三話「ミラ・フェリス」
「ミラ。助けてくれるのはありがたいけど……君はこの街に住んでるのか?」
俺が尋ねると、ミラは少し言いにくそうに目をそらした。
「えっと……実は、住んでたんです。でも今は……屋根のある場所に寝てないです」
「……つまり、行くあてもないってことか」
「はいっ。でも、こうしてお仕事の手伝いをすれば、少しは役に立てると思うんです。だから、お願いです! 仲間にしてください!」
しっかりとした声でそう言い切ったミラに、俺は一瞬だけイーヴィーを見る。
彼女は静かに頷いた。
「主。彼女にはこの街の地理情報と一定の対話能力があります。情報収集の面でも活用価値は高いかと」
「そこまで言うなら、いいさ。ミラ、よろしくな」
「やったあああっ!ありがとうございます、団長さんっ!」
「いや、団長ではないけどな……」
俺が苦笑しながら返すと、ミラは「あ……そう、なんですね……」と、少し恥ずかしそうに目をそらして小さく笑った。イーヴィーはその様子を静かに見守っている。
宿にたどり着いたところで、思わぬ事態が起きた。
「ちょっと、待ってくれ!」
宿の扉を開けた瞬間、カウンターから出てきた宿屋の主人が俺たちを手で制した。その視線は、俺ではなくミラに向いていた。
「その子……そのままじゃ、ちょっと困るんだよな」
「え?」
「見ての通り、泥だらけで服もくたびれてるし……他の客もいるんだ。悪いが、裏の水場で軽く洗ってきてもらえねえか? せめて人前に出られる程度には」
「あっ……ご、ごめんなさい……!」
ミラは思わず身をすくめて、耳をぴくりと伏せた。しっぽもシュンと垂れてしまっている。
「いや、そんなに気にしなくていい。生活が落ち着いてなかっただけだしな」
俺はフォローしながら、ミラに優しく声をかける。
「ミラ、ちょっとだけ我慢してくれ。裏に水場があるから、軽く身体を拭くだけでもだいぶ違うはずだ」
「……う、うん。……迷惑、かけてごめんなさい……」
小さくうなずいたミラの声は、消え入りそうにか細かった。イーヴィーがそっと彼女の肩に手を添える。
「主、私が案内します」
「まかせた、先に部屋に行ってるから終わったら来てくれ」
そのままイーヴィーがミラを連れて裏手へと向かっていく
イーヴィーに導かれ、ミラはおずおずと裏手へ歩いていった。宿の裏には簡素な水場があり、桶と布がいくつか並べられている。街の規模にしては整っており、使用者の気配もそこそこあるらしい。
イーヴィーは静かに水を汲み、布を湿らせると、そっとミラに手渡した。
「これで、顔と手足を拭くだけでも印象は変わるかと。服の汚れは、私が処理できます」
「……ありがとう……ございます」
ミラは少しだけ顔を上げて、イーヴィーの瞳を見つめた。その目に浮かぶわずかな光に、イーヴィーは微かに頷く。
ミラは布を手に取り、おずおずと袖をまくって腕を拭き始めた。泥が布に移るたび、彼女は少し恥ずかしそうに俯く。
「……こんなに、汚れてたんだ……」
「環境のせいです。あなたが悪いわけではありません。主も、私も、あなたを責めてはいません」
その言葉に、ミラの手が止まる。しばらく沈黙が流れた後、かすかに「……うん」と返ってきた。
イーヴィーはその様子を見届けると、彼女の服の表面に手をかざし、小さく呟く。
「表層汚れ、除去プロトコル――起動」
彼女の指先から淡い光が広がり、ミラの服に付着していた泥やほこりが少しずつ消えていく。まるで洗濯されたかのように、服の色が元に戻っていくのがわかった。
ミラは目を丸くして、自分の服を見下ろす。
「……すごい……」
「最低限の処理ですが、これで宿に入るには十分です。さあ、戻りましょう」
ミラはまだ戸惑いながらも、小さく頷いた。イーヴィーの後ろに付きながら、そっと髪を整える。
そしてふたりは、少しだけ堂々とした足取りで宿の入り口へと戻っていった。
