君へのささやかな嫌がらせ
「お前の方から来るなんて珍しいな」
「声が聞こえたんだよ。……あいつ、起こされちまったのか?」
「何の話しだ」
「あいつ居るか?」
「……ああ、あいつか。なら上に居るよ」
二人はただ、同じ場所で、同じ時を。凍てついたその場所は、此処とは違う時を。けれど天使はそれを許さない。世界を構築する要素の一つとして──そして二人は目を覚ます。溶けゆく涙を拭い合い、遠ざかる唇の感触と共に、凍てつかせていたはずの感情を取り戻してしまう。砕け散るように、枯れ落ちるように、二人の世界は崩れ去る。ならば共に滅びようと、そう誓ったはずなのに。天使はそれすらも許さない。
永遠は何処に。連続する時は永遠とは程遠く、ならば静止した世界にこそ。
「紅茶とタルト、出来たよ」
「うん、今行く」
一人は一瞬の凍てつきを、一人は永遠の温もりを。二人は互いを。一つの思いが表裏である能力を一対ではなく一体として──そうであったはずなのに。
天使は裏切り者か。彼らはただ、分離を求むのみ。
「はふぅ。完成した?」
「……何の話?」
「絵本、書いてたんでしょ?」
「ん、うん。書いてたけど……そんなに急かさないでよ。うろ覚えなんだからさ。それに、時間は幾らでもあるんだよ?」
「そうだけどさぁ、楽しみなんだもん」
「それは嬉しいけど……なんでまた。僕の時代にはもっと面白い話がいっぱいあったよ」
「でもほとんど覚えてなかったじゃん」
お絵描きが好きな彼は、彼女に絵本を描いてあげる。上手ではなかったけど、それでも彼女は喜んでくれた。
「でもなんでこれなの?」
「別に良いでしょ?……もう、彼に失礼だよ。彼もこっちに来てるかもしれないんだし」
「来てたらもっとメルヘンチックな世界になってるよ」
子供がここに来ることはないんだ。それと関係あるのかな。子供と大人の境界線なんて、大人が勝手に引いただけなんだけどね。
「今度は僕が、絵だけじゃなくて話も、作ってあげようか」
「えー」
「なんだよ」
「別にいんだけど……あっ、だったら、せっかくだし君の話を聞かせてよ。作るんじゃなくてさ」
「いいけど、それこそうろ覚えだよ?」
「じゃあ、メルヘンチックにお願いね」
あるレストランでのお話。
思い返せば二人の物語の始まりはこの時だったのかな
それとももっと前から
彼は彼女のために椅子を引いてあげる。だけど…
「ひゃっ」
「ごめん引きすぎちゃった」
意地悪な笑みを浮かべて謝る。
「痛い」
「ごめんね」
「痛い」
「うん、ごめん」
彼女は微動だにしない。
「え?いや…その…」
彼が後ろから彼女を抱き上げてるみたいだった。椅子を引いたのは彼だけど、咄嗟に庇っちゃったみたいだね。
「僕が悪かったよ、だから」
「う…うん」
「うんって、え?」
「…」
「もう自分で立ってよ」
二人は照れながらそれぞれの席に着く。
「綺麗な景色だね」
「そう?」
「うん、綺麗だよ」
「家の窓から見る景色と変わらないよ?」
「もう分かんない子だなぁ」
彼女はシチューを、彼はパテを、バゲットに付けて頬張る。中は空気が煙たく感じるくらいに暖かいけど、店に着くまでの短い時間が、それでも少し堪えたみたい。
「寒くない?」
「うん、大丈夫」
彼は一度席を立つと、自分の熱が伝わる距離に椅子を動かした。
「パン屑が付いてるよ」
唇は温かく、そして冷たい。
「動かないでよ」
こっそり彼女のパンを盗んだら、すぐに奪い返された。悪いのは彼なのに、なんだか少し悲しそう。
お詫びのつもりなのか、彼女に自分の上着をかけた。
