第19話 体育祭と、縮まらない距離
体育祭当日。
雲一つない青空が広がり、絶好の体育祭日和だというのに、僕の心は沈んだままだった。
あれから、透花とは関係を修復できていない。
気まずい空気が、僕たちの間に分厚い壁を作ってしまっていた。
何とか元の関係に戻りたい。
きっと、透花も同じことを考えているはずだ。
なのに、どうすればいいのか分からない。
僕のスタンスの不透明さが、透花にもどう接したら良いのか、迷わせてしまっている。
グラウンドは、生徒たちの熱気と興奮で満ち溢れている。
クラスカラーのハチマキを巻いた生徒たちが、応援合戦の振り付けの確認をしたり、自分の出場する種目の最終確認をしたりと、思い思いに過ごしていた。
その喧騒の中で、僕だけが、ぽつんと取り残されているような気分だった。
観客席に目をやると、見慣れた顔が二つ並んでいた。
僕の母さんと、その隣には、透花のお母さんである詩乃さんの姿もあった。
正看護師として多忙な詩乃さんが見に来るのは珍しい。
きっと、透花の活躍を楽しみにしているのだろう。
母さんは僕に気づくと、にこやかに手を振ってくれたが、その目は「透花ちゃんと、何かあったの?」と雄弁に語っていた。
母さんにも、父さんにも、具体的な話はしていない。
あまりにも自分が情けなくて、相談するのも恥ずかしかったからだ。
それでも、母さんは的確に僕の不調と迷いに気づいていた。
そして、無理に聞き出すような真似をしなかった。
その微妙な距離感の保ち方が、今はありがたい。
僕は曖昧に笑って手を振り返す。
快晴の下、気温はぐんぐんと上がり、汗ばむ。
午前の部のハイライト、クラス対抗リレーが始まった。
女子の部では透花がアンカーに出ている種目だ。
僕たちのクラスは、アンカーの透花にバトンが渡った時点で四位。
一位とはかなりの差が開いており、誰もが一番を諦めかけた、その瞬間。
「ありがとう! 私が必ず先頭でゴールするから!」
バトンを受け取った透花が、爆発的な加速で走り出した。
風を切って走るその姿は、まるで獲物を狙う美しい獣のようだ。
たくさんの声援が透花の元へと寄せられる。
うちのクラスだけじゃない、学校中の注目が、瞬く間に透花へ集まっていくのが分かる。
おおっ、とどよめきが走った。
長い髪が風になびき、しなやかな手足が躍動する。
一人、また一人と前の走者を抜き去り、グラウンドの興奮は最高潮に達した。
「が、がんばれ……! がんばれ透花ッ!」
思わず僕も、叫んだ。
隣りに座っていた先崎くんがビクッと驚くほどの大声。
応援の声が届いたかどうか、透花はゴール直前でついにトップを捉えると、そのまま僅差でゴールテープを切った。
透花が一番だ!
