オージェの待ち合わせ 前編
幹のように太い河を流れる水の音。夏のせせらぎを醸し出す大河の名はナイル。毎年氾濫を起こし、栄養豊かな泥を各地に行き渡らす。現地の住民はそれを「ナイルの恵み」と呼んで崇め称えた。そのような自然現象を基盤に成り立つ農業国家エジプト。もっとも当のエジプトは農業よりも商業国家として有名だったが。
商業国家としてエジプトが有名な理由は単純。それが紅海と地中海を繋ぐ中継地点だからである。また、アフリカ北部と中東の中間地点でもあるエジプトは、やはり商業拠点として賑わっているのであった。
無論の如く、一大商業拠点であるエジプトには様々な人種、そして商品の坩堝であった。北アフリカからは黄金と塩。中東からは香辛料、絹、絨毯、亜麻布、穀物、銀、馬など。交易商人や海上商人が集い、富を求めて商取引を行う。当然、商取引の場となっているエジプトには税金が入るわけで、かの国はとてつもなく潤っていた。
はてさて、無数の人が群がるエジプトのカイロ。イスラム系君主の支配する都市ではあったが、イスラムは寛容を是とする宗教。異教徒であろうが異国人であろうが、曰く付きでない限り出入りも生活も、何もかもが自由であった。
どんな思想も受け入れられ、どんな出自でも見逃され、例え異形であろうとも黙認される。カイロはそんな大都市であった。
であるならば、彼らの存在が衆目に曝されず、群衆の中に埋もれようとも不思議ではなかったのだ。
「我が主よ。異国の町とはいえ、我らが目立たぬとは些か問題なのでは?」
「そうでもないさ。いたずらに関心を集めるよりはマシだと思うよ」
カイロを奔る大河ナイルに架けられた一本の橋。両端に二頭の獅子を象る彫像が並び立つ石造りの橋。往来の人々がすし詰めに近い状態で行き交う橋の上には不自然に避けられてできた空白地があった。
その空白地のど真ん中に陣取るのは一つの巨大な影と、その上に跨る比較的小さい影。その巨大な影を作っているのは本来両腕のあるべき位置から二枚の翼を生やし、黒色の光沢浮かぶ鱗を見せつける竜。蝙蝠のように腕と一体化した翼を持ち、二本足で直立する竜。人はそのような竜をワイバーンと呼ぶ。
さて、その上に跨っているのは人であった。風になびくポニーテールの黒い長髪に、精悍な顔立ち、鷲鼻を自慢するかのように掲げる人物は、鎖帷子を下に着込んだ上に、プレートアーマーを着込むという重装備だった。更に、彼は威圧感甚だしい鎧姿を申し訳程度、隠すかのように淡い緑色のマントを羽織る。その腰に下げられている剣も見逃してはいけない。シンプルだが黄金で形作られた柄。それだけみても非常に高価なものであることが窺える。
そんな物を用意できるのだ。大方、貴族なのであろう。実際、背筋をピンと伸ばし、凛然と佇む男は、どこか高貴な雰囲気を醸し出していた。
物々しい様子の彼ら。人目の多い橋の上で、図体の大きいワイバーン一頭と武装した貴族が目立っていないのはかなり異常であった。
彼らの横を通り過ぎていく彩り豊かな人々はチラチラと、一人と一頭の方を見るのだが「まあ、いいや」とばかりに視線を外して、そのまま行ってしまうのである。ワイバーンは皆さんご存知の通り肉食で凶暴なのだが、歩行者たちは微塵の脅威も感じていない。むしろ見世物だと思って、駄賃を放っていく人間の方が多かった。
「ふむ。我らは見世物だと思われているようだな、我が主よ。ここは一つ、芸でも見せてやるか?」
「その必要はない。俺からしてみればはした金さ。既にこれ以上ないほどの金持ちなのにそれ以上を求めてどうする?」
このワイバーン、口をぴくりとも動かさず、まるで腹話術のようにすらすらと流暢な会話をする。人外が人の言葉を解し、喋っているのだ。普通なら驚くところだが、この街では非人間が喋り出すのは日常茶飯事の出来事。みんなスルーして、その場を去る。
「ふむ。我は竜種の端くれ。富を収集するのは性なのでな。少し気になっただけだ」
「そう言いつつ、器用に手で地べたの硬貨を集めては、腹の中に貯め込むんだな。さすがベフロール。金にがめつい」
ベフロールと呼ばれたワイバーン。それの主人である黒髪鷲鼻の男は、自身の乗騎が地面に投げ捨てられた金を集めては口内に放り込むのを見て、天を仰いだ。
竜とは鴉のように光るものや、綺麗なもの、芸術作品などを貯め込む習性がある。おとぎ話でよく、四つ足のドラゴンが財宝を収集してねぐらに保管している描写があるだろう。あれと同じで、ベフロールは宝物と断じた物を集めずにはいられないのだ。
それは、品行方正かつ、清貧を重んじる主人の男からしてみれば、苦々しい光景。しかし、他人のことである。内心快く思っていなくても心地よく、笑って許す。ベフロールの主人はそんな男だった。
「金は持っておいて損はない。我が主も相続した財産はとっておいているのだろう?」
「ダンスク家の財産は長子である俺に相続されたが、一族の者が使うかもしれないからな。処分できないのさ」
男は内心、「本当は全部、騎士修道会とかに寄付したいんだけどな」とか思っていたが、口には出さなかった。それを言ったらダンスク家の人間にまた、こってりと説教される。それは嫌だ、と男は強い拒否感を感じていた。
誰だって無為に同じことを延々と何時間も繰り返し聞かされるのは御免だ。そんなの男には耐えられない。そう経験者は思う。