「こんなに着たら暑いよ」
彼女は笑いながらそう言ったけど、彼は違和感を覚えた。
「君の体は冷えきって……」
椅子を引くなんてくだらない嫌がらせしてごめんね。でも、君も、楽しんでくれてたよね。
暖かい部屋で、吸い込んだ空気が心を冷たくした。
君にあの景色を、あの透き通るような冷気をもう一度──だけど冷風が吹く中に君を立たせるわけにはいかないから、君が思い出を振り返れるように、僕は暖かくと、そう尽くした。
雪を懐かしく思う少女は、窓の外を眺めていた。この景色も、家の窓から見る景色と同じに見えたら良かったのに。
彼は呟く。僕も一緒に──。
二人の食事は終わらないまま。食べなくても生きられる世界に来ても、出口へ向かうことはなかった。
「あんまり面白くない」
「ひどいなあ、聞かせてって言ったの君なのに」
「思ってたのと違ったんだもん」
「現実なんてこんなもんだよ」
「でも……あ、メルヘンチックにってお願いしたじゃん」
「あって、忘れてたんでしょ?君も」
彼は少し間を置いて、また話し出す。
「改めて考えるとさ、残酷というか、やっぱり現実って……って話も多いでしょ、童話ってさ。だから、自分に嘘は吐くなってことなんだと思うよ、きっと」
「それでも…、そうだ、絵があれば少しはましになるかも」
「ましって」
「だって文才もないし」
「分かってても改めて言われたら傷付くよ」
「ふふっ、冗談だよ?」
「冗談に聞こえないよ」
「それより……悲劇みたいに言ってたけど、惚気話を聞かされた気分だよ。……そうだっ」
「もう忙しい子だなぁ。次は何?」
「絵は私が描いてあげる」
記憶に残る方が、大人になってからそういうことだったんだって気付けるから、だからかなって、後になって思った。
それとも、恐怖や悲しみを知るのは早い方が良いのかな。有名な童話が作られた時代は今より身近にあったように思うけど、そうでもないのかな。
幸も不幸も、時間が経てば慣れてしまうのかな。
明くる日はクリスマス。二人が作った祝日。二人とも忘れたふりをしていたけれど。
不器用な二人がお互いへのプレゼントに選んだのは、ナンセンスな嫌がらせ。だけど二人は互いに勘違いし合う。その勘違いは両思いの証。図らずも真意をついていた。
「ちょっとお出かけしようよ」
「やだよ雨降ってるし。それに寒い」
「うーん、それなら」
「なに?」
彼は窓を開けて優しい笑みで言う。
「これならどう?」
「えっ…」
雨が降っていたはずの世界は、一面雪景色に変わっていた。寒がりな彼女への嫌がらせかな?
舞い上がる雪と積もる話。二人は楽しげな声を雪に撒いて歩いた。
沈黙を楽しめる程二人は大人じゃないから、今日の為に色々考えていた。妄想の言い訳かもしれないけれど。
「昨日の続き。ふと、思い出してさ。僕は僕のこと話したから、君の話も聞かせてよ」
「私もあんまり覚えてない」
世間は二人を冷気の吹きすさぶ荒野に放り出した。
なんで、いつから…?
二人の旅はここから始まってしまった。
「彼、どこ行ったか知らない?」
「え…だって私も今…それよりあ……」
ちゃんと思い出そうとしたのは今回が初めてだった。やっぱり上手く思い出せない。思い出せるのは、楽しかった記憶だけ。
「可愛い子犬だね」
「もう何度か家来てるでしょ」
「え、うん、そうだね」
「なによ」
「この首輪可愛いね」
「本当にどうしたの?」
「特にこのぶらさげてるやつが可愛いね、君もしたら?」
「は?ちょっと気持ち悪いよ」
「違うよ、ほら…」
「えっ」
これは、ネックレス?
