第22話 お姫様は甘やかされるのがお好き
体育祭の翌日は、代休だった。
けたたましいアラームの音もなく、僕は自然と目が覚める。カーテンの隙間から差し込む日差しが、もうとっくに朝であることを告げていた。
「……いってて……」
ベッドから起き上がろうとして、全身が悲鳴を上げた。特に腕と腰が、鈍い痛みを訴えている。
昨日、透花をお姫様だっこして走ったせいだ。我ながら無茶をしたと思う。
でも、後悔はしていなかった。
腕の中にいた透花の重みと体温、僕の胸に顔をうずめた時の、恥ずかしさと安堵が入り混じったような表情。
そのすべてが、筋肉痛の痛みさえも愛おしい記憶に変えてくれていた。
スマホを見ると、時刻は午前十時を回っている。
透花からの連絡はない。
「……まあ、そうだよな」
昨日の今日だ。
彼女が起きているはずがない。
リレーでの全力疾走に、足の痙攣、そして精神的な疲労。
きっと今頃、泥のように眠っているに違いない。
僕はゆっくりと体を起こし、着替えると、迷わず隣の白崎家へと向かった。
シンと静まり返った家の中は、ひんやりとしていた。
二階の透花の部屋のドアをそっと開けると、案の定、彼女はベッドの住人となっていた。
布団を頭までかぶり、小さな山を作っている。
時折「ん……」と、幸せそうな寝息が聞こえてくるだけだ。
僕は苦笑しながらベッドに近づき、布団の山を優しく揺する。
「透花、朝だよ。もうお昼前だけど」
「……うにゅ……まもる、くん……?」
「そう」
布団の隙間から、寝ぼけ眼の透花が顔を覗かせた。
その顔は、まだ夢の世界を彷徨っている。
「おはよう。よく眠れた?」
「おはよ……。うん……。守くんのせいで、体じゅう痛い……」
「それは僕のセリフだよ。誰かさんを運んだせいで、全身筋肉痛なんだけど」
「ふふ……お姫様だっこ、重かった?」
「当たり前だろ。でも、まあ……悪くはなかったかな」
「ふふ、私も。実はお姫様だっこって憧れてたんだよね……」
僕が少し照れながら言うと、透花は嬉しそうに布団の中で身じろぎした。
そしてゆっくりと上体を起こす。
目はまだトロンとしていて、焦点があっていない。
実は朝によくしているんだけど、寝ぼけている透花には、あのお姫様抱っこはノーカウントなようだ。
「足はもう大丈夫?」
「うん、まだちょっと痛いけど、大丈夫」
「そう。それは良かった。今日はゆっくりしたほうが良いよ」
「……それより、お腹すいた……。でも、動きたくない……」
透花は、布団から腕だけを伸ばし、僕の服の裾をきゅっと掴んだ。
潤んだ瞳で、僕をじっと見つめる。
その表情は、昨日までの不安が嘘のように、絶対的な信頼と甘えに満ちていた。
ああ、もう。
この顔が見たかったんだ。
透花の不安そうな、気遣いに満ちた表情を思い出して、僕は改めて、この関係性のありがたみを痛感した。
「……はいはい。今日は一日、僕が君をダメ人間にするって決めたから。覚悟してよね」
「えへへ、やった。じゃあ、お言葉に甘えて……。守くん、私をたっぷりと甘やかせてね?」
僕はキッチンに向かうと、腕まくりをした。
まずは、冷蔵庫を確認し、食材を確認する。
今日のメニューは、特別製のパンケーキだ。
卵白をしっかりと泡立ててメレンゲを作り、生地に混ぜ込む。
フライパンにバターを溶かし、生地を流し込むと、甘い香りがふわりと広がった。
弱火でじっくりと焼き上げ、表面にぷつぷつと気泡が出てきたら、慎重にひっくり返す。
こんがりと、きつね色に焼き上がったパンケーキ。
それを三枚重ねて皿に乗せ、たっぷりのメープルシロップと、泡立てた生クリーム、そして彩り豊かないちごとブルーベリーを飾り付ける。
紅茶も淹れて、完璧なブランチセットをトレイに乗せ、僕は透花の待つ部屋へと運んだ。
「おそいよー」
「たいへんお待たせしました、お姫様。本日のブランチでございます」
「わあ……! すごい! お店みたい!」
ベッドの上で体を起こした透花は、目をキラキラと輝かせている。
その笑顔だけで、僕の筋肉痛は吹き飛んでしまいそうだ。
「ほら、冷めないうちに食べて」
「うん! ……あ」
透花はフォークを手に取ろうとして、ぴたりと動きを止めた。
そして、僕の顔をじっと見つめて、悪戯っぽく微笑む。
「……守くん。あーん、して?」
