第15話 お姫様はご機嫌ななめなようです
約束の土曜日。
僕は叔父さんの店でのテストに向けて、試作品を作ることにした。
もちろん、その大事な最初の試食者は、透花だ。
昼過ぎに我が家のインターホンが鳴り、僕が玄関を開けると、そこには少し不機嫌そうな顔をした透花が立っていた。
目を合わせるでもなく、視線はそっぽを向いている。
「やあ、透花。いらっしゃい」
「……うん」
いつもみたいに「お邪魔しまーす!」と元気よく入ってくるでもなく、どこか素っ気ない返事。
リビングの椅子にちょこんと座った後も、なんだか口数が少なかった。
なんだろ、これ。
僕はいつもの透花らしくない様子にたじろいだけど、なんとも判断がつかない。
何かしくじったかな……?
「何かあった? 元気ないみたいだけど。学校で嫌なことでもあった?」
「……別に。いつも通りだよ。守くんには関係ないでしょ」
「関係なくないだろ。そんな顔してたら心配になる。僕、何かしたかな?」
「してない。守くんは、いつも通り、楽しそうにしてるだけ」
「楽しそう? うーん、まあバイトは楽しいけど……。それがどうかしたの?」
「……別に。ただ、バイト、楽しいんだなって思っただけ。本当になんでもないから」
僕が言うと、透花はぴくりと肩を揺らし、雑誌から顔を上げた。
その目は、少しだけ潤んでいるように見えた。
なんだか今にも泣き出してしまいそうな、これまで見たことのない表情だ。
本当にどうしたんだろうか。
正直なところ、まったく心当たりがなくて困る。
僕は気づかない間に、透花を傷つけてしまってたんだろうか?
「……守くんは、バイト、楽しい?」
「え? うん、まあ大変だけど、やりがいもあって楽しいよ。なんで急に?」
「ふーん。橘さん? だっけ。優しい先輩もいるみたいだしね。料理も上手なんでしょ。守くん、最近あの人の話ばっかりするもんね」
「そうかな? 別にそんなつもりはないけど」
「へえ。じゃあ無意識なんだね」
棘のある言い方だった。
透花が僕のバイト仲間の名前を口にすること自体が珍しい。
しかも、その声色には、明らかに嫉妬の色が滲んでいた。
……もしかして、この前のトラットリア・ソーレでのこと?
僕の頭に、三鷹さんたちと一緒に店に来た時の、透花の強張った表情が思い浮かぶ。
そういえば、あの時から透花は少し様子がおかしかった。
「橘さんはすごく良い人だよ。仕事もできるし、色々教えてくれるし。僕も早く追いつきたいなって思う、尊敬できる先輩だよ」
思ったままを口にしただけなのに、透花の眉間の皺が、さらに深くなった。
しまった、火に油を注いだかもしれない。
「……そう。良かったじゃない。仕事もプライベートも充実してて。私がいなくても、もう大丈夫そうだね」
「え、なんでそうなるんだよ。プライベートって……」
「別に! なんでもない! 早く作ってよ、お腹すいた。守くんの料理、食べに来てあげたんだから」
「来てあげたって……君が食べたいって言ったんだろ」
「うるさいな! いいから早く作って! 私お腹すいた!」
ぷいっとそっぽを向いて、腕を組む透花。
その姿は、まるで拗ねた子供のようだ。
でも、その頬がほんのり赤いのは、怒っているからだけじゃない気がする。
ああ、もう。本当に分かりにくい。
でも、そんなところが、たまらなく愛おしいと思ってしまうんだから、僕も大概だ。
「はいはい。じゃあ、今から世界一美味しいパスタを作るから、ご機嫌直してよ、お姫様」
「……待ってる。ふん」
僕はわざと明るい声を出して、調理に取り掛かった。
鍋にパスタを茹ではじめるとともに、ソースの調理を行う。
今日のメニューは、ペスカトーレ・ビアンコ。
魚介の旨味を存分に引き出した、白いソースのパスタだ。
イタリアン料理の厨房では、Antipastiと呼ばれる前菜、Primiという一つ目のお皿担当、Secondiメイン料理担当、Pasticcereデザート担当などの部署によって役割が違う。