ミラが裏手で身体を拭き終わり、イーヴィーと共に部屋に戻ると、部屋はすっかり暗くなっていた。ふたりが部屋に入ると、主人公がゆっくりと振り返り、ミラの姿を見て驚いた。
「お、ミラ、きれいになったな」
主人公は目を見開き、思わず感嘆の声を漏らす。ミラの髪は乾き、整った姿がどこか洗練された印象を与えた。汚れていた頃の面影が薄れて、顔色もよく、少しばかり表情に元気が戻ったようにも見える。
「うん、ありがとう……」ミラは顔を赤らめて、ほんの少し照れたように答える。その素直な反応に、主人公は微笑みながら言った。
「本当にきれいになったな。なんか、あんなに汚れていたのが嘘みたいだ」
ミラは恥ずかしそうに顔をそむけながら、「そんなことないよ……」と、小さな声で答えた。照れくさい気持ちを隠すように、手で顔を軽く押さえる。
そのやり取りを見守っていたイーヴィーが、静かに口を開いた。
「ミラさん、さきほどは宿屋に入ることを優先したため、まだ洗い残しがあります。もしよろしければ、私の機械で徹底的に洗浄させてもらえますか?」
ミラは少し驚いたように目を見開き、慌てた様子で言った。「え、でも、もう大丈夫だよ。そんなに……」
「ご安心ください。私が使う機械は、非常に優れたもので、ミラさんが気になる部分をすぐにきれいにできます。痛みもありませんし、心配いりませんよ」
イーヴィーが微笑むと、その冷静で優しげな態度に、ミラは少し安心した。彼女は照れくさそうに頷き、背中を丸めた。「あ、じゃあお願い……」
イーヴィーは静かに小さな機械を取り出した。見た目はシンプルで、手のひらに収まるくらいのサイズだが、どこか未来的なデザインをしている。機械を手に取ると、すぐにその小さなディスプレイに青い光が点灯し、操作が始まった。
「これから軽く洗浄を始めますので、リラックスしていてください」イーヴィーの声は静かで穏やかだ。
その言葉に従い、ミラは目を閉じ、少しだけ力を抜いた。イーヴィーが機械をミラの体に軽く触れさせると、次第に優しい温かさが広がっていく。機械の微細なノズルから、目に見えないほど細かい水流が出て、ミラの肌を包み込む。温かさと同時に、清涼感が広がり、ミラは思わず息を吐き出した。
「……あ、すごく気持ちいい……」ミラは驚きの表情を浮かべながら、体が軽くなるのを感じた。
「これで、汚れやほこりはしっかり取り除けます」イーヴィーが機械を少し調整し、さらに細かい洗浄を行う。
ミラはその感覚にすっかりリラックスし、目を閉じたままうなずく。「うん、すごく楽になってきた……」
イーヴィーは手際よく、ミラの体全体を洗浄していく。機械が肌に触れるたびに、ミラは気持ちよさに身を委ねた。髪の毛の中まで優しく撫でるように洗浄され、肌のすみずみまで清潔になっていく。そのうち、ミラは完全にリラックスし、まるで夢の中にいるような気分になった。
「これで最後です」イーヴィーが言うと、機械の音が静かに止まり、洗浄が完了したことを知らせた。
ミラはそのまま目を開け、ほっとしたように息を吐く。「……本当に、すごいね。こんなにきれいになったの、久しぶりだよ」
イーヴィーは微笑んで、機械を片付ける。「良かったです。これで、もうどんなことでも気にせず過ごせますね」
ミラは恥ずかしそうに顔を赤くしながらも、しっかりとイーヴィーに感謝の言葉を述べる。「ありがとう、イーヴィー。なんだか、気分がすごく良くなったよ」
「お力になれて嬉しいです」イーヴィーは微笑みながら、静かに答える。
その後、ミラはすっきりとした気分で部屋に戻る準備を整えた。清潔になったことで、心地よさが広がり、やっと落ち着いた気分になった。
宿屋の部屋に戻った主人公、イーヴィー、ミラ
部屋の中で静かな空気が流れる中、主人公が深く息をつきながら口を開いた。
「さて、どうするべきだろうな。今後のことを考えないと」
イーヴィーはすぐに応じるように、その冷静な声で話し始めた。