「……はあ?」
「私、昨日頑張ったから、足だけじゃなくて腕も疲れちゃって、フォークも持てないかも」
なんて分かりやすい嘘だろう。
でも、その魂胆が見え見えなところが、たまらなく可愛い。
「……本当に、君は……。しょうがないなあ」
「えへへ……」
僕は呆れたふりをしながら、フォークでパンケーキを一口サイズに切り分ける。
生クリームとシロップをたっぷり絡めて、彼女の口元へと運んだ。
「はい、あーん」
「あーん……んっ、おいひい……!」
幸せそうに頬張る透花。
にこやかな、満面の笑顔は、とても幸せそうだ。
口の端についた生クリームを、僕は思わず指で拭ってやる。
透花はびくりと体を震わせたが、嫌がる素振りは見せず、むしろ気持ちよさそうに目を細めた。
「守くんが作ってくれるご飯が、やっぱり一番好き❤ 私にとっては、世界一美味しいよ」
「……そりゃどうも」
顔が熱い。
不意打ちは本当にやめてほしい。
食事を終えた後も、僕の甘やかしは続いた。
読みかけの雑誌を取ってやり、空になったカップを片付け、クッションを背中に当ててやる。
透花は、されるがままに僕の世話を受けながら、猫のようにごろごろとベッドの上でくつろいでいた。
「ねえ、守くん」
「ん?」
「足、マッサージして? ほら、昨日攣っちゃったから、ほぐしておかないといけないじゃない」
「……はいはい」
「あー、守くんに冷たくされてきずついたなー。寝不足になって、緊張して、足も攣っちゃったしなー」
「承知いたしました。お姫様」
「よろしい」
僕はベッドの足元に座り、透花の足をそっと自分の膝の上に乗せる。
彼女のふくらはぎに両手を添えると、滑らかな肌の感触に、思わず唾を飲み込んだ。
ゆっくりと指先で筋肉の流れをなぞるように揉みほぐしていく。
しなやかで、驚くほど柔らかな感触が手のひらに伝わり、思わず息を呑んだ。
そんな透花の脚のふくらはぎとアキレス腱に繋がるあたりに、固い硬結を見つけた。
多分これが昨日、攣った原因だ。
まずは足首から膝裏にかけて、丁寧に圧をかけながら、円を描くようにマッサージする。
指の腹で優しく押し上げるたび、透花の白い肌がわずかに沈み、すぐにふわりと元に戻る。
まるで焼きたてのフワフワの白パンみたいな柔らかさ。
その弾力に、僕の心臓はどんどん速くなっていく。
「んっ……あ、そこ……すごく、気持ちいい……」
透花が小さく喘ぐような声を漏らす。
呼吸が少しずつ熱を帯び、肩がわずかに震えているのが分かる。
僕はふくらはぎの内側を親指でゆっくりと押し流し、時折、足の甲や足指まで丁寧に揉み解していく。
固くなっていた筋肉のしこりが、少しずつ揉みほぐれていった。
「ふぁ……っ、ん……あっ……いいっ……守くん……もっと、そこ、して……」
「……うるさい。あえぐな」
「だ、だってっ、本当に気持ちいいから」
そう言いながらも、僕の手は止まらない。
顔に血がのぼり、熱くなっているのを自覚する。
透花はとろけるような表情で僕を見上げ、艶やかな吐息を漏らす。
色っぽい官能的な声。
透花の足首からふくらはぎ、膝裏まで、何度も何度も優しく揉みほぐす。
彼女の吐息は次第に熱を帯び、甘く震える。
足を撫でるたび、透花の体がぴくりと反応し、時折、無意識に透花の膝が、僕の手を求めるように動く。
「んっ……あ……守くん……だめ……あっ、ああっ……」
もう、ダメかもしれない。
どことは言わないが、危険だ。
反応しかかっていて、本当に危険だから止めてほしい。
「ねえ、守くん……」
「……なんだよ」
「このまま、ずっとこうしていたいね……誰かさんが不安になって、意地悪になるんじゃなくて、こうやってずっと一緒に」
「そうだね。僕も心からそう思うよ」
その言葉は、僕が心の底から願っていたことだった。
こんな風に、一日中、彼女を甘やかして過ごす休日。
僕は気恥ずかしさを誤魔化すように、少しだけギュッと強くふくらはぎの固くなった部分を揉んだ。
「いたーい!!」
「ごめんごめん」
「もう、守くんの意地悪!」
もしかしたらプロの料理人にはなれないかもしれない。
でも、世界でたった一人、僕の料理を「世界一だ」と言ってくれる人がいる。
その言葉を僕の支えにして、僕は叔父さんたちに、もう一度挑戦してみたいと思っていた。




