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3.歪み



「アン、見て見て!これ、おっもしろかったんだよー♪」


 興味無い。


「昨日彼女と喧嘩した……俺、どうすれば良いんだ……」


 どうでもいい。


「アン、アン、今度一緒に新しくできたカフェいこ?」


 面倒くさい。


「さっきの授業のあの問題が分からないんだけどさ、教えてくんね?」


 自分で考えなさいよ。




 いつからだろう。


 偽ることが、当たり前になったのは。

 世界が嫌いなものばかりになったのは。




*




「アン、帰ろう」


 背後から名前を呼ばれ、肩が震えそうになった。

 慌てて照れ臭そうな笑みを浮かべ、振り返る。


「そっか。試験前だから、部活お休みなんだ」


 試験一週間前。

 妙な緊張と興奮を孕んだ教室内は、帰りのホームルームが終わって時間が経っているというのに、ちらほらと生徒が残っていた。


 クラスメイトと席を囲んで話をしていたら、やって来た迎え。

 ごめんね、帰るね。そう告げれば、冷やかしの言葉が飛んでくる。大事にされているね、そんなことないよ、なんて表面をなぞるような応酬を済ませ、鞄を背負い席を立った。


「それじゃあまた明日ね」


 軽く手を振り、迎えにやって来た恋人の元へと歩み寄る。そして、隣に並びゆっくりと歩き出した。


 ふと窓の外に目をやり、雲の形を見て溜息を吐く。

 変な気分だった。

 誰かと話せば、爆発してしまうような、そんな。


 こういう時は綻びが見えぬよう、決まって無口になった。

 それを承知している恋人は、ただ穏やかな表情でアンに歩幅を合わせて歩いている。

 慣れた沈黙が、お互いの間に落ちた。下駄箱から出た時に委員会の先輩と出会い、少しの笑顔で挨拶をする。


 手を繋ぐ訳でもなく、言葉を交わす訳でもなく、ただ歩き続けた。

 この高校は最寄りの駅から十分ほど歩いた所にあるから、意外と距離は長い。

 ずっと黙ったままでいるのも不味いかな。そう思うけれど、話したいことなど無い。


 結局一声も出さぬまま裏道に入ったところで、恋人がようやく口を開いた。


「何か嫌なことがあった?」

「なんで?」

「いつもより機嫌が悪いでしょ」


 アンは特にいつもと振る舞いを違えていない。

 それなりに長く時間を共有していれば、自然と分かってしまうようになるのだろうか。


「明後日でさ、半年だよね」

「つきあい始めて?」

「うん、そう。意外と早く過ぎるものだね」

「そうだね」


 誰も居ない裏道。

 すぐ横にある古い家の庭には、斑模様の猫が居る。


「ねぇ」

「アンはさ、俺のこと好きになってくれないね」

「え?」

「俺はまだ、アンの恋愛対象にならないね」


 予想外の言葉に、ぼんやりしたまま恋人の方を向いた。

 気付かぬ間に相手は立ち止まっていて、少し後ろを向く形になる。橙に染まる、その姿。


「俺はこんなに好きなのに」


 寂しそうな笑顔。

 静かにそれは近づいてきて、唇が唇に軽く触れた。

 本当に、触れたか触れないかの距離。


 頭の処理が追いつかず立ち尽くしていると、恋人はそのまま横を通り抜けた。

 三秒後、我に返ったアンは慌ててその後ろ姿を追う。



 ごめんなさい。

 貴方はこんなに優しいのにね。


 私は何とも思わないの。




*




「あ」

「あ……」


 どうしても恋人と一緒に帰るのが嫌で、けれど教室で誰かと一緒に居るのも嫌で、仕方なしに屋上へやって来た。けれど、先客が一人。


「……メイ、どうしたの?こんな所で」

「アンこそ。あいつと一緒に帰らなくて良いの?さっき廊下ですれ違ったよ、アンのこと探してた」

「今日はちょっと、ね」


 苦笑して言葉を濁せば、ふぅん、と返事があった。

 カシャリ。金網の音が響く。落日を睨み付けるように見つめている少女の頬はどうしようもなく潔癖で、あぁ傷付けてやりたい、と思わずにはいられない。


「……ねぇ」


 何の話をしようか。

 効果的に、この子が自分をさいなむような話をしなくてはいけない。


「ん?」


 声をかければ、視線を合わせる為にメイはこちらを振り向いた。


「半年で初めてキスするのって、遅いの、かな……?」


 きっと夕日が頬を赤く染め上げてくれているだろう。チークも軽くはたいているから、大丈夫。

 指先を口元に置き、あのね、と。話しはじめる。


「今までね、ずっと手を繋いで帰るだけだったんだけど、昨日初めて……」

「あらら、その話、わたしが聞いて大丈夫?」


 こちらを気遣うように曖昧な笑顔を浮かべたメイに、アンは照れ笑いを深め、頷いて見せた。


「そういうことに、早いも遅いも無いんじゃない?あいつはアンのこと、大事にしてるなーって思うよ」

「そうかな?」

「うん!そうそう!」

「そっか。ありがとう、メイ」

「いいえー!」