今回はテストということで、プリミのパスタを手掛けることにした。
フライパンにオリーブオイルとニンニクを入れて、香りをじっくりと引き出す。
油が煮立ち、ニンニクの強烈な、刺激的で食欲を刺激する香りが立つ。
「うわっ、いい匂い……」
「だろ! やっぱりイタリアンといえばニンニクだよね」
「食べたらその日は、人に会うのにちょっと躊躇しちゃうけど」
「だから今日は透花には悪いけど、試食係としてまっとうしてもらうよ」
十分にニンニクの旨味が出たそこに、朝早く市場で仕入れてきた、新鮮なアサリとムール貝、大ぶりの海老、そして帆立を投入した。
ジュワッという音とともに、磯の香りがキッチンに広がる。
白ワインを加えてアルコールを飛ばし、貝の口が開いたら、一度具材を取り出す。
濡れた布巾に鍋を置いて、急いで湯がいたパスタを魚介の旨味が溶け出したスープに絡めていく。
透花は、いつの間にか僕の後ろに来て、その手元をじっと見つめていた。
さっきまでの不機嫌なオーラは消え、その瞳は好奇心にキラキラと輝いている。
「……ねえ、守くん」
「ん?」
「そのパスタ、どうして白いの? いつもはトマトソースが多いのに」
「ああ、これはペスカトーレ・ビアンコ。魚介の旨味をダイレクトに味わえるんだ。たまにはこういうのも良いだろ?」
「ふーん……。その海老、すごく大きいね。美味しそう」
「だろ? 今朝、市場で一番良いやつ選んできたんだ。透花が好きそうな、ぷりぷりで甘いやつ」
僕は手を止めずに、彼女の問いに答えた。
料理は本当に時間が命だ。
ノロノロとしていたら、せっかくのギリギリで調整した火の加減が台無しになってしまう。
とくに魚介類は火を通しすぎると固くなって、美味しくない。
「透花に喜んでもらいたくて、好みを色々考えてたんだ。前に、色々な魚介が入ったパスタが好きだって言ってたろ? トマトソースもいいけど、今日は素材の味をしっかり味わってほしくて、ビアンコにしたんだ。この海老も帆立も、透花が好きそうな、ぷりぷりで甘いやつ、頑張って選んだんだぜ」
僕の言葉に、透花は息を呑んだ。
視界の隅に、口元に手を抑えて、顔を赤くする透花の蕩けるような笑みを見た。
……よっぽど海老とか帆立が好きなんだな。
ふふふ、頑張って調達したかいがあったみたいだ。
「……私の、ために……? わざわざ、市場まで行ってくれたの?」
「当たり前だろ。今日のテストは、透花に『美味しい』って言ってもらうためのものなんだから。君が喜んでくれなかったら意味ないんだよ」
「守くん……」
「それに、僕の料理を一番に食べてほしいのは、いつだって透花だからな」
「……っ!」
「さあ、もうすぐできるぞ」
仕上げにバターとパセリを加え、手早く皿に盛り付ける。
湯気の立つパスタをテーブルに置くと、透花は感動したような顔で、それを見つめていた。
「……いただきます」
「召し上がれ」
フォークでパスタをくるくると巻き、一口、口に運ぶ。
そのわずかな時間が、妙に長く感じる。
そして、口に含んで噛み締めたその瞬間、透花の顔が、ぱあっと花が咲いたように輝いた。
「んんっ! おいひい……!」
頬をいっぱいに膨らませて、幸せそうに目を細める。
さっきまでの不機嫌はどこへやら、その表情は、まさに至福そのものだ。
「この海老、本当にぷりぷり! 貝の出汁がパスタにしっかり染み込んでて、最高……! 守くん、天才!」
「はは、それは良かった」
「守くんが私のために作ってくれたパスタ……ほんとうに、美味しいなあ」
夢中でパスタを頬張る透花を見ていると、僕の心まで温かくなる。
さっきまでのじれったい空気はすっかり消え去り、今はただ、温かで幸せな時間が流れていた。
僕は正直胸をなでおろしていた。
透花の機嫌が悪い理由が、あまりにも想像がつかなかったからだ。
……なんだ、お腹が空いてて機嫌が悪かっただけか。
美味しいものを食べたらすぐに機嫌が直るなんて、本当に単純なやつだな。




