たったひとつの魔法陣
◇◇◇
それからの1週間は瞬く間に過ぎ去っていった。
…王宮へ、行かなくちゃ。
私の頭は不気味なほど冴えていた。
私の態度ひとつで彼の命運にも関わってくると思えば、如何様にも冷静になれるというものだ。
護衛騎士に手を取られて馬車に乗り込む。
胸元に忍ばせた転移の陣の上にそっと手を置く。
…余分に作っておけたら良かったのだが。侍女たちの目を盗んで完成させるとなると、ひとつが精一杯だった。
もし、転移したときに誰かに拘束されたままだったら、その人も一緒に連れてきてしまう。
チャンスは1度きり。
自分に言い聞かせて、馬車は王城の門をくぐっていった。
・・・・・・・・・・・・
「エルローズ様、お時間よろしいでしょうか?」
…来た。
勉強会が終わった途端呼び止められた。
気を引きしめる。
それにしてもヴィヴィアン様から直接声を掛けられるのは予想外だった。
肯定の返事をすると入ったことのない小部屋に誘われた。
声を掛けられた場所から、やけに遠い。
中にはあの、銀髪の従者が控えていた。
ヴィヴィアン様が扉を閉めて話し出す。
「わたくしの従者がちょうど1週間前、たまたま下町へ向かったときに偶然エルローズ様を見掛けたそうですの。そのときに……」
彼女は目で合図して銀髪の彼を呼ぶ。
目の前に射影機が置かれた。
顔ははっきりと認識できないが、確かに私だ。金髪の少女は、こちらに背を向けた黒髪の男の手を取っている。
「彼が、たまたまこの映像を捉えたそうですの。…ねえエルローズ様、わたくしとてもショックを受けましたのよ。まさか――――――淑女と名高いあなたが不貞をなさっているなんて!」
画像に映る黒髪の男性を指しながら彼女はまくしたてる。
「残念ながら黙ってはいられませんわ。殿下に不義をなさるなんて!あなたとは、これから力を合わせて国を支えていこうと期待していましたのに、酷いじゃありませんの!」
彼女は私と従者しか聞き手がいないにも関わらず、演説するかのように愛国心を朗々と語る。
………何かがおかしい。
脅すにしても、明かされたくないなら婚約者の座を退け、と端的に行っても問題はないはずだ。
まるで彼女が何をしたいのか、要領を得ない。
無表情を保ったまま辛抱して彼女の話を聞く。
「…………でも、誤解という線もありますのよね。あなたにお伺いしますわ、エルローズ様。この方は、誰ですの?」
ここで彼との関係を改めて尋ねられるとは。
まさか私がボロを出すことを期待して録音しているのか?それとも部屋の外から盗聴の魔道具を使用している?
確かに、「その少女は私ではない」と主張することは出来るだろう。そのときの私の行動を証言してくれる人はいないが、証拠としては強くない。
それでも、このままで大丈夫。
予め頭の中で練っていた言葉を舌に乗せる。
「まあ……誤解ですわ。不貞だなんて、そのようなことは。彼は私の案内役です。市井の見学という殿下の提案に感銘を受けたのですわ。彼にエスコートされながら回っていただけでございます。その証拠に、腕も取っていませんわ」
潔白を押し出しすぎてもいけないし、明らかに嘘だというような態度でもいけない。どちらともとれる困ったような顔を作ってゆっくり言葉を紡いだ。
私の言った言葉は寧ろ真実に近いな、とさえ思う。私は必要以上に彼に密着しようとはしなかった。
………彼の肩に寄りかかって寝てしまったことはあったけれど。自分の意思ではないのでノーカウントということにする。
目を覚めたときこちらを優しく見下ろしていた彼の顔が目の前にあって、みるみる顔に熱が集まっていくのが分かった。
どうせなら1回くらい足を滑らせて彼に支えて貰えば良かったわ。
目の前のヴィヴィアン様の唇が弧を描く。
ガタリと音がして扉が開かれた
……………え。殿下!?
「………ヴィヴィアン嬢の言う通りだったな。エルローズ=ハイドレンジ嬢、君達の話は聞かせて貰った。君はハイドレンジ夫人に“私と君で毎週街に行くことになった”と言っていたそうだね。王族の言葉を偽ることは偽証罪だ。それに、偽りを告げてまで下町に行くとは、立派な不貞の証拠ではないか。」
しまった。最悪のタイミングだ。
…お母様が夜会で自慢でもしたのかしら。偽装したわけでは無いのだけど。ひと言も「殿下と」行くだなんて言ってないわ。
殿下の後ろから数人の近衛兵が続く。
左右から腕を取られた。
…これでは転移の術式が使えない!