 視線を外したメイは、再び落日に目を向けた。


 その横顔を眺めながら、あぁ、言ってやりたい、と思う。

 彼氏いないものね。先を越されて悔しいでしょう。焦るでしょう。


 こちらの意図に気づいていない筈なのに、メイは頬を橙に染めながら、少し切なげに呟いた。


「わたしもいつか、誰かと両想いになれるかなぁ」


 そう。あなたのそういう顔が見たかったの。

 いつだって愚直に進むあなたの、苦しそうな顔が。


「メイならすぐに彼氏ができると思うなぁ」


 いつまでも、恋人なんてできなければいいのに。声に出した言葉とは裏腹のことを思う。

 そうかな?とメイが苦笑するから、そうだよ、と頷きながら話を続けた。


「そういえば、この前誰かに告られたんじゃなかったっけ?彼氏が欲しいなら、オッケーしちゃえば良かったのに。勿体ないなぁ」


 それを聞いた少女の笑みが、途端に静かなものになった。

 金網を通り抜けた風が、ばさばさと制服のスカートをさらおうとする。髪もだ。

 橙が色を増す、夕暮れ時。屋上の床に延びる影は妙に暗く鮮明で、影送りをしたら綺麗に空へ写せるのではないか、と思った。


「好きじゃない相手と付き合うなんて、相手にも自分にも失礼じゃん。だから、告白してもらったからって簡単にオッケーはできないよ」


 夕日に照らされた頬の、嫌気が差す程の潔癖さ。あぁ、いらいらする。


「それに、さ。初めてのキスは、好きな人としたいよ」


 子どもっぽい憧れだけど、と照れたように付け足した横顔は、けれど恥じらいが一切無かった。遠くを見つめる黒い瞳に光が入る。その様を直視することが出来ず、思わず視線を逸らした。



 吐き気がする。

 あぁ、嫌い。嫌い。大嫌い。


 くしゃくしゃに破り捨ててしまいたい、その真っ直ぐな心根。

 容赦なく踏み躙ってやりたい。跡を残して、そこには虚しさばかりが溢れるようにしてやりたい、と願う。


 嗜虐心が疼いた。駄目よ、と、止める良心なんて既に失くしている。

 ねぇ、いいよね?貴女が悪いのよ。


「好きな人って、ロウ君?」

「言ってなかったっけ?ロウに振られたの」

「……そう、なの?」

「うん。そうなるのは分かってたんだけどね」


 言わずにはいられなかったな、と。メイは悔いのない瞳で苦笑する。


「えー、なんで?お似合いなのになぁ」

「あいつ、好きな子いるから」


 そっぽを向いて言われた言葉に、思わず唇の端が上がった。

 知ってる。私のことでしょう。


「こんなに可愛い子を振るなんて、もったいない」


 けれど、そうやって慰める。

 ねぇ、私が貴女のことを可愛いと言う度に、貴女が自分を惨めに思っているのも知ってるわ。


「ロウ君、何考えてるんだろ……ちょっと話してこようかな」

「わたしとロウのことなんだから、必要ないよ」


 そうよね、止めるよね。

 それが私を煽っているって分からないの?


「でも……ねぇ、まだ教室居た?ちょっと行ってくる」

「アン、いいから。ね?」


 確認するような、請うような目で首を傾げる少女。

 もう少し距離が近ければ、腕を掴まれていたかもしれない。


「だって、メイもまだロウ君のこと好きなんでしょ?」

「そうだけど、でも、」

「だったら放っておけないよ。私いって」

「やめて!」


 語尾に被る、強い制止の言葉。

 切羽詰まったその響きに、心が満たされる。


「メイ?」

「……やめてよ、わたしのことだよ。アンには関係無い」

「でも、」

「いいから」


 こちらを見つめる少女の瞳が、涙を孕んで輝いた。

 風が吹く。まだ染めていないまっさらな黒髪が、踊るように揺れる。


「ねぇ、そんなことされたら、わたし惨めなだけだよ?」


 だからじゃない。


「あ……ごめん」

「……ううん、わたしもごめん。ちょっと頭冷やしてくる」


 手の甲で唇を押さえ、メイが校舎へ駆け込んでいく。

 その後姿を見送り、再び金網の外へ目をやった。



 今頃泣いているだろうか。

 本当はそっと隣に寄り添って、慰めて上げたかった。決して縋ってなど来ないだろう。だから甘やかすのだ。抱き締めながら、見下したい。


 大嫌い。それは、羨望の裏返しなのかもしれない。認めたくないから、知らん振りをしているけれど。

 好き。だから嫌い。大嫌い。その心をぐしゃぐしゃになるまで潰してやりたい。まるで幼い男の子が好きな女の子を追い掛けて苛めるような感情に、一人哂う。


「……恋してるみたい」

「誰に?」


 不意に後から声を掛けられ、びくりと肩が揺れた。

 知っている声だ。小さく息を吸い、心を落ち着ける。そしていつもの笑みを浮かべ、振り返った。


「ははっアンさん驚いてやんの。この前と逆な」

「ロウくん」

「よう、アンさん」


 こんなとこで何やってんの?と、無邪気に聞いてくる彼は、かっぱかっぱと上履きの踵を鳴らして近付いてきた。肩に掛けた鞄をおもむろに床へ落とす。元より色の黒い肌は、ここ数日の日差しに晒されて、更に濃くなったようだ。


