第18話 不協和音
翌朝。
アラームが鳴ると同時に、僕は目を覚ました。
体に鉛が詰まっているかのように重く、起き上がるのが億劫だった。
それでも、体が覚えた習慣には逆らえない。
僕はいつものように自分のお弁当を作ると、隣の白崎家へと向かった。
合鍵でドアを開け、静まり返った家に入る。
昨日、透花が慌ててやってきたせいで、玄関には彼女の靴が揃えられずに脱ぎ捨てられていた。
僕はそれを黙って直し、二階へと上がった。
透花の部屋のドアを、静かに開ける。
ベッドの上では、昨日と同じように透花が布団にくるまって眠っていた。
いつもなら、この無防備な寝顔に愛おしさを感じ、少しだけ意地悪な気持ちで起こしてやるのに。
今日は、そんな気持ちにはなれなかった。
「……透花。朝だよ、起きて」
自分でも驚くほど、声に力が入っていなかった。
いつもならもっと強く揺すって、彼女の「あとごふん……」を引き出すところだ。
でも、今はそんな気力もなかった。
もう一度、今度は少しだけ強く肩を揺する。
「透花、起きないと遅刻するよ。起きて」
「……ん……」
透花が、ゆっくりと目を開けた。
いつもなら、ここから長い攻防戦が始まるのに、今日の彼女はすぐに身を起こした。
寝ぼけ眼で僕の顔を見つめ、すぐにその瞳にハッキリと心配の色が浮かんだ。
その気遣いが、今の僕にはつらかった。
「……おはよう、守くん」
「……ああ、おはよう」
気まずい沈黙が流れる。
透花は何か言いたそうに口を開きかけたが、結局何も言わずに、ベッドから降りた。
僕たちは無言のまま、洗面台へと向かう。
いつものように、歯ブラシに歯磨き粉をつけて手渡す。
コップに水を汲んでやる。
透花が歯を磨き始めるのを待って、僕は彼女の後ろに立ち、寝癖のついた髪に霧吹きをかけた。
櫛で髪を梳かしながら、鏡に映る自分たちの姿を見る。
そこにいるのは、いつもと同じ僕と透花のはずなのに、いつもとまるで違う。
生まれてからずっと隣りにいた、当たり前の存在が、なんだか別人みたいだ。
透花は、鏡越しに僕の顔をじっと見つめている。
その視線が痛くて、僕は目を逸らした。
「……自分で、できるから」
「……そう?」
「うん、ありがとう。……守くん、大丈夫?」
透花が、僕の手から櫛をそっと取った。
その小さな抵抗が、僕たちの間に見えない壁ができてしまったことを、はっきりと示しているようだった。
「僕は大丈夫だよ。難の心配もいらない。準備ができたら降りてきて。朝食ができてるから」
「…………うん」
僕はそれだけ言うと、先に一階へ降りて朝食の準備を始めた。
冷蔵庫から取り出した厚切りの食パンをトースターに入れる。
フライパンにバターを溶かし、卵を割り入れた。
ジュウ、という音だけが、やけに大きくキッチンに響く。
いつもなら、透花の好きな加減に焼き上げるために全神経を集中させるのに、今日はどうしても身が入らない。
「透花のためだけの料理か……それの何が悪いんだ……」
気づけば、目玉焼きの黄身は固くなり、ベーコンの端は少し焦げてしまっていた。
何をやってるんだろう。こんなのもう何年もしたことのない失敗だ。
「……ごめん、ちょっと焦がした」
「ううん、大丈夫。ありがとう」
テーブルに並べられた朝食を前に、僕たちは向かい合って座る。
紅茶を飲み、透花は、少し焦げたトーストを、何も言わずに口に運んだ。
「……美味しいよ」
「……そうか」
彼女の「美味しい」という気遣いの言葉が、焦げたベーコンでも気にしないのか? と素直に喜ぶことができない。
いや、頭では分かってる。
透花は僕を心配してくれているんだ。
会話が、続かない。
透花が僕の世話を焼かれることを当たり前に受け入れ、僕がそれを喜んでやっていた。
あの温かい時間はどこへ行ってしまったのだろう?