「して、我が主よ。待ち人はまだなのか?」
「分からん。場所を指定されただけだ。来るまで待つしかない」
待ちくたびれたとばかりに唸ったベフロールに通行人の注目が集まる。と、同時に投げられる硬貨の数々。やはりエジプトの民はワイバーンとその主人を見世物程度にしか思っていない。危機感がないというか、そういうのには慣れてしまっているというのか。
ギラギラと照り付ける太陽と、うっすらと姿を現している月の下で、和気あいあいに人々は歩き続ける。
そんな情景を見て、男は故郷に思いを馳せた。北の凍えるような大地。黒い大森林。狼の群れ。羊飼い。雪に囲まれて、点々と並び立つ集落。はるか南の地で、少しばかり、男は故国が恋しくなった。
「おお、これはこれは。オージェ殿ではないか。こんなところで出会うとは奇遇ですな」
不意に、男に声をかける者があった。男の名は、確かにオージェである。その名を呼んだのは…… 振り向いて、ベフロールの上のオージェは懐かしい人物の姿を見つけた。
「そういうお前はユオンじゃないか。どうしてこんなところに?」
一陣の風が吹き、オージェのポニーテールが揺れる。思いがけない遭遇にオージェは目を瞬いた。
ユオンというらしい人間はこれまた男であった。商人のような軽装で薄着な恰好をした彼は、頭にターバンを巻いている。かなり日焼けした様子のユオンが肩からぶら下げるのは袈裟で、腰には曲刀を下げる。半袖な彼の上腕は太く、獅子の腕のように雄々しかった。かなり鍛えていることが一目でわかる。
「ユオン殿か。我が主よ。彼が我らの待ち人か?」
「いや。ユオンは違う。たまたま会っただけだ。だからこうして驚いているのさ」
少しばかりおどけた様子のオージェはベフロールの背から滑り降りて、ユオンと固い握手を交わした。二人は、どうやら旧知の中であるようで、とても親しげな様子だ。
「元気だったか、ユオン?」
「もちろんだ。これ以上ないほど調子がいい。やはり活気のある街とはいいものです」
うんうんとばかりに頷くユオンを見て、オージェは破顔した。ベフロールも首をユオンの方へ向け、軽く会釈する。小器用なワイバーンはひょいと橋の手すりに乗っかって翼を折り曲げ、事態を静観する構えだ。
「どうしてここにきたんだ?」
「吾輩はとある命をさる御仁から承りましてな。それのための準備に、カイロへ」
ターバンを照れくさそうに弄るユオンは笑顔で答えた。そして、彼は今度はこっちの番だ、とばかりに問いを投げかける。
「して、そちらは何用で?」
「待ち合わせさ。旅行中のところをオリヴィエの奴に呼び出された。『橋の上で待て』と言付けされている」
オージェは顎に手をやり、考え事に耽る素振りを見せる。
「しかし、これだけ待っていてもオリヴィエはやってこない。」
「ふむ。オリヴィエ殿は約束事を放置するような性格ではない。ならば、待ち続けていればいい。いずれ。こちらにやってくるはずです」
「日が出る前から待っているんだがなぁ」
そう愚痴をこぼすオージェ。その後ろ、ナイル川の向こうで、大きな水しぶきが上がった。それにいち早く勘付いたベフロールは目を凝らし、鼻を利かせる。
「我が主よ。厄介ごとの種が舞い込んできたぞ。このむせるような匂い…… 間違いなく、奴だ」
「奴? まさか!?」
手すりから身を乗り出して地平線の向こうを見つめるオージェ。ユオンもそれに続く。周囲の群衆も「なんだなんだ?」と同様に視線を動かす。
再びしぶきが上がった。
今度はしぶきと同時に何かが水中から飛び出してきた。肉眼では認識できない。しかし、唯一、人外であるベフロールだけははっきりと視認した。
絡み合っている人と人。二つの影が瞬時に交錯し、火花が飛び散る。一方の影は小柄。それは褐色の刀身を日光に煌めかせて、剣を振るう。もう一方は小柄な影の三倍はある身長を誇る巨人。それはボロボロの腰巻以外は真っ裸の全裸。その身体は微かな淡い光に覆われ、輝いている。そして、何よりも驚くべきことに、巨人は素手で鋼鉄の剣を受け止めていた。にわかには信じがたい光景だ。鋭利な刀身を生身で受け止めれば大けがを負うのは当たり前。だが、その当たり前は目の前の巨人によって覆されている。ぶつかり合う剣と腕。押し返されて、弾かれているのは剣の方だった。
「間違いないようだ、我が主。非常に残念なことに奴が来た」
「…… 狂えるオルランド!」
オージェが叫び、ユオンは曲刀に手を掛ける。ベフロールは鎌首をもたげてオージェに自分の背中に乗るよう促す。無言でベフロールに応じて、その背に跨ったオージェは、何が起こっているのか分からず雑然と動揺している民衆に告げた。
「この橋から離れろ!」
単純明快なその指示に人々は従おうかどうか迷い、戸惑う。もたもたしている彼らに向かって再度、何かを言おうとしたオージェ。その前に彼の乗騎が咆哮する。
「GUOHHHHHHHH!!」
獣じみた怒声。正に野性の解放。理性のタガが外れて、暴走でもしたかのように猛り狂うベフロールを見て、ようやく人々は悲鳴を上げて右往左往し始めた。
「これからどうする、オージェ殿!」
ユオンが曲刀をすらりと引き抜いて欄干に手を掛ける。
「分からない。分からないけど、あの二人、止めるしかないだろう?」
眉を上げてウィンクしたオージェはベフロールに「やあッ!」と拍車を掛けて、橋の上から飛び立った。
続く。