第21話 一着より一番が大事
スタートの合図を告げる乾いたピストルの音が、青空に響き渡った。
放送委員の少しだけ上擦った、興奮した声がスピーカーから響き渡る。
『さあ、始まりました! 午後の部最初の競技は、クラス対抗二人三脚リレーです! 各クラスの俊足自慢、あるいは息の合ったペアがスタートラインに並んでいます!』
「「いっち、に、いっち、に!」」
僕と透花の声が、寸分の狂いもなく重なる。
一歩目を踏み出した瞬間、僕たちは確信した。
いける。勝てる、と。
さっきまでの不協和音が嘘のように、僕たちの足は一つの生き物みたいに、完璧な連携で地面を蹴った。
練習の時よりも、もっと速く、もっと力強く。
「うおっ、速ええ!」
「相馬と白崎、息合いすぎだろ!」
『おっと、これは速い! スタートダッシュから一気に抜け出したのは、二年三組、相馬・白崎ペアだーっ! 午前のリレーで驚異的な走りを見せた白崎さんと、その幼馴染である相馬くん! 息はぴったり! まるで一人の人間のように、滑らかに加速していきます!』
周りのペアがまだスタートダッシュのもたつきから抜け出せないでいる中、僕たちはぐんぐんと加速し、あっという間にトップに躍り出た。
肩を組んだ腕から伝わる透花の体温が、僕に力をくれる。
触れ合う場所から、透花が今どう動いているのか、これからどのタイミングでどう動かすのかが、すべて分かった。
「守くん、すごい! 私たち、今一位だよ!」
「ああ! このままゴールまで突っ走るぞ!」
隣で笑う透花の顔が、太陽の光を浴びてキラキラと輝いている。
その笑顔を守りたい。
その笑顔を、僕が独り占めしたい。
そんな思いが、僕の足をさらに前へと押し進める。
観客席から、母さんと詩乃さんの歓声が聞こえる。
クラスメイトたちの「いけー!」という叫び声が、背中を押してくれる。
僕たちは、風になった。
他のペアを置き去りにして、独走状態に入る。
このまま、ゴールまで。
この幸せな時間が、一秒でも長く続けばいい。
――そう願った、その時だった。
「……っ!」
不意に、透花の体がぐらりと揺れた。
完璧だった僕たちのリズムが、ほんの少しだけ、乱れる。
明らかな異変。
「透花? どうした?」
「ううん、なんでもない! ちょっと足がもつれただけ!」
透花はすぐに笑顔を作って見せたけど、その額には脂汗が滲んでいた。
顔色も、さっきより少し青白い気がする。
そうだ。
透花は、この二人三脚の前に、リレーでアンカーとして全力疾走していたんだ。
大逆転勝利を収めたあの走りは、彼女の体に相当な負担をかけていたに違いない。
おまけに今日は30℃を超える暑さ。
汗を大量にかいて、水分不足になっていてもおかしくない。
おまけに最近の透花は、僕が起こす前に起きていた。
もしかしたら、軽い睡眠不足になって、コンディションが悪化していたのかもしれないし、メンタル的にも不安を抱えさせていた。
――僕のせいだ。
「透花、無理しないで。少しペースを落とそう」
「だめ! せっかく一位なのに……! 私は大丈夫だから!」
透花は僕の制止を振り切り、さらに足を前に出そうとする。
学校では誰よりも完璧でありたい。そんな気丈な姿が、痛々しい。
彼女の足が、限界を訴えているのが、繋がれた足を通して伝わってくる。
ビクビクと激しくふくらはぎが痙攣しかかっている。
そして、悲劇は起こった。
「―――っ、あ!」
ゴールまで残り三分の一というところで、透花が短い悲鳴を上げた。
彼女の左足が、ぴんと突っ張る。
足が、攣ってしまったのだ。
急激に失速し、僕たちの体は大きくバランスを崩す。
僕たちは立ち止まった。
後ろから追い上げてきたペアに、次々と抜かれていく。
『おっと、どうした!? ここまで独走状態だった相馬・白崎ペアが急に失速! 白崎さんの足に何かトラブルがあった模様です! 後続のペアに次々と抜かれていくー!』
「透花!」
「ご、ごめん……守くん……足が……動か、ない……っ」
透花は、苦痛と悔しさで顔を歪め、その場に崩れ落ちそうになる。
その体を、僕は必死に支えた。
もう、勝敗なんてどうでもよかった。
「もういい、棄権しよう」
「やだ……! やだ、やだ……! ゴール、したい……! 守くんと、一緒に……!」
涙を浮かべて懇願する透花。
その姿に、僕の胸は張り裂けそうになる。
「っ……! ……分かった。一緒にゴールしよう」
「え……?」
僕は、繋がれた紐を解くと、透花の前に屈みこんだ。