変な趣味の首輪じゃないなら、ちゃんと渡してほしかったけど、不器用なところも好きだった。照れ隠しが余計に恥ずかしかったけど。
ふと懐かしい光景が浮かんだ。それは景色というにはあまりに殺風景で、思い出と呼ぶには短すぎた。何かの資料の写真を一枚だけ見せられたようにもどかしかった。
少し寂しくなったから、今度は意図的に楽しい思い出を探る。
「なに描いてるの?」
「なんもだよ」
「なんもって?なによ、もしかして見られたくないやつ?」
「うるさいなぁ、なんでもいいでしょ。あ、もうミルクやる時間じゃない?」
「誤魔化すのが下手なんだから……でも、そうだね。もうそんな時間だね」
「じゃあこれあげなよ」
「なにこれ」
「いいミルク」
「へえ」
「いつかは君の……ごめんなんでもない」
彼女は少しむっとした。だけど彼は止まらない。
「このミルクはね、えーっと、とにかくいいミルクなんだ。君にもあげるね。ついでにいいチーズもあげる」
「え、う、うん、貰っといてあげる」
寄り添うように生きた二人は遂に温もりを思い出すことなく息途絶えた。
心の中で、物語調に仕上げてみたけど、話すのはよそうと思った。彼の話よりも曖昧だったし、やっぱり恥ずかしい。だから自分の意識を逸らすように話し出す。
そういえば長い間無言の私に付き合わせちゃったな。
「私にね、彼がいつも振舞ってくれてた料理があるんだ。忘れちゃったけど」
彼は彼女の気づかうような素振りに、少し複雑な気持ちになった。こんな時間もいいなって、思えてたから。
「そうなんだ。……クヌーデルとか」
「え?」
「ごめん適当すぎた」
「……私が思い出したかったのとは違う気がするけど、それもよく作ってくれた気がする。なんでそんなよく分かんない料理が咄嗟に出てきたの?」
──急にそんな、想定外のことを言われると口ごもってしまう。無意識の中に浮かんだものを口にしただけなのに。偶然だよ、と心の中でこぼしたけど、それはなんとなく言わない方がいいような気がした。
「他にも何か言ってみてよ」
「えっと、ガルプツィとか?」
「うーん、それはたぶん違う」
そうだよね、偶然なんだから。二度も当たるはずないよ。
「帰ってから色々作ってあげようか?そしたらなにか思い出せるかもしれないよ」
「……うん。ありがと」
家に着くと早速料理を始める。
こっちじゃ食べることに意味なんてないのに……ううん、それは違ったね。
彼は台所について、彼女はそれを椅子に座って眺めてた。
「そーえばさ」
「なに?」
「今更なんだけど、君は日本の生まれなんだよね」
「うーんどうだろ、君だって本当に日本人かって聞かれたら困るでしょ?」
「そうだけど……この言葉が日本語じゃないならなんなのさ」
「さあね。なにせここは不可解なことだらけだから。四季はなくとも季節はあって、雪は降らないのに川には氷が張っている。本当にさ、どこなんだろうね、ここは」
「確かにそうだけど……君こそその口調はなんなのさ」
「君の方こそ」
さっきのあれのせいだ。二人は少し恥ずかしくなって、無理に話を続ける。
「それにさ」
「なに?」
「君も私も名前と容姿は日本人っぽくないと思わない?」
「言われてみれば……まあ」
「もしかしたら、それこそアンデルセンみたいな人がこの世界を作っててさ、その人が日本人だから私達までそう錯覚してるのかも」
自分で話しててまた少し恥ずかしくなったけど、そのあとに続いた沈黙と比べればましだった。
彼女は一言声をかけて席をたった。扉を開けてから、彼の方を少し眺めて、部屋を後にした。
料理を終えて、彼女を呼んだ。
「久しぶりにシュークリーム作ったよ、あとチョコブラウニー」
「美味しそぉ〜」
それを聞いた彼はへへぇとか、ふふぅんとか、そんな息が抜けた様な笑い声を小さく漏らした。
「あれ?でも目的が」
「あっ」
「……いただきます」
「う、うん。どうぞ」
「ちょっと待って、食べる前のお祈りしなきゃ」
「そんなのしたことないだろー?」
「そうだっけ、じゃあ」
ぱくっと一口。
「どう?」
「辛い」
笑いを堪えながらかろうじて相槌を打つ。
「ひどいよ楽しみにしてたのに」
「辛いのは最初によそったそれ一つだけだよ」
二人はお菓子を食べ終えると、それぞれの寝室に。
眠ることはないけど、その時間が二人が同じ家に住むためのゆとりをもたらしていた。
彼は彼女のプレゼントが何だったのか考えていた。何もくれなかったのかもしれないけど、バレンタインに彼女は、渡すの忘れてたって言って、貰えなかった事を悲しんでた彼以上に辛そうにしてたから、彼は深く考えないようにしていた。
