小さな射影機
◇◇◇
カチリ、カチリと秒針の音が聞こえる。
興味もない大量の書類を1枚ずつめくる。名家の人たちの情報がぎっしり詰まっている書類だ。
たくさんの肖像画が載っている。だいたい似たり寄ったりの金髪碧眼に細面の“美男子”だ。
…もう少し頼りがいのある体つきになろうとは思わないのかしら。
私が抱きついたら折れてしまうのではなくて?
もっと逞しく、例えば黒と青の色をもつ彼のような……
貴族の男子には武術の講師がつけられる。私も殿下の応援と称されて見学に行ったことがある。
そのときは一定のリズムで年上の方とキン、キンと剣を打ち合っていた動きをきれいだと思った。
でも、誰かを守れるくらいの実践的な力はきれいさだけでは力不足だと知った。
私の前に現れたイーサンの肉体はしなやかで荒々しく、とても強くて。
……数日前に彼が連れて行ってくれた花祭りは言葉で言い表せないほど楽しかった。
見たことのないもの、全ての人を受け入れる下町独特の雰囲気、それから何より隣を歩く大好きな人。
クローゼットに目がいく。
お祭りに行く直前まで着ていたドレスは奥深くに押し込まれて全く見えなくなっていた。もう取り出せない。
あのドレスの重なったレースの内側に、屋台で買ったリボンを括りつけておいたのだ。
思った通り、細い金色のリボンは絢爛な装飾品に紛れて、咎められることなく持ち帰ることが出来た。
もうリボンには触れられなくなってしまったが、それがなんだ。思い出の欠片を見つからずに持ち帰れたことに、少しだけ胸がすく。
それでも、本当はリボンの色だって彼に選んでほしかった。
欲を言えば常に身につけていたかった。
腕に目を落とせば重量のある華やかな腕輪が巻きついている。別に今日は1日家から出られないのだから着飾る必要なんてないじゃない。枷みたいだ。
左手から侍女の鋭い視線が刺さった。
わかってるわよ…ちゃんとしますから………
手元の書類をまた1枚めくる。
何をしているかというと立太子の式典出席者の名簿の暗記だ。
式典まで残り2ヶ月に迫っている。
王宮ではもちろん、講師の先生方からも出される課題の量が増えた。
全てはあと2ヶ月で完璧なエルローズ=ハイドレンジを作るため。
その中でもこの名簿の暗記だけはどうしても苦痛だ。
元々顔と家名とファーストネームをと爵位を暗記してそれらを一致させることは苦手だったことは確かだ。
でもそれだけではなくて……
私が今していることは式典のため。
私をひとつの家に縛りつけるための準備を私自身がしている。
そうなる前に逃げてしまおうか、という考えが頭をよぎる。
姦通罪、特に王家の側室や正室の姦通罪の報いは間男と一族共々への死だ。
しかし婚約者候補段階となると議論の余地はある。罰は王国法から考えると国外追放または修道院送りほどではないか。
相手の男や一家への対応は…それよりは軽いと思いたい。
もし、私が2ヶ月以内に逃げ出したとして。転移を使えば難しいことではないだろう。
イーサンに願えばきっと私を連れ出してくれる。
婚約者候補の不貞疑惑では、国外逃亡した元貴族をわざわざ指名手配はしない、と思う。幸いにして私はありきたりな金髪碧眼だ。イーサンの黒髪はそこまでありふれているわけではないが、顔さえ割れなければ問題はない。
私を躊躇わせるのは、なによりハイドレンジ家の存在だ。
私と彼が逃げおおせたとして、家には処罰が及ぶだろうか。
評判は確実に落ちるだろう。いくら大きな公爵家だからといって貴族の中では痛手になる。
…父と母は私の裏切りを知ったらなんと言うだろう。
そして、父の側室や私の異母兄弟は?
彼らには肩身の狭い思いをさせてばかりのように思う。いつも彼らが頭を下げさせていた私が逃亡したら…。
恨まれるだろう。彼らに良いことなど何一つできた覚えがない。
そもそも私が逃げるのを躊躇っているのは彼らに恨まれたくないからかしら?悪者になりたくないから?
自分の願いも叶え、誰にも恨まれたくない?