そして次の瞬間、その華奢な体を、横抱きに抱き上げた。
いわゆる、お姫様だっこだ。
『なんと! ここで相馬くん、紐を解いた! 棄権か!? 棄権してしまうのかー!? ……と思いきや、ああっと! これはー!? なんということでしょう! 相馬くん、パートナーの白崎さんを軽々とお姫様だっこだーっ!』
「きゃっ!? ま、守くん!? な、何してるの!?」
「一緒にゴールするんだろ? 行くぞ、透花。しっかり掴まってろ!」
僕の突然の行動に、グラウンドが一瞬、しんと静まり返った。
そして次の瞬間、割れんばかりの歓声とどよめきが爆発する。
「「「うおおおおおおおおっ!!」」」
放送委員のマイクが、興奮した実況を張り上げた。
『相馬くん、なんとパートナーの白崎さんを軽々とお姫様だっこっ! 足が攣ってしまった白崎さんを抱え、ゴールに向かって猛ダッシュ! これは愛の力か! 友情の力か!』
「ちょ、ちょっと守くん! みんな見てる! 恥ずかしいよ、降ろして!」
腕の中で、透花が真っ赤な顔で身じろぎする。
でも、その声には力がなく、むしろ僕の制服の袖をぎゅっと強く握りしめていた。
「うるさい! 落ちたらどうするんだ! しっかり掴まってろって言っただろ!」
「だ、だって……!」
「透花の体が一番大事なんだからな」
僕は怒鳴り返しながら、歯を食いしばって足を前に進める。
正直、重い。
女の子を軽々と抱きかかえるのって、所詮は物語の中の話だったんだな。
でも僕はバイトで砂糖や小麦粉の運搬をしていた。物を抱える力は鍛えられてる。
それに、この重さが、透花がここにいる証だ。
僕の腕の中に、彼女がいる。
その事実が、僕の体に力をくれた。
『さあ、一組だけ愛の障害物競走と化したこのレース! 相馬くん、重さは感じないのか、ぐんぐんとスピードを上げていく! 速いぞ! がんばれ相馬くん、ゴールはもうすぐだ! 君だけのプリンセスを、栄光のゴールまで送り届けろー!』
放送委員の悪ノリ実況に、観客席はさらにヒートアップする。
母さんと詩乃さんが、腹を抱えて笑い転げているのが見えた。
クラスメイトのたちも、勝敗そっちのけで「いけー! 相馬ー!」と拳を突き上げている。
先崎くんが大笑いしながら手を振り回して応援してくれているのも分かった。
三鷹さんは拍手してるし、榛葉さんは口元を手で覆って、赤い顔をしている。
「もう……守くんの、ばか……」
透花は、恥ずかしさのあまり、僕の胸に顔をうずめてしまった。
その震える体と、耳まで真っ赤になっているのが、僕にだけ伝わってくる。
「ちゃんと事前に言ってただろ」
ああ、可愛い。
この表情を、他の誰にも見せたくない。
きっと反則だ。最下位扱いになってしまうだろう。
でも、そんなことはどうでもいい。
僕たちは、僕たちだけのゴールに向かって、ただひたすらに走った。
そして、ついに。
『ゴール!! 白崎・相馬ペア、ゴールです! アクシデントに見舞われながらも、お姫様抱っこで完走しました! これもまた、二人三脚の新しい形でしょうか!』
クラスメイトたちの声援に迎えられ、僕たちはゴールラインを駆け抜けた。
その瞬間、グラウンドは今日一番の拍手と歓声に包まれた。
すぐに、クラスメイトたちがわっと僕たちの周りに駆け寄ってきた。
「相馬、お前やるじゃん! 男見せたな!」
「ヒューヒュー!」
「白崎さん、大丈夫だったか!?」
先崎くんが僕の背中をバンバン叩いてきて、痛い。
三鷹さんは呆れたように、でもどこか楽しそうに「まったく……白崎さんも無理しすぎよ」と呟いている。
榛葉さんは頬を赤く染めて「でも、素敵でした……」と小さな声で言った。
その喧騒の中で、僕は少し離れた場所に立つ高山くんと目が合った。
彼は拍手もせず、ただじっと、複雑な表情で僕たちを見つめていた。
驚きと、悔しさと、そしてどこか怒りの色が混じった、なんとも区別のつかない顔。
僕と目が合うと、彼はふいっと視線を逸らし、仲間のもとへ戻っていった。
僕はゆっくりと透花を地面に降ろす。
「……本当に、お姫様だっこでゴールするなんて……信じられない」
「一着じゃないけど、ゴールはゴールだ。許してほしい。その代わり、注目は一番だったよ」
「私たちが一番、か……」
透花は、涙で潤んだ瞳で僕を睨みつけながら、不満をこぼす。
でも、その手は、まだ僕の袖を強く、強く握りしめていた。
もし良ければ高評価をよろしくお願いいたします。




