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あまのじゃくの恋  作者: 立川マナ
第十章
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第百十七話 印貴

「大丈夫……?」


 ふと、瀬良さんの視線を感じて、俺は「いや」と思わず逃げるように顔をそっぽに向けていた。


「なんか……吐きそう」

「え!? 吐きそうなの!?」

「いや……ごめん、違くて……。俺なんかを好きなわけない、てずっと思ってたから……驚いたって言うか……」


 なんて言ったらいいんだろう。今にも溢れ出しそうな、この沸き起こる気持ちは……。

 困り果てて、頭から湯気でも出そうだった。参ったな、どうしよう……こんなに照れくさくなったの、初めてで。今すぐに、ベッドの下に隠れたいくらいだ。

 俺なんかを――て、そんな考えはいくら払拭しようとしても、捨て去ったつもりでも、深層心理にはずっと残ってたんだ。べったりとこびりついた汚れみたいに……。だからこそ、俺と付き合ってることを瀬良さんが隠している、と知ったときも、やっぱり、と納得してしまった。だから、落胆もした。

 でも、違ったんだ。最初からずっと、噂を気にしていたのは、俺のほうで……瀬良さんは最初からこんなにも堂々と俺を好きでいてくれたんだ。それが……こんなにも嬉しいなんて――。


「初めて会ったとき」隣ですうっと息を吸う音がして、おもむろに瀬良さんは切り出した。「駅に行くまでの間、世間話とかこの街のこと、熱心に話してくれたよね。私、トキオちゃん以外の男の子と話すのも久しぶりだったから、何話したらいいかも分からなくて、頷くことしかできなくて……それでも、永作くん、一生懸命、話しかけてくれて、嬉しかったんだ」


 もぞっと隣で動く気配がして、瀬良さんはするりと俺の手を離して立ち上がった。


「駅に着いて名前を言ったら、女神みたいな名前だな、て言われて、びっくりしちゃって……名前も聞く暇もなく、永作くん、いなくなっちゃって。その夜はね、一晩中、永作くんのこと考えてたんだ。また逢いたい……て思ってた。そしたら、次の日、家の前で出くわすんだもん。しかもお隣さんで、ずっと君のこと考えてて寝れなかった、なんて言われたら――好きになっちゃうよ」


 声がすぐそばからして……振り返れば、瀬良さんが目線を合わせるように身を屈めてそこにいた。


「永作くんのそんな顔、初めて見た」


 するりと伸びてきた瀬良さんの手が俺の頰にぴたりと当たった。

 滑らかなその手の感触は、気持ちがいいほどひんやりと冷たく感じて――そのときになって、自分の顔がものすごい熱いことに気づいた。


「永作くんの言ってた意味、分かっちゃった。――もっと、いろんな顔見たくなっちゃう」


 ふっと笑みを浮かべる唇は、ぞくりとするほど艶かしく、そこから溢れる声は夜陰に溶け込むようにしっとりと色っぽくて……まるで瀬良さんじゃないみたいだった。

 思わず、息を呑んだ。

 すぐ目の前にある《《その景色》》に、何度見ようと見慣れることはないんだろう、と思った。

 その瞳は暗闇の中でも煌々と輝く星のように瞬いて、その神秘的な輝きに飲み込まれそうになる。純朴そうな少し太めの下がり眉は、聡明そうな顔立ちに愛らしさを添え、長い黒髪は窓から差し込む淡い光を受けて艶やかに輝いていた。清廉潔白で純粋無垢な――まるで理想の天使の姿をそこに描き出したよう。そんな彼女が、じっと熱っぽく何かを求めるように俺を見つめていた。ワンピースのゆるんだ胸元からは、真っ白な肌に落ちる谷間の影が見えて、何かが今にも暴れだしそうな騒めきを胸の奥に感じた。

 心臓が膨らんでいくみたいだった。激しく波打つその音が――その振動がはっきりと伝わってきて、体まで震えるようだ。熱く滾るような血が流れていくのを指先まで感じる。体中に熱がこもって苦しいほどで、逃げ場を求めるように手が動いていた。

 目の前にある、その雪のような白い肌に触れたくて……。


「――印貴」


 さらりと細い髪が指の間をすり抜ける。手を伸ばし、触れた首筋はか細くて、華奢で、恐いほどだった。それでも……頰をかすめる俺の手を、くすぐったそうにしながらも受け入れた印貴が、あまりに愛おしくて……もう我慢できなかった。