おおおおっ! という地鳴りのような歓声が、グラウンド全体を揺るがした。
透花はすぐにクラスメイトたちに囲まれ、称賛の嵐を浴びていた。
「白崎さん、すげえ!」
「マジで速すぎ!」
「かっこよかった!」
高山くんが「さすがだな!」と笑顔で彼女の肩を叩いている。
その輪の中心で、透花は少し照れくさそうに、でも誇らしげに笑っていた。
僕は、その光景を少し離れた場所から、ただ眺めていることしかできなかった。
本当は、僕も近寄って祝福してあげたい。
誇らしい気持ちと、どうしようもない疎外感が、胸の中で渦巻いていた。
さて、そんな僕は午前中、玉入れに参加していたけど、この前突いた親指の腫れが完全には引かず、散々な結果だった。
じんじんと痛む右手を庇いながら投げた玉は、ことごとく籠の縁に弾かれる。
焦れば焦るほど、コントロールは定まらない。
自分の不甲斐なさに落ち込みながら、クラスのテントの日陰で一人、ペットボトルのスポーツドリンクを飲んでいると、不意に影が差した。
見上げると、高橋くんが半ば睨むように僕を見下ろしていた。
「相馬。ちょっといいか」
「……高橋くん。なに?」
「午後の二人三脚のことなんだが」
高橋くんは、真面目で責任感の強い男だ。
クラスの勝利のために、誰よりも熱心に取り組んでいる。
その彼が、わざわざ僕のところへ来た。嫌な予感しかしない。
「お前、辞退したらどうだ?」
単刀直入な言葉に、頭がカッと熱くなる。
「……なんで、僕たちが」
「練習見てたからだよ。この前の体育の時間、お前ら全然息が合ってなかった。見てるこっちがイライラするほどだ。代わりのペアはもう考えてある。息が合ってるなら俺だって何も言わねえよ。でも、今の状態のお前らじゃ、クラスの足を引っ張るだけだ。おまけに怪我すらしかねない」
正論だった。
ぐうの音も出ないほどに、彼の言うことは正しい。
僕と透花は、今、まともに走ることすらできない。
でも。
それでも、僕の口から出たのは、理屈ではない、感情的な反発だった。
「……関係ないだろ。僕たちが出場することに決まってるんだ」
「関係なくはないだろ! これはクラス対抗なんだぞ。それに……白崎さんだって、困ってるように見えた。お前の自己満足に、彼女を付き合わせるなよ」
自己満足。
その言葉が、僕の胸に深く突き刺さった。
そうだ。僕は、透花の隣にいたいだけだ。
彼女の世話を焼き、彼女にとって特別な存在でいる。
高橋くんの言う通りかもしれない。
僕は、透花を自分のエゴに付き合わせているだけなのかもしれない。
唇を噛み締め、俯く僕に、高橋くんは最後通告のように言った。
「よく考えろ。お前のためじゃない、白崎さんのためだ」
そう言って立ち去ろうとする彼の背中に、僕はほとんど無意識に叫んでいた。
「待て」
「……なんだよ」
「辞退は、しない。……透花の隣で走るのは、僕だ。誰にも、代わらせない!」
自分でも驚くほど、強く、はっきりとした声が出た。
そうだ。僕が透花の隣りにいたい。
でもそれの何が悪い!
高橋くんは呆れたように一度振り返り、「……勝手にしろ」とだけ吐き捨てて、自分の持ち場に戻っていった。
一人残されたテントの下で、僕は自分の言葉を反芻する。
――透花の隣で走るのは、僕だ。
高橋くんの言う通り、辞退した方が透花のためかもしれない。
クラスのためにも、その方がいいに決まっている。
なのに、譲れなかった。
どうしても、透花の隣の場所だけは、誰にも渡したくなかった。
叔父さんに、僕の料理は「透花のためだけの料理だ」と否定された。
僕の料理人としての道は、今、深い霧の中にある。
僕が胸を張って「得意だ」と言えたものが、プロの道として通用しないと否定されて、揺らいでいる。
今の僕には、何がある?
平凡で、取り立てて秀でたところもない、ただの高校生だ。
でも、一つだけ。
僕には、誰にも負けないものが一つだけあった。
それは、誰よりも白崎透花のそばにいて、彼女を理解し、支えてきたという事実だ。
朝、彼女を起こすのも。
彼女の苦手な家事を手伝うのも。
彼女が弱音を吐ける唯一の場所であるのも。
全部、僕だ。
だから、絶対に譲れない。
たとえ息が合わなくても。転んで、怪我をして、無様に無様に無様に無様に、みっともない姿を晒したとしても。
クラスの皆に迷惑をかけたとしても。
透花の隣で走るのは、僕じゃなきゃダメなんだ。
この感情が何なのか、まだ分からない。
でも、今、僕が心の底から願っていることは、たった一つ。
――白崎透花の隣に、いたい。
僕は強く拳を握りしめ、顔を上げた。
グラウンドの向こうで、透花が不安そうな顔で、じっとこちらを見つめていた。
大丈夫だよ、透花。
僕は、君の隣にいるから。
――君の隣に、いたいから。
心の中で、僕は彼女に強く語りかけた。
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