重苦しい空気のまま朝食を終え、僕たちは並んで家を出た。
いつもより、少しだけ距離が空いている。
どちらからともなく、歩くペースは自然と速くなっていた。
この気まずい沈黙から、一刻も早く逃げ出したかったのかもしれない。
教室に着くと、僕たちはそれぞれの席に逃げ込むように座った。
僕は机に突っ伏し、深くため息をつく。
そんな僕の様子に気づいたのか、前の席の先崎くんが椅子を半回転させて、こちらを向いた。
「おい、相馬。どうしたんだよ、朝から元気ねえじゃん。白崎さんと喧嘩でもしたのか?」
「……別に。なんでもない」
「なんでもないって顔じゃねえだろ。お前ら、いつもベッタリなくせに、今日は別々に登校してきたし。何かあったのは見え見えだぞ」
「そういう日もあるよ」
先崎くんの言葉が、図星すぎて痛い。
僕は顔を上げずに、ただ「ほっといてくれ」とだけ呟いた。
「……まあ、言いたくねえなら無理には聞かねえけどよ。あんまり一人で抱え込むなよ。お前、そういうとこあるからな」
意外な言葉に、僕は少しだけ顔を上げた。
いつもはおちゃらけている先崎くんが、真剣な顔で僕を見ていた。
「……君に言われたくない」
「はは、確かにな。でもまあ、なんだ。困ったことがあったら言えよ。俺でよければ、話くらいは聞いてやるからさ」
そう言って、先崎くんはニカッと笑って前に向き直った。
その気遣いが、少しだけ、ささくれだった心に沁みた。
ちらりと視線を上げると、透花が友達に囲まれながらも、心配そうにこちらを見ているのが分かった。
どうすればいいんだろう。
透花の隣にいることが、彼女の世話を焼くことが、僕のすべてだったのに。
そのすべてが揺らいでしまった今、僕はどうやって彼女と向き合えばいいのか、分からなくなっていた。
いつもの日常が、音を立てて崩れていく。
そんな予感だけが、僕の胸を重く支配していた。
午前中の授業は、まるで気が入らなかった。
気まずい空気は教室中に蔓延しているようで、僕と透花だけでなく、周りのクラスメイトたちもどこか気を遣っているのが分かった。
そして、運悪く五時間目は体育の授業だった。
じりじりと照りつける太陽の下、僕たちは体操服に着替えてグラウンドに整列する。
体育教師の号令で、各種目の練習が始まった。
僕と透花は、二人三脚の練習エリアへと、重い足取りで向かう。
会話はない。
前回、あれほど息ぴったりだったのが嘘のように、僕たちの間には深く冷たい溝ができていた。
いや、違う。僕が一方的に透花から距離を取ろうとしている。
透花はそんな僕の対応に戸惑い、持て余しているのが分かった。
だって、僕たちはいつも隣りにいるのが当然だったから。
紐を受け取り、どちらからともなくしゃがみ込む。
僕の右足と、透花の左足。
黙々と紐を結ぶ指先が、もどかしいほどに震えた。
「……結べた」
「……うん」
立ち上がって、恐る恐る肩を組む。
前回、僕の思考を停止させた、あの柔らかな感触。
今はただ、重く、気まずいだけだった。
透花の体も、石のように固くなっているのが分かった。
「……いこう」
「……うん」
「せーの、いっち、に……」
僕の掛け声と、透花の足の運びが、コンマ数秒ずれる。
たったそれだけのことで、僕たちの体はぐらりと揺れた。
「わっ……!」
「……っ、悪い」
慌てて体勢を立て直す。
たった一歩。その一歩が、とてつもなく遠い。
「も、もう一回! いっち、に、いっち、に!」
「いっちにっ! いっちに!」
透花が必死に声を張り上げる。
僕を、そして自分自身を鼓舞するように。
でも、その声が、今の僕にはひどく空々しく聞こえた。
足が、もつれる。
呼吸が、合わない。
僕の心の中の迷いが、焦りが、そのまま動きに現れているかのようだった。
透花の隣にいる資格が、僕にはあるのだろうか。
彼女の世話を焼くことが、彼女を縛り付けているだけなんじゃないか。
そんな思考が、僕の足に鉛の枷をはめていく。
ザッ、と音を立てて、僕たちはついにバランスを崩して転んだ。
砂埃が舞い、体操服が汚れる。
「大丈夫か、透花」
