哀れな物語
あまりにも青く晴れ渡りすぎていてむしろあまり綺麗に見えない空の下を僕は歩いていた。
常に軽い目眩を感じ、足取りもおぼつかない。既に秋だというのに異常なほどの量の汗が僕の額に浮き出ているが、それを拭く気も起きないほど気分は最悪だ。
一滴の汗が僕の目に入った。僕は瞬きを立て続けに数回して、額に滲んでいる妙にあぶらっぽい、嫌な感じの汗を手の甲で拭った。
それから二分ほど歩き続け、立ち止まってから膝に手を置いて溜息を一つ吐く。そして左にそびえる大きな屋敷を睨む。そこが目的地だった。
そこを目にして僕が思い描くのは15年前の、多分今日と同じ日付の日の懐かしさを感じさせるセピア色の一時。
僕の近所に住んでいた幼馴染は言った。
「大きくなったらけっこんしましょうね」
それを聞いた僕も言った。
「なら、今からぼくたちはコイビトですね」
そして僕は言われた。
「いいえ。そんないちじのきのまよい?のようななふあんていなキモチじゃこの先どうなるかわからないじゃないですか」
彼女は続けて言った。
「ですので、毎年のきょうにあなたがあたしにコクハクする。それがつづいてて、あなたがどこかにシューショクできたならけっこんしましょう」
それまではちゅーもなしですよ。と彼女は笑って言った。
想像終わり。 ……この話を思い出すたびに思うのだけれど、子供を通り越してガキなどと呼ばれてもおかしくないような歳の癖にしっかりしすぎだろう。いや、いいことだけれども。
今更だが、この話は実は嘘で、本当は少し大きくなってから思い出話に花を咲かせていたときに、彼女が事実を少々改変して僕に伝えたのではなかろうか。いや、覚えてない僕が悪いのだけれども。
そんなことを思いながら、僕は屋敷の呼び鈴を鳴らした。その音がやけに大きく聞こえて、僕の体は一瞬硬直し、胸が太鼓かと思うほど大きな、しかし僕にだけしか聞こえない音を一度だけたてる。全く、今後のためにこの胸の太鼓をとってしまいたいよ。
呼び鈴を鳴らして数秒後に扉は開いた。柔らかい笑顔を浮かべた妙齢の婦人、僕の幼馴染が立っていた。
「お久しぶりです」
僕は早鐘を打つ胸の音を耳に入れながら、不器用ながらにも笑顔を取り繕おうとする。だが、うまく笑顔を作れている自信は微塵にもなかった。脚は笑っていて、奥歯も小さくカチカチと音を立てている。
こんな僕の状態に気付いているのか、いないのか、彼女は微笑みながらいつもの言葉を言った。
「お久しぶり。どうぞ、上がって下さいな」
そして、僕はそのいつも通りを粉々にするような言葉を吐いた。
「いえ」
思いがけないだろう返答に、彼女は怪訝な顔を僕に向ける。
「お別れを、言いに来たのです」
僕が喉から振り絞るようにして出した音は、掠れた声にしかならなかった。
目眩はいっそうひどくなり、それでも僕はいつも通りを貫こうと、ぐるぐるする視界のなか、必死に地面の感触を靴越しに捉えようとする。
僕はなんとか体を直立の体勢に保ったまま、視界が揺れる中、彼女らしき影の方へと体を向け、伝えなければならない言葉を紡いだ。
「愛してる。だけど、さようなら」
ドアノブで体を支えながら外に出て、呆然とそこに立ち尽くす幼馴染の姿を目に焼き付けようとした。ゆっくりと扉を閉める。
僕の目は最後までポンコツだった。
屋敷に背を向けて、門をくぐり、出る。
「……ぁあ…………あああ……ああぁぁぁあぁぁあぁあっ!」
彼女の慟哭が響き渡る。
僕の喉からヒューヒューと擦れた音が鳴る。喉と目の奥が焼かれるように痛かった。 門を出て、数歩歩いてすぐ、僕は崩れるように地面に倒れこんだ。体は自分のものではないかのように、自分の言う通りに働かなかった。
地面に転がる小石が僕の膝に食い込んだ。
ポケットを探って、一枚の桃色の紙を取り出す。この薄っぺらい紙が堪らなく憎かった。
――――言えなかった。
涙が一筋、頬を伝う。後ろでは幼馴染の慟哭が響いていた。
――――赤紙が来たなんて、言えなかったっ!
右手を思い切り握り締める。赤紙がクシャと音を立てて潰れた。こんな風に僕も消えるのだろうかと、悔しかった。
――――神様は、何故これほどまでに残酷なのだろうか。
1945年8月12日、日本がポツダム宣言を受諾する三日前。赤紙をもらった少年は、それを片手に、少年の幼馴染の家の前で、弱音を噛み殺して、ただただ無駄に涙を流していた。
――――さようなら、愛しい人。