彼女は絵本がプレゼントだと勘違いしてた事を、嬉しい裏切りだと、少しにやけて、渡す事を忘れていた事すら忘れていた。
その時間はいつも日が暮れる少し前。
夜が深くなるとどちらかがリビングに降りてくる。その足音を聞いてまたのそのそと降りてくる。今日は彼の方が先だった。だけどすぐ外に出ていっちゃった。珍しいことじゃないけど、そんな日は──
「あ、おかえり」
始まりは分からない。ずっとあったのか、それともなかったのか。
今日は無いはずのベルが鳴った。今日は彼が扉を開けた。
「ねえ」
「ん、うん、なに?」
「君はどのくらい鏡見るの?」
「え、なに急に。顔になんかついてる?」
「そうじゃなくてさ、ほら、答えてよ」
「うーん、少なくともこっちに来てからはあんまり見ないねー。化粧もしないし」
「した方がいいよ?」
「は?」
「いやごめん冗談」
「なんなの?」
「僕もさ、鏡は見ないんだ」
「……だからなによ」
「だからさ、君の顔を一番見てるのは僕だし、その逆も……ってこと」
「よくそんなこと恥ずかしげもなく」
「違うよそうじゃなくて、鏡、ほら、あげる」
「いらないよそんなの」
「そんなこと言わずにさ、ほら。拾ったんだ」
「拾ったのなんて余計いらないよ」
彼はなぜだか少し寂しげな顔をしていたから、彼女は仕方なく受け取ることにした。
それから少しくつろいだあとに、今度は彼女から話し始める。
「ねぇ」
「なあに?」
「そーえばね、さっき絵を描いたんだ」
「絵本の?」
「え?なに絵本って……あっ、ああ、それじゃなくて」
「へえ、そう。どんなの?」
「これ」
「僕達の絵?」
「うん」
「上手だけど……美化しすぎじゃない?」
「そう?君も結構かっこいいと思うんだけどなぁ」
「そんなこと言われたら君のこと言ったんだよだなんて言えないじゃん」
「…」
「にしてもさっ、なんか、うん、君にはこういう風に見えてるんだね」
「上手って言ってくれたじゃん」
「そりゃ上手だけど、なんか意外っていうか」
「そう」
「でもありがとね」
「……なんで?」
「なんでってくれたんじゃないの?」
「うん。あげてない」
「え」
「嘘だよ。でもあんまり気に入ってないんでしょ」
「そんなことないよ?でも」
「でもなによ」
「君の絵は僕に描かせてよ、もっと君の魅力を…」
「魅力を…?」
「てかこの……これ、なに?幽霊?」
「ううん、蝋燭少年。ってそんなことより……まあ別にいいんだけどね?」
「ごめん言うよ」
「そ」
「この世界観はなんなの?幻想的って言うのかな」
「ひどい」
「……やっぱり僕がっ、僕が、大好きな君の魅力をそのまま絵で表現するよ、ありのままの君を。どこか切なげで、ほうっておけないような、気配だけで惹かれてしまうような、そんな君の姿を」
「なら……お願いしようかな」
彼女が恥ずかしそうに、上目づかいで彼を見たから、彼の方が恥ずかしくなってうつむいて、だけど凄く可愛かったから、恥ずかしついでに、久しぶりにベッドに連れ込んだ。
今日もいつもと同じように一日が終わる。ご飯を食べて、遊んで、お話するだけ。そして今日も明日が来る。
「今日は私が作る」
「そう?ならお願いしようかな」
「うん、待っててね」
今日はなんだかご機嫌だなぁ。そんなことを思いながら彼は鉛筆を削っていた。
「調子はどう?」
一度作業を止めて、彼女の方へ行き声をかけた。
「私にかかれば低温調理はお手の物、だよ」
「便利な力だね。毎日作ってくれればいいのに」
「でも君料理好きそうだし」
「まあ実際そうなんだけどさ、うーん、確かにたまにだからいいってのもあるよね」
「そうそう」
会話が終わると彼はまた椅子につき、作業を再開する。
ふと嫌な予感がした時にはもう全てが出揃っていた。
「これなに?」
「え?」
「いやその…」
「なんかつめたくない?」
「そんなことないよ、うん、美味しそう」
「ならどうぞ?」
「……うん。いただきます」
──あれはハムかな、それとサラダにスープか。これは……全然分かんない。あとはパンかな、この子なら発酵とかも簡単に出来そうだし。
「どう?ねえ、どっ?」
「う、うん、意外に普通」
「なにそれ」
「いや悪気はないんだ…つい…ごめん」
「そっか」
「ごめんって」
「私だって悪気はなかったよ」
「え?」
彼女は悲しんでるようで、だから彼は不安になった。何かを間違えたのかな。
「ごめん、なんか嫌なこと言っちゃったかな」
「ううん、これの話し」
