寄り道
段を叩く足音が辺りの淀んだ空気を揺らす。電気のない薄暗い室内に、土埃で汚れた窓から射し込む光が明と暗とを作り出している。光の当たるところには、宙に漂う細かな埃がはっきりと見て取れる。壁の至る所に亀裂が走り、瓦礫が其処彼処に山を作っている。人の匂いなど疾うの昔に消えてしまったようであった。
階段を一段上へ上る度に其処いらに浮遊する埃が体に当たって四散していく。塗装の剥げた手すりは触れる手に牛の舌の如き感覚を与えた。当然そこには生の脈動はなく、どこまでも無機質な冷たさが骨にまで届くようであった。手すりから離した手の平には赤茶けた錆が付いていた。
この廃墟を見つけたのは全くの偶然であった。いつもと寸分違わぬ帰り道を、常と変わらずなぞっている途中、魔が差したのかよく知りもしない細い路地に入った。あるいは誰かに呼ばれたのかもしれない。要するに、普段の道から外れて見知らぬ路地に入るという行動にどう説明を与えてやればよいのか分からなかった。それほど奇妙な行動であった。
その路地は陽光の届かないうえにごみが散乱していて陰鬱であった。見たところ散乱しているごみは比較的新しいものが多くあったが、全く人の生活している気配がなかった。ごみを避けながら路地の奥へ進むと其処にひびだらけの廃墟が建っていたのである。
廃墟を上っていく間、これと言って考えることはなかった。いや、考えようとしても麻痺したように頭が働かなかった。ものを考えようとしているのは自分自身であるが、それを縛り付けようとするのもまた自分である。頭の内で衝突している中、ただ体だけが定めに従うかの如く動いていた。しかし階段を上り地上から遠ざかるにつれ、使い物にならない頭でも現実から離れていく感覚を覚えた。一階から二階、二階から三階へと上るうちに服を脱いでいくのにも似た軽さがあった。と同時に何者かが足にしがみつくような重さもあった。そして生の終わりに近づいているという確かな感覚があった。
四階からさらに上がると目前に鉄扉が見えた。銀色のノブを掴んだ手はその冷たさに一瞬引っ込んだが、再び掴んで回すと幸か不幸か鍵がかかっている様子はなく、ノブは限界まで回った。鍵がかかっていれば何食わぬ顔で日常へ戻っただろうに――。扉は長らく使われていなかった所為か耳障りな高音を立てながら開いた。此岸と彼岸とを分かつ最後の扉は何抵抗することなく取り除かれた。
扉の先には憎らしい程に赤い夕焼けが広がり、薄闇に慣れた目を刺激した。若干の冷たさを持った空気の中に微細な塵が煌めきながら舞っている。扉を背にして際の柵までまっすぐに歩いた。歩を進めた分だけ砂と塵と埃に覆われた床にくっきりと足跡が付いた。柵を乗り越えてしまうとたった数センチの足場が一人の人間の命を支えていた。世界の端に立って眺める街はガラクタを積み上げたようであった。通りを行く人も車もままごとにしか見えなかった。
こんなところに立って最早思い残すことなど何もない。今夜か遅くとも明日の朝にはごみを撒き散らしに出て来る住人が地面に散らばった肉塊に気づくだろう。できることならば肉すら残らず消えたかったが流石にどうにもなるまい。第一、家には生活していた跡、生きていた痕跡が残っているのだから仕方がない。着古した服が、角の欠けた食器が、絨毯に着いた染みが家の中にあるのだから仕様がない。
さようなら――右足を宙に放り出そうとした瞬間、不意に「晩御飯は何にしよう」という声が微かに聞こえてきた。あまりの予期せぬ出来事に思わず柵にしがみついた。続いて笑い声が響いた。高鳴る心臓をそのままに顔を上げ、扉の方を見遣った。しかし其処には誰の姿もなかった。遂に幻聴まで聞こえ出したかと思ったが、何のことはない、すべて自分の発した声であった。
柵を越えて床に――もう二度と踏むはずのなかった床に座り込んだ。両手を後ろについて見上げれば空は赤みを増していた。
耐え切れず「あははは」と笑い声をあげると先刻と同じ声が耳に返ってきた。今から身を投げようとしていながら今日の晩御飯のことが頭に浮かぼうとは、全く何てばかげたことか。
死を前にして如何に惰性で生きていたかを悟った。未だ己が人生を歩んでいないことに気づいた。
忘れ去られた廃墟の屋上には扉からのびる足跡と扉へと戻る足跡、そして足掻いた跡が確かに残っているのだった。




