多くの生徒が集まっていた。
「白崎さん、お願い! この古典の助動詞の活用、どうしても覚えられないんだけど、何かコツとかないかな?」
「古典の助動詞は、まず意味でグループ分けして、接続のルールと一緒に覚えると整理しやすいよ。例えば、過去の助動詞『き』と『けり』は……」
「透花ちゃん、数学のこの証明問題、考え方から教えてほしいの!」
「この証明は、まず補助線をここに引いてみて。そうすると、合同な三角形が見えてこないかな?」
ひっきりなしに寄せられる質問の嵐に、透花は少しも嫌な顔を見せず、にこやかな笑顔で一人ひとりに丁寧に対応していく。
彼女の説明は驚くほど分かりやすく、クラスメイトたちの疑問をハッと氷解させていく。
周りからは「なるほど!」「さすが白崎さん、天才!」「ありがとう、これで赤点回避できるかも!」と、感嘆と感謝の声が絶え間なく上がっていた。
僕は少し離れた席から、そんな彼女の姿を眺める。
クラスの中心で、完璧な優等生として輝く透花。
その姿は誇らしく、僕の自慢の幼馴染だ。
でも、僕は気づいていた。僕だけが気づいた。
彼女が時折、誰にも見られないように、きゅっとスカートの裾を握りしめていること。
笑顔の裏で、ほんの一瞬だけ、遠くを見るような目をすること。
そして、ペンを持つ指先が、微かに震えていることに。
……また、無理してる。
透花は、周りの「完璧な白崎透花」という期待に応えようと、必死に頑張っている。
モデルの仕事と両立しながら、睡眠時間を削って勉強していることを、僕は知っている。
本当は、誰よりもプレッシャーを感じ、疲れているはずなのに。
昼休みが終わるチャイムが鳴り、人だかりが少しずつ解けていく。
透花は、最後まで残っていた友人に笑顔で手を振った後、誰にも気づかれないように、ふぅっと細く長い息を吐いた。
その一瞬だけ素に戻った、疲れの滲む横顔を、僕は見逃さなかった。
今夜の勉強会、大丈夫かな……。
透花からは、テスト前に家で勉強会を開くのが恒例になっている。
彼女が一人で抱え込んでいる重荷を、少しでも軽くしてあげたい。
僕の胸に、そんな思いが強く湧き上がってくる。
その日の放課後、透花はモデルの仕事へと向かった。
彼女は、テスト期間真っ最中ならともかく、結構ギリギリの直前まで応じてしまう。
それで結果を出してしまっているから、詩乃おばさんをはじめ、僕も強く言うことはできない。
僕は一度家に帰り、夕食と風呂を済ませてから、自分なりにテスト対策の勉強をした。
夜八時。
参考書を詰め込んだリュックを背負って再び白崎家へと向かう。
透花の部屋のドアをノックすると、「はーい」という気の抜けた返事が聞こえてきた。
「お邪魔します」
「ん、いらっしゃーい……」
部屋に入ると、そこには昼間の完璧な優等生の姿はどこにもなかった。
ゆったりとしたTシャツにショートパンツというラフな格好の透花が、ベッドに腰掛けたまま、とろんとした目で僕を迎える。
机の上には、すでにいくつかの教科書とノートが開かれていたが、彼女の集中力はもう限界に近いようだった。
そもそも働きすぎなんだ。
「お疲れ様。撮影、大変だった?」
「うん……。今日はカット数が多くて……。もうくたくた……」
そう言うと、透花はふにゃりと笑って、大きなあくびを一つ、まるで猫みたいにくわーと開けて、体をブルっと震わせた。
目には涙の膜が張っている。
バイン、と大きな胸が震えて、慌てて視線を外す。
学校での緊張と、モデルの仕事での疲労。
その両方が、彼女の体力と気力を容赦なく削り取っているのが分かった。
「少し休んだ方が良いんじゃないか? 無理しても頭に入らないだろ」
「ううん、大丈夫。守くんが来てくれたから、頑張れる……」
「本当かよ」
「ん。でも眠気覚ましの紅茶は飲みたいかも」
「オッケー」
要望通りに紅茶を淹れてあげて、今日はたっぷりとミルクを入れておく。
寝る前のホットミルクが睡眠に良いのはよく知られているところだ。
紅茶で覚醒を促しながらも、眠気が限界になったら、すぐに熟睡してほしい。
「よーし、がんばるぞー! 目指せ学年五位以内!」
「透花はすごいよなあ」
「実はね、勉強って教えてあげる人のほうが成績が上がるんだよ。ただ問題を解くより、教えようと解いたほうが、理解力も記憶の定着率も高まるんだって」
「へえ、そうなんだ」
たしかにちゃんと理解していないと、人に説明するのは難しい。
僕が料理を教えるときも、どう伝えたら一番理解してもらうか、結構真剣に考えるから、言われてみると納得かも。
「それにノートを見直すよりも、暗記カードとかを使ったり、問題を解いて間違えたところの解説をしっかりと見直して、もう一度解き直すのがテスト攻略のコツだよ」
「いいこと聞いたかも。僕もやってみるよ」
「うん。勉強は頭の良さも大切だけど、それ以上に要領の良さだと思う」
試験についてよりも、試験との取り組み方について、教えられた。
やっぱり透花は、一面においてすごい優秀だ。
そんな立派な姿とは裏腹に、透花は机に向かうとこくり、こくりと舟を漕ぎ始めた。
必死に眠気と戦っているのだろう。