「まず、ミラさんがどうしてこの街に来たのか、その理由を知る必要があるかと考えます。しかし、それは今無理に問い詰めることではありません。急ぐべきことは、まずは少しずつでも実力をつけていくことだと思います。」
ミラは黙って肩をすくめ、視線を床に落とした。彼女の中で答えを出すには、まだ時間がかかるだろうという様子だ。
主人公はそんなミラをちらりと見ながら、少し悩んだ様子で言葉を続ける。
「ミラ、君が何か抱えていることはわかるけど、無理に話さなくてもいい。俺たちも少しずつ、お前のペースで考えればいいと思う。だが、これからどうするか決めるためには、まずは依頼をこなしながら実力をつけるのが良いだろうな。」
ミラはほんの少しだけ顔を上げ、主人公の方を見たが、またすぐに視線を下げて小さくうなずいた。
「……うん。わかりました」
イーヴィーがその様子を見守りながら、続けて口を開く。
「主、ミラさんがこれから何をすべきかは、私たちがサポートすべきだと思います。少しずつでも、強くなっていけるように。そのためには、まずは少し安定した生活基盤を作ることが重要です。」
主人公はイーヴィーの意見に頷きながら、再度ミラに目を向けた。
「次にどうするかは、お前が決めるべきことでもあるけど、無理に負担を感じなくてもいい。俺たちが協力するから、焦らずに少しずつ進んでいこう。」
ミラはゆっくりと、しかしはっきりとした声で答えた。
「ありがとう。……ご迷惑をかけないように、少しずつ頑張ります」
その答えに、主人公はほっとしたように微笑んだ。
「迷惑だなんて言わなくていいよ。みんなで助け合って進んでいこう。何かあれば、すぐに頼ってくれ。」
イーヴィーもその言葉に頷き、静かに続けた。
「私たちも、あなたが必要ならすぐに手を貸します。今後の道を一緒に見つけていきましょう。」
ミラは二人の言葉に小さくうなずく。
「うん、ありがとう。……それなら、少しだけ安心です」
ミラの様子を見守りながら、俺は次にどうするかを考えていた。彼女はまだ迷っているように見える。少し躊躇いながらも、今後のことをどうするべきか、しっかり決めなければならない。
「ミラ、無理に何かを決める必要はないけど、もし手助けできることがあれば言ってくれ。君も俺たちの仲間になったんだから、遠慮しなくていいんだよ」
俺の言葉に、ミラは少し驚いたように顔を上げた。まだ少し不安そうな表情をしているが、俺の言葉には少し安心したのか、微かな笑顔を見せた。
「うん…ありがとう。でも、どうして私みたいな者を助けてくれるのか、まだよくわからないよ」
その言葉に、俺は少し考えてから答えることにした。
「俺が君を助けたのは、ただの気まぐれじゃない。ただ、君が困っていたから。俺たちにはどうしても力が必要なんだ。君も、何かしら力になれると思う」
イーヴィーも静かにうなずき、ミラの肩に手を添える。
「主の言う通りです。ミラさんには十分な可能性があります。何かを教えることができれば、必ず役に立ちます」
ミラは少しだけその言葉に目を見開いた。
「本当に…?」
「もちろんです」
イーヴィーはそのまま静かに微笑んだ。
「私はまだ役立つ自信なんてないけれど、少しずつでもできることがあれば、協力してみたい」
ミラがやっと、少しだけ心を開いたようだった。彼女はまだ遠慮しているが、それでも少しずつ前向きな気持ちが芽生えているように感じられる。
「それなら、少しずつでいいさ。焦る必要はないから。君ができることをやって、俺たちと一緒に進んでいこう」
そう言って、俺は微笑みながらミラを見つめた。彼女の表情が少し和らいだのを見て、俺も安心した。
イーヴィーもミラの横に座り、静かに二人を見守っていた。少しの間、部屋の中は静かな空気が流れた後、イーヴィーがまた口を開く。
「それでは、ミラさん。少しでも役立つことを教えるために、明日からでも一緒に訓練を始めましょうか?」