それはあまりにも傲慢だ。
逃亡できない理由を理屈ったらしく考えているのは不満をもっているくせに行動しない私を正当化するためではないのか。
『貴族として恵まれた生を受けたからには多少の苦も切り捨てて国のためにつくしなさい』
『1度きりの人生は、あなたのためだけに生きなさい』
誰に言われたでもないふたつの考え。どちらが正しいかなんて分からない。
どちらを取るにしても、全て私の我儘だ。
…………冷静になろう。
結論はまだ出ない。
ぎりぎりまで考える。それまでは大人しく式典の用意をするとしよう。
ホンパット=ヴィルデンドラ伯爵。正室のフランシスカ様。嫡男のビェチャスラフ=ヴィルデンドラ男爵……どうしてこんなに舌を噛みそうな名前ばかりつけるのかしら。
ルワナイエ=ベーコン子爵…あら、この方なんだか美味しそうね……
お母様ならご趣味のひとつでも覚えて話題を振るのでしょうけど…
気を抜けば飛びそうな思考を気力で繋ぎ止める。
また、この課題を完璧にするまでこのままなのかしら…
私がやつれてしまったら取り繕うために頑張らなきゃいけないのはあなたたちなんだからね……
気を引き締めて文字列と格闘している間に夜が更けていった。
◇◇◇
「………と愚考いたしますが殿下はどう思われますの?」
「それは良いな。私も………………」
王宮の一室で円卓を囲んで討論会だ。
私の左側に殿下、さらにその奥にヴィヴィアン様。婚約者候補と殿下の合計7人で席についている。
紅茶がなくなる度に控えている給仕たちによってつぎ足される。クッキーに手をつける令嬢はいない。
今日のテーマは「貧民層の救済」だ。
私の向かいに座っていた令嬢が指名されて話し出す。
「スラム街の取り壊しが最優先事項ですわ。ジョセフィーヌ=ルイザック女史の『近代史Ⅱ』で、彼女は『貧民街ではマフィアが根付き、取り締まりに行った衛兵が殺害される事件も多発するようになった。』と述べています。スラム街を解体するには第一に犯罪組織の制圧を提案いたしますわ。衛兵では力不足だと思われますので第三騎士団をまるごと送り込むべきではございませんか!」
彼女が引用した部分はあくまで「スラム街における大規模な組織の発達」から「取り締まりに来た衛兵が殺された」という事実のみであって、「スラム街に住む貧民層の治安」は考慮されていないのではないか。
殺人事件が起こったら治安が悪化する、というのは当然の思考だろう。しかしイーサンは言っていた。スラムでの殺人なんて日常茶飯事だ、と。殺されたのが衛兵であっても孤児であっても実情はたいして変わらない。
それに、彼女は兵を送り込むと言った。しかしスラム街に兵力を向けるための調査は誰が行うのか。せめて交渉という手段はないのか。摘発したところでそれは本当にスラムに住む人々の幸せなのか。
彼に会うまでの私は考えもしなかっただろう。
「スラムにはスラムなりの社会があって、暗黙の了解があんだよ。まともな仕事に付けねえやつもあそこでなら生きていける、ってのも珍しくないわけだ。マフィアはなあ、真っ当な手段でなくても、そういう奴らを纏め上げてる……」イーサンの声で、彼の台詞が頭の中で再生された。
私は近くまで行ってもスラムを直接見たことは無いけれど。彼は頑なに私を連れていこうとしなかったから。
その代わりにたくさんのことを話してくれた。
「まあ、ジョセフィーヌ女史の『近代史Ⅱ』はわたくしも愛読しておりますのよ。他には、彼女の『普遍論』にも有意義な情報がありますわ。彼女の言葉には説得力がありますね。わたくしもアントワーレ様のお考えを支持いたしますわ」
「発言をお許し願えますか、殿下。アントワーレ様とミナレッタ様のご意見に加え、貧民街での炊き出しをしては如何でしょう。行き倒れる方も多いと聞きますし、食べ物の供給も重要ですわ。貧民街で炊き出しをすると、大きな通りにいる物乞いもそちらへ行くでしょうし街が清潔になりますわ」
炊き出し…か。孤児院などの限られた区域で行うことはまだしも無償でスラム街の人々に食べ物を与えるとなると彼らの社会がが崩れたりしないだろうか。
例えば食糧を炊き出しに依存して生活が堕落してしまう、というような。
それに、彼女は遠回しに「煩わしいものはスラムに全て押し込めれば良い」と言っていないか。