時折、カクンと大きく頭が揺れ、そのたびにハッとして背筋を伸ばす。
でも目がトロンとしていて、表情からは力が抜けている。
ぼんやりとした顔はまったく僕に対して無警戒だ。
口元からよだれが垂れそうになり、慌ててじゅると吸い込まれていく姿を見ると、僕にどれだけ心を許しているのかがよく分かる。
その姿は、まるで小動物のようで、庇護欲をそそられる。
でも、ここで甘やかして寝かせてしまっては、テスト勉強が進まない。
……いや、でも、寝かしておいたほうが良いかな。
僕の目の前で、無防備にうつらうつらとする透花。
学校では決して見せない、僕だけが知っているだらしない姿。
今だけは、周りの期待も、テストのプレッシャーも全部忘れさせて、この子を思いっきり甘やかしてあげたい。
そんな衝動が、僕の胸の奥から湧き上がってくるのを、もう抑えることができなかった。
「……透花。もういいよ、今日は」
「……え? でも、勉強……」
「こんな疲れ切った状態で勉強しても、効率が上がらないでしょ。今日はぐっすりと寝て、また明日ちゃんとやろう。僕なら明日も付き合うから」
「ん…………わかった」
こくりと頷いた透花は、もう限界だったのだろう。
まだベッドにも入っていないのに、すうすうと一定の周期で呼吸音を立てながら、完全に眠ってしまった。
仕方ない。ベッドに寝かせてあげるか。
もう完全に寝入ってしまった透花の膝の下に手を入れ、お姫様抱っこをすると、そっとベッドに横たえさせる。
「むにゃ……まもりゅ……くん」
「はいはい。ほら、ベッドだよ。ゆっくりおやすみなさい」
もう完全に寝入ってしまった透花の膝の下に手を入れ、お姫様抱っこをすると、そっとベッドに横たえさせる。
「むにゃ……まもりゅ……くん」
「はいはい。ほら、ベッドだよ。ゆっくりおやすみ」
僕は透花の体をそっとベッドに横たえ、掛布団をかけてあげた。
これでよし、と僕が身を引こうとした、その瞬間。
「……ん、まもるくん……どこ、いくの……?」
寝言とともに、僕の腕が透花の手によって、力強く掴まれた。
そのままぐいっと、予想だにしない強い力で引き寄せられる。
「うわっ!?」
僕はバランスを崩し、為す術もなく透花の隣に倒れ込んでしまった。
ベッドがぎしり、と大きく軋む。
まずい、起こしてしまったか、と焦ったが、透花はすうすうと穏やかな寝息を立てたままだ。
どうやらまだ夢の中らしい。
僕は安堵のため息をつき、彼女を起こさないように、そっと体を離そうと試みる。
だが、それは悪手だった。
「……いっちゃ、やだ……」
「と、とうか……?」
僕が動いたことで、むしろ透花の無意識の警戒心を煽ってしまったらしい。
透花は寝返りを打つと、僕の体に覆いかぶさるようにして、ぎゅうっと抱きついてきた。
完全に僕のことを、抱き枕か何かと勘違いしている。
そして、最悪なことに、僕の顔は彼女の豊かな胸の谷間に、すっぽりと埋まってしまった。
「~~~~~~~~っ!?」
声にならない悲鳴が、喉の奥で詰まる。
信じられないほどの柔らかさと温もりが、僕の顔全体を包み込む。
透花のシャンプーの甘い香りと、女の子特有の柔らかな匂いが鼻腔をくすぐり、僕の思考を完全に麻痺させた。
心臓が、今にも破裂しそうなほど激しく脈打つ。
顔に当たる双丘は、僕の呼吸に合わせて、ふわり、ふわりと優しく押し返してくる。
そのたびに、僕の理性はゴリゴリと削られていった。
息ができない。物理的にも、精神的にも。
顔を上げようにも、透花に抱きしめられていて動かせない。
というか、この柔らかさと温もりから、顔を離したくないと思ってしまう自分がいる。
ダメだ、ダメだ、ダメだ!
そう自分に言い聞かせても、下半身に集まっていく熱は、僕がただの健全な男子高校生であることを雄弁に物語っていた。
動けない。
動けば、彼女を起こしてしまう。
でも、このままでは、僕の理性が持たない。
これは天国か、あるいは地獄か。
「ん……むにゃ……にげるにゃ……つかま、えた……」
透花は、僕の頭にしがみつき、安心しきったように、さらに深く寝息を立て始めた。
その無防備な姿が、僕の罪悪感を煽る。
おまけに透花の手が僕の頭に回され、足が僕の体に絡みつき、完全に抜け出せない。
フガフガと呼吸を続けると、甘いミルクのような香りに鼻腔を占領される。
ふわふわと乳房越しに、トクン、トクンと穏やかな心音が胸から伝わってくる。
僕の心臓がドクドクと激しく暴れる。
「えへへ……」
透花は僕を雁字搦めにして、幸せそうに笑う。
朝も昼も、学業も仕事も必死に取り組んで、クタクタになっていた。
できれば、熟睡を妨げたくはない。
でも、こ、これは本当にダメだって!!
僕は手をわなわなと震わせた。抱きしめるわけにも、突き飛ばすわけにも行かないし、掴むのもはばかれる。
結局、僕は一睡もできなかった。
ただひたすらに、シャツ越しの温もりと、甘い香り、猛烈な柔らかさに翻弄されながら、人生で最も長い夜を過ごした。
東の空が白み始め、カーテンの隙間から朝日が差し込んできた時、僕の体力と理性は、完全に限界を迎えていたのだった。
もし良ければ高評価をよろしくお願いいたします。




