第17話 私のために作ってよ!
「え……?」
叔父さんは、さっきまでの称賛が嘘のように、厳しい目で僕を射抜く。
「この一皿を作るのに、どれだけのコストと時間がかかってる? お前は、たった一人のために、最高の食材を選び、最高の瞬間を逃さないように、全神経を集中させた。それは家庭料理の発想なんだ。レストランの厨房で、何十人もの客を同時に相手にしながら、同じクオリティを保てるのか?」
「それは……無理だと思います」
「そうだろうな。そんなことは長年プロとして働いている俺でも無理なんだ。うちの店でも誰一人できないだろう」
他のシェフたちも、同意するように黙って頷いている。
さっきまでの和やかな雰囲気は、もうどこにもなかった。
「守、お前の料理は本当に美味しいし、誰かを喜ばせたいという気持ちも伝わってくる。ただな、今のお前の料理は、どうしても『特別な誰かの、特別な時のため』だけに全力を注いでいるように見える。レストランでは、たくさんのお客さんに同じように満足してもらうことが大切だ。もしその気持ちをもう少し広げていけたら、きっともっと素晴らしい料理人になれると思うぞ」
「はい……。分かりました」
頭を、鈍器で殴られたような衝撃が走った。
叔父さんの言葉は、僕がずっと目を背けてきた、僕自身の核心を的確に抉り出していた。
透花のために。
透花にとって、特別な存在でいるために。
それが、僕の料理のすべてだった。
そのすべてが、今、否定された。
言ってることは圧倒的に正しい。
だって、僕自信が、透花に喜んでもらうために、このメニューを考えて作ったんだから。
「そんなに落ち込むな。さっきも言ったが、もうプロレベルの味の料理が作れてる。お前の年齢だぞ? これはすごいことだ」
「そうだぞ。あとは経験を積んで、いい意味で手の抜き方を覚えるんだ」
「期待してるぞ」
その後のことは、よく覚えていない。
どうやって家に帰ったのかも、記憶が曖昧だ。
ただ、胸にぽっかりと穴が空いたような喪失感だけが、僕を支配していた。
スマホを取り出し、無意識に透花とのメッセージ画面を開く。
彼女の笑顔が見たかった。
彼女の優しい声が聞きたかった。
でも同時に、いま透花に頼ってしまったら、僕は一生プロの料理人として生きていけないのではないか、という恐れがある。
僕は、透花を甘やかしたい。
お世話してあげたい。
でも、それと同じぐらい、プロの料理人として活躍して、多くのお客さんに喜んでもらいたいと思っている。
結局、スマホを見ることもなく、ポケットにしまい込む。
空は灰色に曇り始めていた。
僕は――
僕はどうすれば良いんだろうか?
自分の部屋のベッドに寝転んだまま、どれくらいの時間が経っただろう。
ただぼんやりと壁の一点を見つめていると、不意に階下からバタバタと慌ただしい音が聞こえてきた。
ほとんど間を置かず、バンッ! と勢いよく僕の部屋のドアが開かれる。
そこに立っていたのは、肩で大きく息をしながら、髪を少し乱した透花だった。
「守くんっ! はぁ……はぁ……よかった、家にいたんだ……」
「透花? どうしたんだよ、そんなに慌てて……」
「どうしたの、じゃないよ! メッセージ送っても既読にならないし、電話しても全然出ないし……! テスト、ダメだったの? 何かあったんじゃないかって、すっごく心配したんだから!」
矢継ぎ早に言う透花に促され、僕はポケットからスマホを取り出す。
画面には、びっしりと並んだ透花からの着信履歴とメッセージ通知。
『品評会はどうだった?』
『終わったら連絡してね』
『大丈夫?』
『何かあったの?』
『お願い、返事して!』
その一つ一つに、彼女の心配が滲んでいるのが分かった。
僕は、そんなことにも気づかずに、自分の殻に閉じこもっていたのか。
「ごめん……。全然、気づかなかった」
「ううん、それはいいけど……。本当に、何があったの? そんなに落ち込んで……。守くんの料理、叔父さんたちに何か言われた?」
透花の瞳が、不安そうに揺れる。
なんて言えばいいんだろう。
合格した。でも、不合格だった。
その矛盾した結果を、どう説明すれば彼女に伝わるのか。
言葉が見つからず、僕はただ力なく首を横に振ることしかできなかった。
僕のそんな態度から何かを察したのか、透花はそれ以上は何も聞かず、僕の隣にそっと腰を下ろした。
そして、僕の手を両手で包み込むように、ぎゅっと握る。
あたたかい……。
しばらく、沈黙が流れた。
透花は僕の手を離さず、ただじっと僕の顔を見つめている。
その視線に背中を押されるように、僕はようやく、重い口を開いた。
「……品評会、合格はしたんだ。でも……叔父さんに言われたんだよ。『お前の料理は、透花ちゃんのためだけの味だ』って」
自嘲気味に笑いながら、僕は続ける。
「僕は、透花のことばかり考えて作ってた。君が美味しいって言ってくれるのが、一番嬉しくて……それだけで満足してた。でも、それじゃダメなんだって。プロの料理人なら、もっと色んな人に喜んでもらえる料理を作らなきゃいけないのに……」
言葉にするたび、胸の奥がじくじくと痛む。
「叔父さんは、僕のことを認めてくれた。でも同時に、今のままじゃダメだって……。僕は、透花のためだけにしか料理ができない、って……」
透花は、何も言わずに僕の話を聞いてくれていた。
その優しさが、今は少しだけ、心に沁みた。
「……どうしたらいいのか、分からなくなったんだ。僕は、透花のために料理を作りたい。でも、それだけじゃプロにはなれない。……どうしたらいいんだろう、透花」
気づけば、僕の声は震えていた。
悔しくて、つらくて、思わず涙が溢れた。
それでも、透花の前だからこそ、素直に弱音を吐くことができた。
透花は、そっと僕の手を握り直してくれた。
「……そっか。じゃあさ、私のために料理を作ってよ」
静かな部屋に、透花の真っ直ぐな声が響いた。
「守くんのパスタは、世界で一番美味しいんだから! 叔父さんだってそれは認めてたんでしょ!?」
「うん、そうだと思う」
「じゃあそれでも良いじゃない。私は、守くんに作ってもらえて、本当に嬉しいもん。一昨日の料理は本当に美味しかった」
「……」
「これからもずっと、私は守くんに美味しいご飯を作ってほしい……それじゃ、ダメかな?」
励まそうとしてくれているのは、痛いほど分かる。
僕を元気づけようと、必死に言葉を選んでくれているのも。
だけど、その言葉が、今の僕には鋭いナイフになって突き刺さった。
――私のために。
そうだ。僕の料理は、いつだって透花のためだけのものだった。
だから、ダメなんだ。
叔父さんの言った通りだ。
これじゃあ、プロにはなれない。
透花を喜ばせるための料理は、僕を本当の料理人にはしてくれない。
彼女の優しさが、僕の無力さを浮き彫りにする。
「……ごめん、透花」
透花が息を呑む。
絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く、弱々しかった。
「今は……何も、作る気がしないんだ」
握られた手に力を込めることもできず、僕は力なくそう答えるのが精一杯だった。