ミラは一瞬、ためらいの表情を見せたが、しばらくしてから頷いた。
「うん…少しでも力になれるように、頑張るよ」
それが、ミラにとっての新しい一歩だった。俺たちは彼女の成長を見守り、共に進んでいくことを決めたのだ。
夜の帳が下り、宿の部屋には静かな時間が流れていた。俺は片側のベッドに横たわり、疲れた身体をようやく休めていた。もう一つのベッドでは、ミラとイーヴィーが並んで眠るようにして横になっている。
イーヴィーは本来、眠る必要がない。しかし、「人間に倣うことで信頼関係が深まる」との判断から、ミラの隣に静かに横になっていた。ミラ自身も、最初は戸惑っていたようだが、イーヴィーの落ち着いた佇まいに安心したのか、徐々にまぶたを閉じていった。
……と思っていたのだが。
ふと、微かな気配に目を開ける。足音はない。ただ、柔らかい毛布の揺れる音と、そっと何かが動く気配。
「……?」
うっすらとした月明かりの下、俺のベッドの端に影が現れた。ミラだった。
「ミラ……?」
名前を呼ぶと、彼女はびくっと肩を震わせた。そして、俯いたまま、か細い声で口を開いた。
「……ご主人さま……わたし……あの、こういうこと……しなきゃいけないのかなって……」
「……それはどういう意味だ?」
ミラはしばらく沈黙していたが、やがて、絞り出すように答えた。
「……わたし……ご主人さまに買われたんじゃないかって……ずっと思ってて……」
その声には、恥ずかしさよりも、戸惑いと、怯えがにじんでいた。
「違うよ、ミラ」
俺はベッドの上に身体を起こして、はっきりとした声で続けた。
「君を助けたのは、困っていたからだ。それだけだ。誰かに与えられる命令じゃなくて、自分でそうしたいと思ったから、助けただけなんだ」
「……でも、わたし、そういう風に扱われるのが当たり前だって……ずっと思ってて……」
その声は、どこか諦めにも似た響きを帯びていた。ミラが何を見て、どんな風に育ってきたのか。すべては分からない。けれど、だからこそ、俺は言葉を選ばず、まっすぐ伝えるしかなかった。
「そんなこと、二度と考えなくていい。君はもう、自由だ」
ミラの目が潤む。その瞬間だった。
「……主。対象、情緒不安定と判断。状況の是正を行います」
イーヴィーの声が、静かに部屋に響いた。
そして気づけば、イーヴィーはミラの背後に立っていた。ミラがここに来たことも、ずっと見ていたのだろう。
「ミラさん、こちらへ戻りましょう。安心して休むべきです。主の許可もなく、潜入行動を取るのは不適切です」
「……う、うん……ごめんなさい……」
イーヴィーに手を引かれながら、ミラはそろそろと元のベッドに戻っていった。
俺はため息をひとつついて、仰向けに倒れ込んだ。
「……ほんと、気が抜けないな」
そのまま天井を見上げながら、明日の朝が静かであることを祈るのだった。
ベッドの隅に身を寄せるようにして、ミラはじっと膝を抱えていた。
薄暗い部屋の中、主人とイーヴィーが穏やかに寝息を立てる気配がする。眠るには十分静かなはずなのに、ミラの胸の奥だけが、ざわついたままだった。
(……どうして、あんな風に拒まれたのに、怒鳴らなかったんだろう)
静かに目を伏せながら、ミラは唇を噛んだ。
売られ、使われ、捨てられてきた日々。だからこそ、「役に立たなければ意味がない」と、心のどこかで信じ込んでいた。
それなのに――彼は、「いらない」とも、「出ていけ」とも言わなかった。
(……私が勝手に……そう思ってただけ?)
胸の奥がチクチクと痛む。恥ずかしさと、戸惑いと、なによりどうしていいかわからない気持ちでいっぱいだった。
彼の隣で眠るイーヴィーが、まるで人間のように穏やかな寝顔をしているのも、不思議に感じた。
あの少女のようなロボットは、まるで本当の家族のように、彼に寄り添っている。
そして、自分は――。
(……ここにいて、いいのかな)
誰にも聞こえない問いを、小さく胸の中で呟いた。