第10話 勉強会
僕がバイトの休みの日で、透花がモデルの仕事の入っていない日の夕方。
その日を勉強会ということにした。
つまり、約束してわずか二日後だ。
まあ、中間テストまで時間がないし、あまり先延ばしにできる余裕もない。
僕は参考書やノートを詰め込んだリュックを背負い、隣の白崎家のインターホンを鳴らした。
ピンポーン、と軽やかな音が鳴ると、すぐにスピーカーから慌てたような透花の声が聞こえてくる。
『は、はいっ! ど、どちらさまですか!?』
「僕だよ」
『ま、守くん!? う、うん、ちょっと、ちょっとだけ待ってて! 一分、いや三分!』
バタバタと家の中を走り回るような音が聞こえてくる。
何やってんだか……。
僕は苦笑しながら、中にだけ入らせてもらい、玄関で待つ。
ほとんど毎朝起こしに家に入っているけれど、まあこのあたりはデリカシーの一つだろう。
やがて、階段から慌てて駆け下りてくる音とともに、透花が顔を覗かせた。
透花はよほど急いだのか、弾んだ息を苦しそうに整えながら、無理に笑みを作った。
「お、お待たせ……どうぞ」
「お邪魔します。……で、何をそんなに慌ててたの?」
「いやー……あはは……」
透花は、白地に淡いピンクのロゴが入ったTシャツと、柔らかなグレーのショートパンツという、いかにも部屋着らしい格好だった。
Tシャツは少し小さめで、透花の豊かな膨らみが露骨に強調されている。
このTシャツはけっこう前に、二人で購入したものだ。
それ以来、くたびれてきているのに、透花はよくこのシャツを着続けている。
Tシャツの裾が少しめくれて、ウエストのくびれやお腹のラインがちらりと見える瞬間もある。透花自身は無頓着な様子だけれど、ふとした仕草や角度で、女の子らしい丸みや柔らかさが目に飛び込んできて、思わず目を逸らしたくなるほどだった。
髪はラフにひとつにまとめていて、うなじや耳の後ろが無防備に晒されている。
全体的に飾り気のない格好なのに、透花の持つ肉感的な魅力が、逆に際立って見えた。
中に入ると、部屋の中は案の定、物が散乱していた。
ベッドの上には脱ぎっぱなしの部屋着がくしゃくしゃに丸められ、勉強机には飲みかけのペットボトルと、ファッション雑誌が数冊、無造作に置かれている。
ゴミ箱には乱雑に放り投げられたゴミが見えていて、透花なりになんとか片付けようと必死の努力をした片鱗は伺えた。
……正直、功を制しているとは思えないけど。
化粧品のサンプルらしき小さな容器がドレッサーの上にやはり乱雑に置かれ、その横にはヘアゴムやピンがいくつか転がっていた。
窓際には、おそらく撮影で使ったであろう小道具のアクセサリーが、ケースから溢れてキラキラと光を反射している。
透花はあはは……と乾いた笑いを浮かべながら、僕の視線から逃れるように目を逸らす。
少しいじけたように唇を尖らせる姿が、ドキッとするほどに可愛らしい。
「ついこの前、僕が片付けたよね?」
「いやー、ちょっと昨日の夜、色々考え事してたら、散らかっちゃって」
「考え事したら部屋が散らかるって、どういう理屈だよ……」
「ほら、私ってやっぱりモデルだから? 色々な組み合わせとか急に試したくなったりとか?」
「で、出しっぱなしにして寝ちゃったのか」
「ごめんなさい」
「いや、いいよ。透花がそういうところがあるの、僕はよく知ってるし。っていうか、急に片付けだしたのも意外だったし」
僕はため息をつきながらも、慣れた手つきでベッドの上の服を畳み始める。
透花は「あ、私がやるから!」と慌てて止めようとするが、僕が畳み終える方が早かった。
っていうかさ、年頃の女の子なんだから、下着もそのままなのはどうなのよ。
とはいえ、これらのやりとりもすでに何十回と繰り広げられてきた、いわばお約束だ。
僕も気恥ずかしさがないわけじゃないけど、人間は慣れる生き物なんだな、と思う。
最近だと意識することも減っていった。
透花に改善の意思がないわけじゃないんだけど……あまりにもそっち方面の才覚がなさすぎる。
「はい。これは洗濯機行きね。下着はちゃんとネットを使うこと」
「うぅ……ごめんね、守くん。いつもありがとう」
「いいって。さ、始める前に少し片付けちゃおうか。その方が集中できるでしょ」
僕はテキパキと雑誌をまとめ、床に落ちている小物を拾い集める。
透花は申し訳なさそうに、僕の後ろをチョコチョコとついて回りながら、小さなゴミを拾ったりしていた。
ぶっちゃけ何の役にも立っていない。
家の中でも外でもポンコツならどうしようもないけれど、透花は外面だけでも何とか成り立たせようと、必死の努力をしている。