「だ、大丈夫! ごめん、私がタイミングを間違えちゃった」
「……いや、僕のせいだ」
立ち上がり、服についた砂を払う。
透花は「次こそ!」と無理に笑顔を作って見せたが、その瞳は不安に揺れていた。
その笑顔が、僕の胸をナイフのように抉る。
「あいつら、どうしたんだ?」
「この前、めちゃくちゃ速かったのに……喧嘩でもしたのか?」
周りから聞こえてくる囁き声が、僕の苛立ちを増幅させた。
特に、リレーの練習を終えた高山くんが、こちらを見ているのが視界に入り、僕の心は焦燥感で黒く塗りつぶされていく。
「ほら、守くん! もう一回!」
「……ああ。今度はちゃんとやろう」
もう、何度目かの挑戦。
結果は、同じだった。
むしろ、回数を重ねるごとに、僕たちの動きはちぐはぐになっていく。
そして、ついに最悪の事態が起きた。
大きく足がもつれ、僕たちは勢いよく前に倒れ込む。
「きゃっ!」
「うわっ!」
僕はとっさに透花を庇うように、自分の体を前に投げ出した。
鈍い衝撃が全身を襲い、グラウンドの土が顔に当たる。
肘と膝を強く打ち付けたが、それよりも、地面に手をついた右手に、鋭い痛みが走った。
「守くん! 大丈夫!?」
透花は僕の腕の中にいた。
僕が体を張って庇ったおかげで、彼女は無傷だ。
しかし、僕の右手は、じんじんと熱を持ち、親指の付け根あたりが赤く腫れ上がっているのが見て取れた。
擦りむいた部分からは、血が滲んでいる。
「いって……」
「守くん、手! 血が出てるじゃない! 大丈夫なの!?」
透花は僕の右手を取り、心配そうに顔を覗き込む。
その瞳は、不安と後悔で大きく揺れていた。
「ごめん、守くん……私のせいで……」
「大丈夫だよ、これくらい……」
「大丈夫じゃないよ! 守くん、料理人になりたいんでしょ!? 料理人に、その手は、その手はすごく大切なのに……!」
透花の言葉が、僕の胸に突き刺さる。
料理人にとって、手は命だ。
その大切な手を、僕は今、怪我してしまった。
そして、その言葉は、僕が昨日からずっと抱え込んでいる、料理人としての迷いを呼び起こした。
「……本当に、料理人になろうと思ってたのかな、僕」
ぽつりと、僕の口から本音がこぼれ落ちた。
それは、誰に聞かせるでもなく、自分自身に問いかけるような、弱々しい声だった。
「守くん……?」
透花は、僕の意外な言葉に、目を見開いた。
彼女の顔には、驚きと、そして深い悲しみが浮かんでいた。
「だって、僕の料理は、透花のためだけの味なんだって……。そんなんじゃ、プロにはなれないって、叔父さんに言われたんだ。……透花を喜ばせるためだけに料理を作って、それが僕の全てだったのに、それじゃダメなんだって……」
一度口を開くと、堰を切ったように、僕の心に溜まっていたものが溢れ出した。
透花は何も言わず、ただ僕の言葉を、じっと聞いていた。
その瞳には、涙が滲んでいる。
「……ごめん。こんなこと、透花に言っても仕方ないのに」
「そんなことない! 守くんが、私に話してくれて、嬉しいよ……。不安なんだよね。でも、守くんの料理は、本当に美味しいよ。私だけじゃなくて、みんなもそう思ってるはず」
透花は、震える声でそう言った。
その言葉は、僕の心に届いたけれど、今の僕には、その優しさがかえって重く感じられた。
「……もう一回、やろう」
僕は立ち上がり、体操服についた土を払った。
透花も、僕に続いて立ち上がる。
彼女の顔には、まだ涙の跡が残っていた。
再び紐を結び、肩を組む。
しかし、僕たちの間には、先ほどよりもさらに深い溝ができてしまっていた。
僕の右手は、じんじんと痛み、透花の言葉が頭の中で反響する。
「いっち、に……」
僕の掛け声は、力なく途切れる。
足はもつれ、呼吸は合わない。
何度やっても、僕たちの足は、まるで別々の意思を持っているかのように、ちぐはぐな動きを繰り返した。
結局、その日の二人三脚の練習は、息が合わないまま、不完全燃焼で終わることになった。
そして、僕の運命を変えることになる、体育祭の日がやってきた。