 思わず、身を乗り出して合わせた唇は、花びらのように《《やわ》》で、果実のように瑞々しくて――ほんの少しでも力を込めたら今にも壊してしまいそうな……そんな感触がした。

 ふわりとそれが触れた瞬間、味わったことのない高揚感が押し寄せて、今にもその快感に溺れそうになった。もっと味わいたくなる。もっと彼女を感じたいという欲望が込み上げてくる。衝動のままに、彼女の全てを奪いたい――とそんな独占欲に呑まれそうになった。

 愛おしいという想いと、無性に壊したいという衝動が鳩尾の奥で渦巻いているのを感じる。そんな葛藤に戸惑いながらも、お互い、何かを試し合うように何度も唇を重ね合わせ、ふいに、「ん……」と苦しげな彼女の声が聞こえて、ぞわっと全身が粟立つのを感じた。

 脳天に電流でも駆け抜けていったかのようだった。

 俺は目が覚めたようにハッとして、とっさに印貴の肩を掴んで引き離していた。


「どうか……した?」


 印貴は微睡むようにとろんとした目で俺を見つめて、おずおずとそう訊ねてきた。

 掴んだか細い肩からはすっかり力が抜けて、警戒心のかけらもなく、きっと今なら……なんでもできてしまうだろう、と思えた。

 このまま、さっきの続きもやろうと思えばできてしまう。そう確信できるくらい、いとも簡単に押し倒せてしまえそうなその華奢で無防備な身体が――その身をすっかり俺に委ねてしまっている印貴の信頼が、恐くなるほどで……。

 危なかった、と思った。

 身体の中にこもった熱を全て吐き出すように、大きく息を吐き、俺はすっかりゆるみきった表情筋に鞭を打ち、できうる限りの笑みを浮かべた。


「ちんすこう、食べたいかな……て」

「ち……ちんすこう?」


 動揺もあらわに、印貴は上ずった声で聞き返してきた。当然のことながら、心底不思議そうにしばらくぽかんとしてから、「今?」と小首を傾げる。


「今……がいいかと思います」


 そう答えると、印貴は戸惑いながらも、乱れたワンピースの襟を整えつつ身を起こした。観察するように俺を見下ろして……そして、諦めたように苦笑した。


「じゃあ、せっかくだから……お姉ちゃんとトキオちゃんと下でお茶でもしようか。お姉ちゃんもお菓子買ってたみたいだし」

「あ……ああ、そうだね」


 我妻さんもか……と、ちょっと躊躇ってしまう。


「大丈夫だよ」あからさまに俺の顔が引きつっていたのか、印貴はおもしろがるようにクスクス笑った。「トキオちゃんも何度か会えば慣れるから」

「慣れるって……人間に使う言葉だっけ?」

「ただ、発言には気をつけたほうがいいかも。本当に一語一句きっちり覚えちゃうんだから。お姉ちゃんもよく怒ってるんだ。ベッドで言ったことをいつまでも持ち出すな――って。お姉ちゃん、恥ずかしい寝言でも言ってるのかな」


 ふふっと漏らす印貴の笑みのなんと清らかなこと。俺もふふっと笑ってみる。深いことは考えるまい。印貴が寝言と言うなら、それは寝言だ。間違いなく、寝言だ。


「ありがとう」


 部屋から出ようかというとき、印貴はふいにそう言った。

 藪から棒で、「え」と俺は惚けてしまった。


「なにが……?」

「さっき」と印貴は扉を前に、俺に背を向けたまま答えた。「止めてくれて……」

「あ……ああ……」

 

 意識しないように、と考えないようにしていたのに……さっきのことを思い出すと、かあっとまた顔が熱くなってくる。


「焦る必要ない……んだもんね。――圭くん」


 つぶやくようにそう言ってから、印貴は振り返って微笑んだ。さらりと黒髪が揺れ、それだけで、ふわりと春風の香りがするようだった。その涼やかな笑みは、春の日差しのように朗らかで眩しくて、また見惚れてしまう。ずっとここにいたいと思ってしまう。君の隣で、ずっとその笑顔を見ていたい――と、それが恋だと自覚するより前から、そう思い続けてたんだ。


「ね」と印貴は両手でぐっと拳を握り、照れ隠しのような無理した笑顔で言った。「私たちも夏休みも、まだ始まったばかりだし!」

「その言い方は、不吉だからやめようか!?」

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