…どうしてもひねくれた見方をしてしまうが…しかし、彼女たちの考えでは思惑通りには行かない気がする。
つらつら考えるうちに議論は進んでいく。
「では…エルローズ=ハイドレンジ嬢。彼女達の提案に対して君の考えを言ってみなさい」
…私の番か。
適当に話を合わせることはしたくなかった。自己満足だとしてもイーサンが教えてくれたことに報いたい。
「私は…貧民街の取り潰しには不安を覚えますわ。そこに住んでいた人たちは住処を失い、益々悲惨な目にあってしまう可能性があります。スラムに直接手をつけることは後にまわして、それ以前の対策として、彼らに仕事を与えることを提案します」
昔見たことのある文書の記憶を引っ張り出す
…あれには、確かにイーサンが言ったようなことが書かれていた。
「一例としてですが、彼らを灌漑事業の作業員として雇ってはどうですか。ヴルド氏を代表として提出された『二十七項の嘆願書』には貧困層の生活用水の深刻な汚染が綴ってありました。疫病が起こるリスクの低下や、衛生面を考慮するならば有効ですわ。灌漑にかかる具体的な計画は…申し訳ありません、私は門外漢ですが。スラム街の周囲にそれなりに太い川が2本ほどあったように記憶しております」
それから森の中の池もあるわ、と心の中でつけ加える。
これだけはイーサンと私だけの秘密だから何も言わなかった。
「エルローズ様、ヴルドは博士号も取得していない平民ですわ。この場で出すには適していないのではありませんこと?」
ヴィヴィアン様が口を挟んだ。
「だからこそ、ですわ。貧民街の問題に対処するには、彼らの視点をお借りすることが大切だと思いましたの」
時間だ。最後に殿下が口を開いた。
「ハイドレンジ嬢、興味深い着眼点だ。有意義な討論会になったよ。では諸君、解散するとしよう」
やったわよ、イーサン!
私なりに大きな進歩だ。
肝心の悩み事は何も解決していないけれど、少しは堂々とあなたの隣に立てるようになったのではないかしら?
このことを彼に報告して褒めてもらいたい気分だった。
彼は「お疲れさん」と薄く笑って大きな手で頭を撫でてくれるに違いない。
今日は王宮での勉強会も長引かなかったから、彼を待たせることもない。
一刻も早く会いに行こう。裏庭の方へ急いだ。
だから、少し浮かれながら歩く私の背中に突き刺さる視線には全く気が付かなかったのだ。
・・・・・・・・・・・・・
イーサンに連れられ、いつものように街を歩く。
今日は1番初めに馬車に乗って来たこともある、お城の近くの市場までやってきた。
「イーサンってお料理はする?」
「いんや、全く。食事は宿に頼りきりだな」
市場に縁なんかねえしな…と、彼はキオの実を手に取った。
「こいつをそのまま齧るくらいならするぜ?」
「そんな食べ方初めて知ったわ!!」
「姫さんにはまだ早えよ」
私がやってみたら顎が外れそう…なんて思いながら通り過ぎる
「そういえば私は全く調理が出来ないわ…」
「だろうな。知ってた。料理できる方が驚きだな」
だって、仕方ないのよ。
レシピは入手できたとしても食材に触らせて貰えないんだから。
私が下手なことをしたら、コックが折檻を受けてしまう。
「食事作れなくったって姫さんの価値が下がるわけないから安心しろよ…」
私が落ち込んだと思ったのか、イーサンは揶揄う調子で付け加える。
「くっ……いつかあなたに完璧なものを作ってぎゃふんと言わせてやりたいわ…」
「姫さんが?俺のために作ってくれんの?」
もしかして私、相当恥ずかしいことを口走ったのでは!?
「…イイな、それ」
イーサンが振り返って体を私の方に向ける。彼の表情は逆光でよく見えない。
イーサンに食事を振る舞う日が来たとしたら。それはきっと私たちが家をもつときだ。向かいの席に座る彼の顔がはっきり見えるほど狭い食卓で、手作りの食事を並べて一緒に食べる。
そして彼は嬉しそうに笑って「美味い」って…………………
「えっ…………?」
雑踏の中に目立つ銀髪の、見知った顔の男性がいた。こちらをじっと見ていた。
宮廷で見掛けたことがある。あの人は確か……………ヴィヴィアン様の護衛。
手に持っているものは…記録用の射影機!?
隠れなければ……!
