第14話 僕たちはモヤモヤした(後編)
その日の放課後、私は三鷹さんと榛葉さんと一緒に、守くんのバイト先である『トラットリア・ソーレ』に向かっていた。
ちょっと奮発した女子会だ。
ちゃんとしたコース料理は結構なお値段がするけど、お安いコースがないわけではない。
「へえ、ここが相馬のバイト先か。お洒落じゃない」
「わあ……素敵なお店だねー」
駅前の喧騒から少しだけ離れた路地裏に佇むその店は、蔦の絡まるレンガ造りの壁と、テラス席に置かれた深緑のパラソルが、まるでイタリアの街角を切り取ってきたかのような雰囲気を醸し出していた。
まだ夕食にはかなり早い時間ということもあって、混雑というほどではない。
けど、そんな時間帯でさえ、お客さんがほどほどに入っているところからも、繁盛ぶりがよく分かる。
昼休みの、高山くんとの一件。
守くんが助け舟を出してくれたのは嬉しかったけど、同時に、私の心は晴れなかった。
高山くんは人気者だ。彼に誘われて、嬉しくない女の子はいないだろう。
断ったのは、もちろん守くんとの約束があったからだけど、それ以上に、高山くんの隣にいる自分の姿が、どうしても想像できなかったからだ。
私の隣は、ずっと守くんだったから。
そんなことを考えていたら、無性に守くんに会いたくなった。
彼が私の知らない場所で、どんな顔をして過ごしているのか、確かめたくなったのだ。
私の横にいない守くんは、いったいどんな顔をしているんだろう。
どんな活躍をしているんだろうか。
そして、私が守くんの側にいるのが当然だと感じているのは、ただの幼馴染ゆえのことなんだろうか。
それを知りたかった。
「いらっしゃいませ!」
ドアを開けると、ウェルターさんの活気のある声と、食欲をそそる美味しい香りに包まれる。
案内されたテーブル席からは、オープンキッチンになっている厨房の様子がよく見えた。
そこには、家で見るのとは全く違う、真剣な表情で包丁を振る守くんの姿があった。
「うわ、相馬くん、格好いい……。ちょっと印象変わったかも」
「うん……そうだね……」
「お仕事できる人って感じだねえ」
榛葉さんが、ぽつりと感嘆の声を漏らす。
本当にその通りだった。
学校での平凡な彼とは違う。
次々と入るオーダーを冷静に対応して、調理に必要な具材を的確に用意する。
リズミカルに包丁を動かす姿は、紛れもなくプロの料理人の顔つきだ。
ピシッとした調理白衣、額に滲んだ汗も、彼の真剣さを物語っていて、私は思わず見惚れてしまう。
私の知らない、守くんの世界。
その光景に胸が高鳴った、その時だった。
「守くん、このソースの味見お願いできる?」
「はい。……うん、美味しいです。でも、もう少しだけ塩を足した方が、パスタと絡んだ時に味がはっきりするかもしれません」
「なるほどねー。さすが守くん、舌が肥えてる。ありがとう!」
守くんの隣で、一人の女性が親しげに話しかけた。
おっとりとした雰囲気の、可愛らしい人。
年は、私たちより少し上だろうか。
彼女は守くんの言葉に感心したように頷くと、楽しそうに笑った。
守くんも嬉しそうに笑ってる。
二人が顔を寄せ合い、一つのソースパンを覗き込む。
その距離の近さに、私の心臓が、きゅうっと締め付けられるように痛んだ。
あの人が、橘さん……。
守くんから、バイト先の先輩の話は聞いていた。
専門学校に通いながら、料理の修行をしている、とても優しい人なのだと。
彼女は、テキパキと次の準備をしながら、時折守くんに冗談を言っては、二人でくすくすと笑い合っている。
そのやり取りは、長年連れ添った仕事仲間のように、とても自然で、息が合っていた。
私には見せたことのない、時に真剣で、時にリラックスした、大人の男の人の顔。
私の知らない守くんが、そこにいた。
ズキリ、と胸の奥が痛む。
ちょうどその時、ウェイトレスさんが私たちのテーブルに料理を運んできた。
私たちが頼んだのは、一番リーズナブルな『季節のパスタコース』だ。
「うわー、綺麗! 前菜の盛り合わせだって」
「カプレーゼに、生ハム、それに真鯛のカルパッチョか。美味しそうじゃない」
白いお皿の上には、色とりどりの前菜が芸術品のように並べられている。
焼きたてのフォカッチャからは、小麦とハーブの香ばしい匂いが立ち上っていた。
「ん、美味しい! このトマト、すっごく甘い! モッツァレラチーズも新鮮でミルクの味が濃いね」
「フォカッチャもふわふわで美味しいですー! オリーブオイルにつけて食べると、香りがもっと引き立ちますね!」
三鷹さんも榛葉さんも、目を輝かせて料理を頬張っている。
二人とも本当に美味しそうだ。
でも、私の舌は、嫉妬の味で痺れてしまっていた。
「透花、さっきから全然食べてないじゃない。どうしたのよ」
「だいじょうぶ?」
「……ううん、なんでもない。すごく美味しいよ」
隣に座っていた三鷹さんが、怪訝そうな顔で私の顔を覗き込む。
私は無理に笑顔を作って、カルパッチョを口に運ぶ。
美味しいはずの新鮮な魚の味も、爽やかなオリーブオイルの香りも、まるで感じられなかった。砂を噛んでいるみたいだ。
「ふーん。……厨房の相馬くんが、可愛いお姉さんと仲良くしてるのが気に入らない、とか?」
「ち、違うし! そんなわけないじゃない! ただのバイト仲間でしょ!?」
思わず、声が裏返ってしまった。
三鷹さんが私の反応を見て、面白そうにニヤリと口の端を吊り上げる。
榛葉さんは、うわあって小さく声を上げて、口元に手を当てた。
本当に女の子ってすぐに恋愛に結びつけるんだから!
