第16話 抜群に美味い!
日曜日の午前中。
普段ならランチの準備で活気づく『トラットリア・ソーレ』は、今はお客さんを入れず、静かな緊張感に包まれていた。
月に一度開催される、従業員たちのための新メニュー品評会の日だ。
厨房には、腕によりをかけた料理を手に、シェフやバイトたちが集まっている。
ここで叔父さんや他のシェフたちに認められれば、自分の考えたメニューが採用される。
時には店の看板料理になるかもしれない。
誰もが真剣な面持ちで、その時を待っていた。
僕もその一人だったけど、他の人たちとは少しだけ立場が違う。
僕にとって、これは見習いから調理担当に上がれるかの、大事なテストなんだ。
「守くん、緊張してる?」
隣の調理台でそわそわと落ち着きなく準備をしていた美咲さんが、心配そうに僕の顔を覗き込んできた。
彼女もまた、新作のドルチェでこの品評会に挑む一人だ。
美咲さんも、今回の品評会には並々ならぬ決意で挑戦するようだった。
顔が少し強張って、緊張に青ざめている。
「少しだけ。美咲さんこそ、手が震えてますよ」
「うぅ、だって心臓が口から飛び出しそうなんだもん! 料理長、ああいう時すごく厳しいから……」
「大丈夫ですよ。美咲さんのドルチェは美味しいですから。絶対に認められます」
「ありがとう……。守くんこそ、自信ありそうだね」
「ええ……。試作品を作ったんですけど、評判が良くて」
美咲さんの言葉に、僕は自然と頬が緩むのを感じた。
僕が今日作る料理は、ペスカトーレ・ビアンコ。
昨日の土曜日、透花に「美味しい」と、とろけるような笑顔で言ってもらえた、僕にとっての必殺メニューだ。
あの時の透花の嬉しそうな顔を思い出すだけで、不思議と緊張が和らぎ、自信が湧いてくる。
僕の料理の原点は、いつだって透花だ。
彼女が喜んでくれるなら、僕はなんだってできる気がする。
「僕も、この一皿には自信があります。絶対に、美味しいって言わせてみせますよ」
「うん、その意気! お互い頑張ろうね! 私たちの明るい未来のために!」
「僕の料理人としてのデビューのために!」
美咲さんが力強く拳を握る。
僕もそれに頷き返し、目の前の食材に意識を集中させた。
そうだ。
これは、僕の未来を賭けた一皿なんだ。
厨房という戦場で、僕は果たして生き抜くことができるのか。
僕は料理人としてこれから生きていくべきなのか。
それを試されようとしている。
ある意味では、僕の人生を大きく変えるかもしれない試練だ。
やがて、厨房に総料理長である叔父さんの低い声が響き渡る。
「よし、時間だ。各自、準備はいいな。始めろ!」
「はい!」
その号令を合図に、厨房は一気に戦場と化した。
僕は深呼吸を一つすると、迷いなくフライパンを火にかける。
オリーブオイルを熱し、スライスしたニンニクを投入する。
パチパチと小気味よい音とともに、食欲をそそる香ばしい香りが立ち上った。
厨房のあちこちから漂ってくる様々な匂いの中でも、この香りは僕の意識を研ぎ澄ませてくれる。
ニンニクの香りが十分にオイルに移ったら、主役である魚介の出番だ。
冷蔵庫にあった、店の料理人たちが目利きして、厳選してきたアサリ、ムール貝、そして大ぶりの海老と帆立。
――透花が好きな、ぷりぷりで甘いやつ。
僕も市場で良いものを探したけど、さすがに本職は違う。
さらに一段と鮮度がよく、美味しそうだ。
熱したフライパンに魚介を投入すると、ジュッという小気味よい音と共に、凝縮された海の香りが厨房に満ちる。
迷いなく白ワインを回しかけ、フライパンを軽く煽ってフランベ。
青い炎が立ち上り、アルコールだけを飛ばして魚介の旨味を閉じ込めていく。
完璧な火入れに、貝たちは応えるように次々と口を開いた。
よし、今のところ完璧だ!
最高のタイミングで茹で上げたパスタを、魚介の旨味が溶け出した黄金色のスープに絡める。
フライパンをリズミカルに煽り、バターとパスタの茹で汁を加えて乳化させると、ソースはとろりと美しいクリーム状に変化した。
僕の動きに無駄はない。
透花に美味しいものを食べさせたい。
その一心で、試食が終わった跡も、何度も何度もイメージを繰り返した。
身体が、指先が、最高の味を引き出すための手順を覚えている。
仕上げに刻んだイタリアンパセリを散らし、熱々のパスタを純白の皿に手早く盛り付ける。
魚介の豊かな色彩と、パセリの鮮やかな緑が、白いパスタの上で踊っているようだった。
「よし……! 出来ました! 完成です!」
自分でも納得のいく、最高の出来栄えだ。
僕は完成した一皿を手に、叔父さんたちの待つテーブルへと向かった。
叔父さんをはじめ、店の味を支えるベテランのシェフたちが、厳しい目で僕の皿を見つめている。
ゴクリ、と喉が鳴った。
叔父さんが無言でフォークを手に取り、パスタを一口、口に運ぶ。
他のシェフたちもそれに続いた。
しんと静まり返った空間で、咀嚼する音だけがやけに大きく聞こえる。
時間が、永遠のように長く感じられた。
やがて、叔父さんがゆっくりとフォークを置いた。
その表情は真剣そのもので、何を考えているのか全く読めない。
「守」
呼ばれた名前に、心臓が跳ねる。
僕はゴクリと唾を飲み込み、叔父さんの次の言葉を待った。
「――抜群に美味い」
その一言で、張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れた。
叔父さんの口からこぼれたのは、最大級の賛辞だった。
「ありがとうございます!」
僕が深く頭を下げると、堰を切ったように他のシェフたちからも称賛の声が上がり始めた。
「ああ、これは見事だ。魚介の火の通し方が絶妙だな。海老はプリプリだし、貝の身はふっくらとジューシー。素材の旨味が全く損なわれていない」
「ソースも素晴らしい。魚介から出た出汁の旨味を、パスタ一本一本がしっかりと吸っている。シンプルながら、奥深い味わいだ」
「何より、お前の手際の良さには驚いた。今の動き、そこらの見習いとはレベルが違うぞ」
口々に褒められ、僕は嬉しさと恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じた。
遠くで美咲さんが、自分のことのように喜びながら、僕にガッツポーズを送ってくれている。
最後に、叔父さんが僕の肩を力強く叩いた。
「味は文句なしだ。お前の腕もよく分かった。実力を認めよう」
「……! はいっ! ありがとうございます!」
込み上げてくる熱いものを必死に堪え、僕はもう一度、深く、深く頭を下げた。
努力が、認められた。
自分の力が通用したことへの喜びと、これからの期待で胸がいっぱいだ。
そして、この喜びを一番に伝えたい相手の顔が、真っ先に頭に浮かんだ。
――透花。
君に「すごいね!」って褒めてもらえたら、僕はもっと頑張れる。
君が喜んでくれるなら、僕はどこまでも高みを目指せるんだ。
早く、透花に報告したい。
そして、また僕の料理で、あの最高の笑顔を見たい。
僕は厨房の窓から見える青空を見上げながら、新たな決意を胸に、ぎゅっと拳を握りしめた。
だけど、叔父さんの講評はそれで終わりではなかった。
「だがな、守。この一皿は、うちの店のメニューには載せられない」
氷のように冷たい声が、僕の熱くなった心を一瞬で凍らせた。