同時に、ある考えが頭をよぎる。
敢えて顔を晒してみようか。
だって気づいてる。このまま変化もなく過ごしたって何も変わらない。
あっという間に2ヶ月が経ち、私は婚約し、教育は厳しくなり、彼にはもう二度と会えなくなる。
今、イーサンは射影機に背を向けている。そしてこれは不貞の疑惑を起こさせるきっかけにはなっても明確な証拠にはならない。
…完璧だ。
そして私はローブにに指先を引っ掛けて後ろにずらし――――――――賭けをすることに決めた。
「おい、どうした?」
イーサンが顔を覗き込んでくる。
ああ、お願い、どうか後ろを振り向かないで。
「……なんでもないわ」
そう言って私はにっこり笑って見せた。
それから私は上の空だった。
彼と何を話したのかよく覚えていない。
どこで勘づかれたの。いえ、それはどうでも良い。
彼はあのフィルムをヴィヴィアン様に届ける。それを見た彼女はどうする?
殿下に直訴なさるかもしれない。
…でも彼は賢明だ。
あの魔道具は人を明確に識別できるほど鮮明には射影されないから、彼は証拠を掴むために私に気づかれないように監視させるだろう。
だから、事態が動くとしたら1週間後。
私が次に王宮に行くとき―――――――――――――――
「なあ、あんたさっきからおかしいぞ。返事もしねえでさ。おい、聞いてるかよ?」
気づけば私は大通りから伸びている脇道に座っていた。
イーサンはしゃがんで私に顔を合わせている。
「……………イーサンは、」
「あ?」
「あなたは、今すぐにこの国を離れることもできるのよね?」
唐突に話し出した私に首を傾げ、眉をひそめながら彼は頷く。
「…まあ、稼ぎの面で言ったら問題はねえけど…で?」
口は挟まず、彼はじっと私を見つめたまま続きを促す。
「……もし、私が来週あなたのところに現れなかったら、すぐにこの国を出てほしいの」
「…………は?」
たっぷりと沈黙したあと、訳が分からないと彼は顔をしかめた。
「おそらく、王城を抜け出してここに来ているのを顔見知りに目撃されたわ」
そしてそれを拒まなかったのは私。
彼は黙ったまま私の話を聞いている。
「私………私は、ハイドレンジ公爵家正室の一人娘、エルローズ=ハイドレンジ。第一王子殿下の婚約者候補で、2ヶ月後の殿下の立太子の儀式を皮切りにどこかの正式な婚約者となる身。もう、此処へは来られない」
「……………おいおい、ハイドレンジ家っていやあ、俺でも聞いたことあるぜ」
国王に次ぐ権力者じゃねえか、とイーサンが呟く。
「そうよ、私は偉い家のお嬢様なのよ!驚いた……?たくさんの召使いがいて、毎日豪華なドレスを来て、そして王子様のお妃様になれるかもしれないんだわ!……こことは、全然違う………!」
本当にそうだ、この開けてあたたかい人たちのいる場所とは全然違う。全てが完璧に整っていて、作り物みたいだ。
あの中にいると私の世界はいつだって閉ざされていて、私はいつも特別な存在でいられる。
実際はお勉強しかできないただの娘だってことにも気付かされず、美しい籠の中で微笑んでいた。
「それで?1人でこの国を出るって選択肢を持たねえ奴はどうすりゃいいんだよ」
…ああ、それを私は彼に言って欲しかったんだ。
そもそも私が見つかることを甘んじて受け入れたのは自分の評判を下げて家への迷惑を軽減して………彼に攫ってもらうことだったのに。
1人で逃げて、なんて偽善ぶって取り繕うなんて馬鹿みたい。
だって彼の気持ちを信じつつも無駄に臆病で貴族としての誇りのようなものをもつ私は、彼に「愛してる」のひと言も伝えていないのだから。
「言えよ、公爵家のお嬢様。俺ァ学が無いから命令してくれなきゃ分かんねえ」
イーサンの鋭い瞳が私を射抜く。
くらりとした。
「私の家はあの屋敷。咎められて閉じ込められたとしても、隙を見て転移で抜け出すわ。」
立ち上がって、ここからでも見える公爵邸の屋根を指さす。お城の隣にある大きな屋敷。
「………っだから!」
大きく息を吸って彼の手を取る。
「だから、私をこの国から連れ出して」
彼は口の端をつり上げて悪い顔で笑った。
…最高にかっこいい。
「仰せのままに、お姫様」