「彼女は強力な転移持ちだ。腕を離すな。」
殿下が腕を組んでこちらを向く。
「エルローズ嬢。公爵邸で沙汰を待て」
来たときと同じ馬車に乗せられた。左右を挟まれているのでゆったりとしていたはずの馬車はぎちぎちだ。
私が初めて腕を組むのはイーサンだって決めていたのに!
通り過ぎる窓の外の景色が嫌に眩しく見えた。
・・・・・・・・・・・・・
「到着しました。エスコートできず非礼をいたしますが、このままお降り下さい」
家の正門の前で馬車が止まり、ドアが開かれる。
事前に通告されていたのか、メイドや執事に囲まれて奥の方にお母様の姿が見えた。
…お母様が門の前まで出迎えに来るなんて珍しい光景だわ。
ああ、あの森へは転移できそうもない。
公爵邸の中に入り、扉が閉ざされてしまったらいくらイーサンが腕のたつ傭兵だったとしても私を連れ出すのは困難だろう。
ステップにかけた足を踏み外し、倒れてみる。
「きゃっ…!」
すぐに立たされてしまった。
足を捻ったふりをして、のろのろと進む。
あっ、抱えていただかなくて結構ですから!
足を捻った私を抱き上げてくれるのも、あなたがいい。あなた以外は嫌。
左右を囲む細身の騎士よりはるかに太い逞しい腕で軽々と私を持ち上げて抱き寄せてくれるんだわ。
嫌だ、あなたのことを諦めたくなんてない!
イーサン――――――――!!
「エル!」
後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。
低くて艶のある大好きな声。
でも決して私の名を読んではくれなかった声。
「エル!!!」
………まさか。本当に彼が、なんて。
周囲の人たちも皆声のした方を向く。
私も両腕を必死で動かしながら彼の方を向いて――――――――――
ドゴッッ
いつかの日のように左右の騎士たちが吹っ飛んだ。
ただしあのときと役回りは全くの逆。
彼は罪人を助け出す悪役だ。
いいえ、それでも私の中では何も変わっていない。彼はいつだって、私の愛するヒーローだった。
剣も持たずにしなやかな動作で足を振り抜く彼を、場違いにも美しいと思った。
「苦労したんだぜ、姫さん!」
一瞬の浮遊感。
私は彼に抱き上げられ、彼の腕の中に囚われていた。
数秒前の夢が叶うのって早いものね。
もう迷わない。躊躇いなく胸元から術式の書かれた紙を取り出す。
「不貞の罪で国外追放でも構わないわ!私はただの平民として彼とともに生きていく!どうかお母様、ここにいる王宮付きの騎士の前で親不孝者の娘の絶縁を!!!」
一息で言い切り、空間転移を発動する。
イーサンの両腕が、強く私を抱きしめる。
周囲の音が遠ざかっていくなかで、お母様が人垣を掻き分けながらこちらに向かって声を張り上げていた。
…初めて見た、微笑みの消えた表情で。
「エルローズ!貴族として価値のなくなったあなたなどいらない!平民として生きればいいわ。だから――――――――――――」
視界が白く染まる。
『何処へでも行きなさい』
母の口が、そう動いた気がした。
それから私たちはいつもの大木の下から隣国へ向って歩き出した。
イーサンに手引かれるまま、必死でついて行った。
何事もなく関所を通ったあと、私よりはこの国について詳しいイーサンが宿屋を選んでくれた。
私は黙ってそれを見ていたけれど、2部屋取ろうとする彼の言葉には被せて1部屋にしてもらった。
彼が驚いてこっちを見ていたけれど、1人では気が張り詰めて眠れそうになかったから。
よく考えると、豪華なドレスのままイーサンに連れられローブを纏ってここに駆け込んできた私は相当な不審人物だろうが、何も聞かれずに泊めてもらえて本当に良かった。
受付をしていた年配のマダムはにこにこと微笑んで受け入れてくれて、なんだかとても泣きたくなった。
私も、この街で仕事を見つけなければ。イーサンに頼ってばかりではいられない。
全ての手続きが終わって部屋に帰るころにはすっかり夜が更けていた。
服を着替えてベッドに倒れ込む。
やっと手を離そうとするといつの間にか彼と指を絡め合っていたことに気がついた。