外での完璧な彼女を知っている人間が見たら、ギャップで卒倒するかもしれない光景だ。
でも、僕にとってはこれが日常。
僕だけが知っている、ポンコツで愛おしい彼女の姿だ。
「よし、こんなもんかな。じゃあ、始めようか」
「うん! ……ありがと」
「どういたしまして」
勉強机の上を綺麗にして、僕たちは向かい合って座る。
最初は順調だった。僕が数学の問題を解いている間、透花は英語の長文読解に集中している。
時折、ペンを走らせる音だけが静かな部屋に響く。
透花の集中力はものすごい。
まったく周りのことが目に入らないぐらい、集中して問題に取り組んでいる。
こうなると問題を解く速度も圧倒的で、僕よりも遥かに難しい問題に取り組みながらも、カリカリとペンを動かす速度は断然に速かった。
僕も負けてられないな。
それから、四〇分も経った頃だろうか。
カリカリと小気味よく響いていた透花のペンを走らせる音が、ふと止まった。
どうしたんだろう、と僕が視線を向けると、透花はペンを握りしめたまま、窓の外をぼんやりと眺めている。
その横顔は、どこか影を帯びていて、いつもの快活な彼女とは違う、不安そうな表情を浮かべていた。
「……ねえ、守くん」
「ん? どうしたの、集中力切れた?」
「ううん……そういうわけじゃないんだけど……」
透花は力なく首を振り、ぎゅっと唇を噛んだ。
ずいぶんと珍しく、歯切れの悪い話しぶりだ。
何かを堪えるようなその仕草に、僕は胸騒ぎを覚える。
「なんだか、急に不安になっちゃって……。私、本当にこれでいいのかなって。モデルの仕事も、学校の勉強も、全部中途半端になってないかなって……」
「そんなことないだろ。透花はどっちもすごく頑張ってるじゃないか」
「でも、周りはもっとすごい人たちばっかりだし……。モデルの仕事では、もっと綺麗な子、もっとスタイルの良い子が入ってくる。学校では、もっと頭の良い子がいる。私、いつか全部失っちゃうんじゃないかって、怖くなる時があるの」
透花の声は、か細く震えていた。
いつも自信に満ち溢れている彼女からは想像もできない、弱々しい声。
思わず抱きしめてあげたくなる。
「お母さんにも、心配かけたくないし……。私がしっかりしてないと、お母さん、もっと無理しちゃうから。だから、完璧でいなきゃって思うんだけど……時々、すごく苦しくなるんだ」
ぽつり、ぽつりとこぼれ落ちる言葉は、彼女がずっと一人で抱え込んできた重圧の欠片だった。
僕は何も言えずに、ただ彼女の言葉に耳を傾ける。
「……ごめん、変なこと言っちゃった。ちょっと休憩しよっか。紅茶でも淹れるね」
透花は無理に笑顔を作ると、椅子から立ち上がった。
その笑顔が、あまりにも痛々しくて、僕は思わず彼女の腕を掴んでいた。
「待って、透花」
「あ、ごめんね、ちょっと空気悪くなっちゃったね。私、大丈夫だから」
「大丈夫じゃないだろ」
僕の声に、透花の肩が小さく震える。
僕にまで見栄を張らなくていいじゃないか。
もうとっくに、透花の良いところも悪いところも、全部知ってるのに。
「僕の前でまで、完璧な『白崎透花』でいようとしなくていいよ。君が無理してるのも、一人で抱え込んでるのも、僕が一番分かってる」
「そう、かな……」
「僕とどれだけの付き合いだと思ってるんだよ」
僕の言葉に、透花の瞳が揺れる。
無理に作っていた笑顔が崩れ、泣き出しそうな、迷子のような顔になった。
「透花は、モデルの仕事も、学校の勉強も、どっちも手を抜かずにやってる。周りがどうとか、そんなの気にしなくて良いんだ。僕が見てる透花は、誰よりも頑張ってるし、誰よりもすごいよ。……それに、家での透花は僕がいないと、君はまともなご飯も食べれないし、朝も起きれないでしょ? それも知ってる」
「うん……そうだね。守くんには、いつも助けてもらってばっかり」
「僕の前では自然なままで良いんだ。僕は頑張ってる透花も、ちょっとだらしない透花も、両方認めてるから」
少しだけ意地悪く笑ってやると、透花はぎこちない笑みを浮かべて、小さく頷いた。
その目から、ぽろりと涙がこぼれ落ちる。
指先で涙を軽く拭ってあげると、透花は恥ずかしそうにしながらも、軽く頬を押し付けてきた。
ふにふにとした柔らかなほっぺの感触を楽しんでいると、むず痒そうに、透花が顔を振る。
「だから、不安になったり、苦しくなったら、一人で抱え込まないで。僕に全部吐き出せ。僕はいつだって、透花に頼られるために隣にいるんだから」
僕はもう片方の手で、彼女の頭を優しく撫でる。
透花は、今度は僕の手を黙って受け入れていた。
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