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あり得ない記憶

作者: 加賀美よしのり

 幼い頃の記憶のなかに、現実には絶対にあり得ないのにリアルな記憶として残るものはないだろうか?

それは本当に夢だったのか?それとも・・・

三十歳の時、小学校の同窓会が十年ぶりに催された。

去年に交通事故で亡くなった同窓生のことが話題になった時、私が何の気なしに

「うちのクラスで亡くなったのは彼が初めてだよね?」

と言うと、隣にいた片山は言った。

「卒業してからはね。でも六年生の時に死んだ関根が最初だよ。」

私は驚いた。

「ええっ、関根って死んだの?」

すると片山はもっと驚いた顔をして言った。

「お前、冗談で言ってるのか?六年の時の夏休みに川遊びをして死んだじゃないか!!」

「ええっ?」

私は今まで、関根の死を知らなかったのだ。こんなことがあるのか?

小学校六年生の夏休み・・

実は、私は六年生の時にある難病を患って、六月から十月まで、ずっと長期欠席していた。元々病弱で十日以上連続して休むことが年に一度はあったが、特にこの年は六月末から入退院を繰り返し、十月初旬に復帰した私は、関根が亡くなったことを聞いていなかったのだ。

親たちは私の学友の死を聞いていたかもしれないが、病床の身にある子供に伝えるのをためらったのかもしれない。十月に私が登校し始めた時は、七月の関根の死も話題にもならなくなっていたのだ。

そしてそのまま卒業し、関根がいないことに気付かないで今日まで過ごしたことになる。


 関根についての最後の記憶は、いつのものだろうか?

家に帰って記憶をたどると、あることを思い出し、全身に戦慄が走った。

夏休みに亡くなったはずの関根との最後の記憶、それはなんと、十月の修学旅行だ。

修学旅行は日光に行くのが定例だったが、有名な東照宮の一角にある徳川家康の墓を見ている時だった。

その墓は石の階段の上に銅製の扉があって、墓標が全く見えない。しかも、階段の登り口は柵が建てられていて、参拝者を堅く拒絶しているようだった。

その場にいた岡本という同級生が

「これじゃあ普通の人は墓参りで線香あげられないね。墓石だって見えない。」

と言ったので、私は答えて言った。

「この階段の下から拝めば、墓参りしたことになるんじゃない?」

すると、そこにいた関根が、私にこう言ったのだ。

「墓石が見えないところから拝んで墓参りになるんだったら、自分の家から拝んでも墓参りしたことになっちゃうよ。それはおかしい。やっぱり墓参りって、死んだ人にとってはお墓のそばまで来てほしいんじゃない?」

私はその時、関根の考えに至極納得したので、よく覚えている。さらに関根は、徳川家康の墓が静岡にもあることを自慢気に話した。関根の母親の実家が静岡にあって、祖母の家に毎年行って静岡の家康の墓を何度も参拝していることを関根は何度も話している。それを私ははっきり覚えている。

だが、修学旅行は十月。関根が夏休みに死んだなら、この修学旅行の記憶は何なのか?

 私は押入れから小学校時代のアルバムを探した。修学旅行以降から卒業までの写真の中に、関根はどこにも写っていない。全員の集合写真の中にもいない。

では、あの思い出は夢か? 日光は修学旅行で初めて行った所だし、家康の墓もその姿形をはっきり覚えている。どう考えても絶対に夢ではない。明確にリアルな記憶だ。

だがこんなことを誰にも話せない。信じてもらえるはずがないではないか。

あの時一緒にいた岡本に後日聞いてみた。

あのとき関根がいたとは言わず、

「こう言ったのは、誰だったっけ?」

という利き方で尋ねたが、墓を見学したのは覚えているけどその会話は「覚えていない」そうだ。


 私は病気療養から復帰して卒業まで五か月も、関根がいないことを気づきもしないまま過ごした。ひょっとしたらその後も学校で関根の姿を何度か見ていたのだろうか?私の目に、関根はいつもの教室や校庭でいつも通り授業を受け、遊び、そして通学路を歩いていたのか?

 

 私の小学校では、卒業すると第一か第二、二つの中学校に分かれて進学する。私と違って関根は第二中学校区だから、中学に入って関根がいなくても不自然とは感じない。関根は遠い昔の友達として記憶の彼方に薄れて行った。

 私は霊とか超常現象など信じないし「霊感がある」と言われたこともないし、他に不可解な体験もない。

だがこの不思議な体験は説明がつかない。関根に限らず、私が今まですれ違った無数の見知らぬ人々の中にも、本当はいるはずのない人が何人もいたのではないかとさえ思えてしまうのだ。

 

 私はあの不思議な体験の中で言った関根の「墓石が見えるところでないと墓参りしたことにならない」という言葉が気になり、彼の墓参りをした。

墓石の横には彼の命日が彫られている。それは確かに六年生の時の夏休み、七月末だった。

 ふと心の中に、関根の個性や雰囲気がリアルに思い出された。いつも冷静で人が良くひょうきんだったあの関根は、今ようやく、同級生の最後の一人に別れを告げて旅立ったような気がした。

死は消滅であり、天国も地獄も輪廻転生もないと思う。

敢えて言えば、亡くなった人を知る人たちの記憶の中にのみ生きている。

でも記憶とは、けして確かなものではない。

会いたいのに今は亡き懐かしい人を思い出す時、記憶は輝いて蘇る。

その輝きが記憶を粉飾することも、あるのかもしれない。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 文章が丁寧なことと、内容も簡潔で読みやすかったです。 最後の一文も素敵です。“別れを告げて旅立ったような気がした”‥物語の締めくくりにぴったりで、心地の良い読後感を味わうことができました。…
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