違ったみたい。ってことは……
「どれ?これって」
「今食べたやつ」
「え、なに?」
「……今日初めて見付けたんだけどね、こっちにも虫っているんだね」
今日はまだ続く。明日が来るのは少し先。でも彼らにとっては瞬きのうちに明日が来る。今日も今日が終わったね。
「ちょっと、散歩してくるね」
「本当に好きだね、他にすることないの?」
「君が許してくれるなら色々あるけど」
「それって……うん、分かった。いいよ?」
「え、ちょっと待って、違うよ?チェスとかそういうのだよ」
「恥かかせないでよ」
「悪いの僕?」
「あはは」
気まずさはいつものことだけど、今日はいつもより楽しそう。彼女の照れ笑いに彼が嬉しそう。だから余計に彼女は──
「やろうよ、チェス」
「ルール覚えてくれないじゃん」
「……ごめん」
「べつに謝らなくてもいいけど」
「そうだけど」
「……じゃ、じゃあ、行ってくるね」
「うん」
ここにも崖はある。
探さなくちゃ見つからない所に、だけど。
でも、彼はなにも望んでここに来たわけじゃ……。
不幸はいつ訪れるか分からないっていうけど、本当にそうだったのかな。
こんな平らな世界でも、歩いていれば一度くらいは落ちてしまうよね。
彼は少し、疲れてるだけなんだよね。
「ごめん」
ここには彼しかいないのに、それは自分に向けた言葉とは思えない。
「随分、遠くまで行ってたんだね」
体に傷跡が刻まれないのが、彼には辛かったのかも。
それとも、不幸中の幸い?
「うん、ちょっとね」
彼女は、彼が出て行ってからどれくらいたったのか、そんなことすら分からないほど感覚が鈍っていた。
それでも彼が散歩に出た日のことは鮮明に覚えていた。
感覚の鈍りと相まって、つい昨日のことのように。
いつもと何も変わらない一日だったはずなのに。
あれからしばらくが経った。
またあの頃と同じように。
もう、元に戻ったかな。
だけどやっぱり崖は──
「本当はね、身投げしたんだ」
「え…」
「ごめんね、本当に。ごめん」
「ひどいよ」
「そうだよね、ごめんなさい」
「でも…」
彼女はそれがいつのことなのか、思い出せなかった。彼女は悲しくなって、謝ろうとした。だけどそれ以上に、彼女は驚いていた。不安だった。いらだっていた。そんなことも思い出せない自分に。
それを見た彼は少し考え込む。そして彼は口を開いた、頬を引き攣らせて。
「今日はエイプリルフールだよ」
「え」
「ごめんね」
彼は作り笑顔。こんな言い訳はお互いが惨めになるだけ。だけど黙ってはいられなかった。
「エイプリルフールなんて…」
「うん、ないよ。だから僕が今作った」
「今って…」
「ごめんね」
「ひどいよ」
元々なかったものなんだ、この日常は。
だからまた始めから──
──分かってる。
「こっちに来てから、どのくらい経ったのかな」
「そんなの覚えてないよ」
「私が来てからの期間も?」
「うん」
「それって出会った日が分かんないってこと?」
「そうなるのかな」
「ちょっと…」
これは、ずれが戻ったってことになるのかな。
それとも前とは違うずれが生じたのかな。
感覚が鈍り始めたのは彼女の方が先だったのに、それでも彼を責めるなんて。
もうそれすらも分からないのかな。
だけどしばらくは、何事もないと言える状態が続いた。
それが返って辛かったみたいだけど。
「夜中に散歩してると、なんだか日常から抜け出せたような気がする」
今日は彼女が彼を連れ出した。
「そう…だね」
彼は本当に日常から抜け出したくて歩いてたのかな。
彼の返事は少し曖昧だった。もうずっとそうだったけど。迷っているというよりも、頭が回っていないような。
彼女はそんな彼を見て、私もこうなっちゃうのかな、なんて考えている自分が嫌になった。
「不思議だよね、ただ歩いてるだけなのに」
「そうだね」
「もう戻らなくてもいいかもって、思っちゃう」
会話は途切れ途切れだったけど、それでも彼女は話し続ける。
「どこに向かってたんだっけ」
「散歩してるだけでしょ?」
「そうだっけ」
「そうだよ」
「ねえ」
「なぁに?」
彼はその時ふと何かを思い出した。
「少し、一人にしてくれない?」
これがなにかは分からないけど、この感覚には覚えがあった。理由の分からない悲しさと、自分でも理解できない切なさ。それで……この感覚がとても心地よく感じる時があるんだ。そんな時はいつも一人で、それが癖になって、だから……
「ごめんね、先帰ってて。もう大丈夫だから、ありがとね」
これでまた楽しく過ごせる?
