絶世の奇病
超能力。
それは、魔法、錬金術のような摩訶不思議な事象を一括りにした総称。
それは、今や全ての人が共有、行使する超常の力であり、日常の光景。
それは、科学技術の推移の結晶。
諍いの手段。
生活の基盤。
世界の根幹。
だが、それは元々、病気である。
生後2、3ヶ月の時に発症し、「不治の病」という負のイメージが当初の人々の脳裏に根付いている。
自然の摂理か、人の噂も七十五日と言うべきか、超能力への偏見は色褪せた。
青色が水色くらいの微々たるものだ。
超能力者の発覚は二十一世紀末。
とある北欧の地、通院患者の脳神経細胞が突然変異したことが発端である。
患者は眩暈、立ち眩み(たちくらみ)を頻繁に覚えた。
病院を何軒もハシゴし、たらい回しにされた。
最後に辿り着いた場所で異変を発見。
病院の所在地はフィンランドのユヴァスキュラ、ヴァンター、ロヴァニエミ。
この3都市が皮切りだった。
起源は生後2、3ヶ月後ではなく、25歳の女性。
次の患者は31歳の男性。
3人目は46歳の中肉中背男性。
潜伏期間はない。
体内に侵入すれば即発症。
死亡ケースは一つとしてない。
症状は目に視えて発症という訳ではない。
その人を境に、発症の人口は増加し、年齢は早期化が著しかった。
ただ、妙齢な人間も範囲内だった。
そこから物議を醸し始めた。
始めは、ある研究者が
「ただの病気として片付けるのは、国債レベルの損失を被ることと同義である」
と力説した。
研究者たちに科学的根拠は欠片もない。
実業家財団が口添えをしたのだ。
時流に逆らうかのように、次から次へと
「超能力は公益に活用できる」
「資源を創り出すきっかけになる」
と主張する評論家、文化人らが現れた。
当時の国連は、「超能力は社会に奉仕すべき」という名目で超能力者の存在を容認する形で膠着した。
だが、世論は超能力者を「不確定要素が多い」、「恐怖の対象」「人間資源生産機」としか認識できないでいた。
その実、体良く厄介払いを執り、人権はあってないようなもの。
国連は民意の条件として「超能力者を隔離すること」を絶対条件と定めた。
条件の擦り合わせはそれはもう手間がかかった。
超能力の発覚から五年後、国連では八年間、超能力者の処遇・能力使用の方向性・禁止事項に議論が紛糾。
議題は主に、居住範囲、人口規模、造築技法、食事、生活圏、労働手段、交渉権、交通手段、技術力の放出多寡、能力使用方法、娯楽など、と拘束要綱がガッチガチに確立され、自由度を漸減していった。
結論として、日本列島が島国であり、超能力者の総人口に余剰地が多いことに着眼。
日本列島を拠点に超能力者のためだけの居住地を創り上げることが確率機で最も有用であると算出された。
この事変は「箱庭創造宣言」と後世に語り継がれる。
後世と綴られたが、残った未来は永くは続かなかった。
「箱庭創造宣言」の34年後に世界を大寒波が襲った。
災害は必至だった。
人間の業、贅沢、悪徳が招いた副因。
いや、それこそが主因だろう。
大寒波は人間を絶滅に追いやった。
国家、国境、人種、思想、環境は無関係。
一部の人間を除いて。
超能力者である。
この現象は、業・贅沢・悪徳が誘因なのだろうか?
猜疑心は卑しくも直近の話題へと矛先が向けられる。
だが、狡い下心は風前の灯火。
後の祭りだ。
超能力者は体温調節機能に優れており、動物の機能的凍死、冬眠で死亡した者はゼロだった。
この天変を境に、世界には超能力者しか存在しなくなった。
大寒波から210年──2342年──箱庭は地球そのものと化し、領土が拡大し、地形が複雑化。
国が出来上がり、変化しない国も歴史を新たに、支配圏も改変し、秩序や規範、法律も改定させられた。
何もかもが、0から1へ。
無から有へ。
大寒波で人間が約八千万人まで減少したが、200年が経ち、二十億人まで持ち直した。
基礎から国家を確立した為、青天の霹靂で出来上がった国々の表面上の国境線は曖昧。
各国は主導権誇示の為、水面下で密かな抗争が現在進行形で勃発。
過去、表面化するほど大きな争いも。
皮肉なことに、係争状態が続くことにより、超能力者が差別されていた頃に較べ、科学面、宇宙開発技術面、医療面、交通面など、枚挙に暇がないくらい多岐に興隆していった。
顕著だったのは、学校教育。
教育面では、学校数が激減。
代償に、教育密度は濃くなった。
学校は全体で四十二校。
増設の否やは、今後の発展次第といった具合。
学校は小学校、中学校、高校、大学が纏まって一つの学校として運営されている。
エスカレーター式を執ることで習熟進度を一律にしようと試みた結果。
これは、日本国が決めたこと。
他国と足並みを揃えるのは一苦労のようだ。
海外は、小・中・高・大学とバラバラの運営を。
運営、治安維持等は学生に一任。
海外の運営、治安維持等は大人と分担。
大人は生徒に干渉し過ぎないということが日本学校の不文律。
「学校全体は生徒の自主性を尊重」これが現在の教育体制の理念である。
これは、能力向上条件として、「過干渉より放任」が、灼然とした事実。
然し、何時の時代、如何なる分野でも優劣は厳然と存在している。
能力向上には遺伝子、素質が能力に少なからず影響している。
初期能力には生まれた時から確固たる差異が顕在。
上部だけの差別が無くても、人の根っこには差別に対する精神が存在する。
故に、無意識的に弱者はどこかで劣等感を抱いている。
また、強大な力を持つ者の中にも矮小な能力しか持たない者とは異なるベクトルの苦悩を抱えている。
それは、凡ゆる社会集団内の同僚、上司、部下。
それは、瞭然とした身分差がある王族、貴族、平民、奴隷。
それは、狭隘な集団、同級生、上級生、下級生。
それは、血の繋がりがある家族、続柄であっても同様。
その為、争い、確執が絶えることはない。
世界が180度変わろうと……