自分も良くしていることに、今だけは都合よく棚に上げて、二人を睨みつけた。
「あらあら、すごい剣幕。図星だったりして」
「ちちちち、違うってば!」
「透花ちゃん、顔色、悪いよ……?」
「表情もキツいしさあ。それで否定するのはちょっと難しくない?」
心配そうに私を見つめる榛葉さんの言葉に、私はハッとする。
鏡を見なくても分かる。
きっと今の私は、ひどい顔をしているに違いない。
嫉妬?
私が、守くんに?
そんなわけない。私たちは、ただの幼馴染だ。
彼が誰と仲良くしようと、私には関係ないはず。
そう頭では分かっているのに、胸の痛みは消えてくれない。
ズキ、ズキ、と激しい痛みを訴えてくる。
守くんが、私の知らない場所で、私の知らない笑顔を、他の誰かに向けている。
その事実が、鋭いナイフのように、私の心を何度も何度も突き刺すんだ。
あの人の隣にいる守くんは、私の知っている「守くん」じゃないみたいだ。
年上で、綺麗で、料理もできて……私にはないものを、全部持っているように見えるあの人の隣にいると、守くんがすごく遠い存在に感じてしまう。
――取られちゃう。
そんな言葉が、不意に頭に浮かんだ。
嫌だ。やだ。
守くんの隣は、私の場所なのに。
彼が作るご飯を一番に食べるのも、彼のダメなところを知っているのも、彼を一番に応援するのも、全部、私だけの特権だったはずなのに。
「……あんた、本当に相馬くんのことになると、余裕なくなるわね」
「うっ…………そうかも」
「ふふふ、だいじょうぶだよー、透花ちゃんと相馬くん、お似合いだから」
「ありがと……」
三鷹さんが、呆れたようにため息をついた。
その言葉が、私の胸にぐさりと突き刺さる。
反論、できなかった。
榛葉さんの優しいフォローの言葉も、今は素直に受け止められない。
ちょうどその時、休憩に入ったらしい守くんが、私たちのテーブルに気づいてやってきた。
「あれ、透花たちじゃん。それに三鷹さんと榛葉さんも。来てたんだ」
「チッス。いいねえ、似合ってるじゃん、相馬」
「お、お仕事おつかれさまです」
「いらっしゃいませ」
バイトの制服である白いシャツ姿の守くんは、いつもより少しだけ大人びて見える。
その笑顔に、さっきまで痛んでいた胸が、今度は嬉しさでドキドキと高鳴る。
本当に、現金な心臓だ。
「……うん。お仕事、お疲れ様」
でも、出てきたのは、そんな素っ気ない言葉だけだった。
もっと、言いたいことはたくさんあるのに。
格好良かったよ、とか。頑張ってるね、とか。
「どうした? 元気ないな。もしかして、ここの料理、口に合わなかった?」
「え、そんなことないよ?」
心配そうに私の顔を覗き込む守くん。
違う。違うんだよ。
料理は美味しい。美味しいに決まってる。
三鷹さんも、榛葉さんも美味しい美味しいって、何度も褒めてた。
ただ、私が勝手に、一人でモヤモヤしてただけで。
「美味しいよ。すごく……」
嘘。
本当は、味がしなかった。
守くんの心配そうな顔を見ても、いつものように素直に甘えることができない。
「ちょっと食べ過ぎただけよ。この子、見た目に反して意外と小食だから」
「そっか。ならいいけど……。無理すんなよ」
「うん、ありがとう」
見かねた三鷹さんが、助け舟を出してくれた。
守くんはまだ少し納得いかない顔をしている。
私の食べる量を一番把握しているのは、守くんなのだ。
そんなわけがない、と思っているはずだ。
それでも、仕事中ということもあっただろう。
「じゃあ、また後で。あんまり表に出てると叱られるから。今日は来てくれてありがとう。楽しんでいってね」
「じゃね。しっかりいただきます」
「おつかれさまです~」
と言って厨房に戻っていく。
その後ろ姿を見送りながら、私は自分の心の狭さに、どうしようもなく落ち込んだ。
ただ、守くんが他の人と仲良くしているのを見ただけなのに。
やっぱり私、守くんの一番じゃなきゃ嫌みたいだ……。