彼はまた楽しそうに、少し意地悪な顔で、だけど本当に、ひたすら楽しそうに、彼女に話しかけた。
「見てこれ、久しぶりに君を描いたんだ。結構上手く出来たんじゃないかな」
「……えーっとぉ、なんでこんな恰好してるのかな」
「芸術なんてそんなもんだよ。はいっ」
「え、うん、あー、うん、ありがと」
「どういたしまして」
今度は彼女の方から話し始める。
「チェスのやり方教えてよ」
「え、うん、もちろん」
「じゃあ、えーとっ、まずは並べ方を……」
「それは僕がやるからいいよ」
「そう?ならその間にバターキャンディでも持ってくるよ」
「それも君が作ったの?」
「うん」
「凄いじゃん。やっぱりさ、本当は料理得意なんじゃないの?」
「そんなことないよ」
「あ」
「なに?」
「もう並べ終わっちゃった」
「えー早いよぉ、もぉ。すぐ持って来るからちょっと待ってて」
「うん、分かった」
彼女が戻ると飴を一つづつ頬張る。
形は綺麗とは言えなかったけど、凄く美味しかった。
「ねえ」
「んー?」
「あのさ」
「なに?」
「ごめんやっぱり分かんない」
「そっか」
「うん」
「大丈夫だよ、分かってるから」
「え?」
「何を言いたかったのかは分かんないけど、でも、分かってるよ」
「ありがと」
元に戻ったかのように見えたけど、やっぱりあれは偶然じゃなかったみたい。しかも今度は、二人のその波が重なってしまった。
そして彼女は小さくこぼした。私も一緒に──。
鼠達の祝福のもと、林檎酒で賑わう。
それは一夜の灯火。
麦に囲まれ豆に彩られ夜に滲ませる。
有り続けるものの中で数を減らし目を細める。
濡れ乍らに心安らかに。
色のない世界へと。
二人が最後に選んだのは──
「これが僕からの最後の嫌がらせ」
「ならこれは私からの仕返しだね」
彼は世界を凍てつかせた。
彼女はそれを腐敗無き永遠の温もりで包んだ。
これはいつかにこの世界へやって来た二人の物語。神代に現れ、悠遠なる時に逆らった二人の話。ずれていたはずの二人の時間は、この世界で交じり合う。それが天使の意図なのか、それとも彼の悪戯か。それでも結ばれたことに変わりはない。しかし本当に幸せだったのだろうか。別れが約束された出会いに幸はあったのだろうか。それでも二人はまた──。
「僕らもそろそろ行こうか」
「あの子達も、なれるかな」
「君は、今に満足してるってこと?」
「満足って程じゃないけど……君は違うの?」
「うん。でも片腕の代償としては十分なのかな」
「そうだよ。君は子供になっちゃったし、私はこんな姿になっちゃったけど、それでも」
「違うよ。それは、違う。僕達は──」
二人目の天使は一対で一体の天使。
二人はまた、二人目を探す。
誰もいない部屋に、一枚の置き手紙、名はLT。