「まだ帰ってなかったんだね。試験勉強は?」

「おれ一夜漬けタイプだから」

「一夜漬けであれだけ点数とれるんだから、ずるいなぁ」


 くすくすと小さく笑って返すと、そっか?と彼は首を傾げた。その仕草が少年のようで、黒い肌に馴染んでいる。


「で、誰に恋してるって?」


 けれど、逃してくれない。

 ひたと見つめてくるのは、妙に白さの浮き立つ瞳だ。秘密、と言えばおそらく彼は踏み込んでこないだろう。けれど不意に、思いつく。


 そろそろメイが戻ってくるかもしれない。


「聞きたい?」

「聞きたいよ」

「どうして?」

「どうしてだろうな」

「抱き締めてくれたら教えてあげる」

「………」

「いいじゃない。海外に行けば普通の挨拶よ?」


 ふわりと微笑みながら、両手を広げて見せた。

 ね、と促す。二歩分離れた距離を、一歩進む。


 一際強い風が吹いた。腰の所で折って短くしたスカートは、呆気ないほど簡単に浚われる。けれど、広げた腕を下げる気にはなれなかった。それをしてしまえば、彼はきっと手を伸ばしてこない。



 一歩。男が近付いた。ふと上履きを見ると、律儀に苗字が書いてある。

 もしかすると、友だちの誰かにふざけて書かれたのかもしれない。そんな崩れた文字だった。



 半そでのワイシャツから飛び出た長い腕。浅黒く焼けた皮膚からは、制汗スプレーの香りがする。つんと鼻にくるそれは決して恋人が選ぶものではなく、汗と混じって男の匂いがした。



 上から三つ目まで外したワイシャツのボタン。鎖骨が綺麗だと思う間も無く、もう半歩、接近されて見えなくなった。ワイシャツに透ける、その下のシャツの色。



 頭上から抱きすくめられた。心音が聞こえてきそうな距離に、けれど自分の脈が正常なままであることを哂う。



 広げていた腕を下ろした。抱き返さない方が良いだろう。

 一方的に抱き締められた、そんな風に見えればきっと。


 ね。


「……ロウ?」


 メイが目にした瞬間、きっと傷付くに違いない。



 屋上に戻ってきた少女は、呆けたように目の前の景色を見ていた。

 それは男も同じで、メイ、と静かに呟きながら胸の中にいる女を離し、一歩後ずさって少女を視界に捉えている。


「どうしてここに」


 男の囁きは、まるで浮気現場を恋人に見られた時のようだ。


「鞄、取りに来たの」


 そう答えた少女は、ごめーん邪魔しちゃったかなっ!と馬鹿みたいにな明るさで言い、小走りで目的のものを拾い上げる。


「わたし帰るからさ、じゃっまたね!」


 勢いで紡がれた別れの挨拶の最後の言葉、その響きが歪んでいた。

 再び校舎へと翻るかかとは、ばたばたと場違いに盛大な音をたてる。こちらに背中を向けた瞬間、きっと涙を零したに違いない。ひっくと啜り上げる瞬間の肩の震えを、アンは見逃していなかった。


 呆然と突っ立っていた男は、ようやく我に返って声を張り上げる。


「メイ待て!下駄箱にいろ、すぐ追っ掛けっから!」


 言うなり物凄い勢いで振り返り、アンを見下ろした。


「アンさん、あんたメイが来るの知っててあんなこと言ったんだろ」

「そうかもしれないね」

「いい加減止めてやれよ、あいつは充分苦しんでんだろ!」

「言ってることがよく分からないよ」

「おれはあいつの友達なんだ、あんたの当てつけに巻き込むな!」

「だったら、」


 激昂する男は落とした鞄を拾い上げ、少女と同じように校舎へ滑り込もうと走り出す。

 それを眺めながら、冷ややかな笑みを浮かべて告げた。


「だったら、メイから離れてあげてよ」

「なんでっ」

「自分を振った男がいつまでも傍に居れば、次の恋さえできないでしょう?ずるずると、いつまで引き摺るんだろうね。あの子は一途だから、そう簡単には忘れないよ?」

「っ」

「それとも抱き締めて慰めるの?ねぇ、それこそ酷い仕打ちだと思わない?」


 痛い所を突かれた男は、苦い顔になった。躊躇うように止まった足。けれど、次の瞬間には走り出す。

 ぽっかり開いた校舎への入り口、そこに足を踏み入れてから、ロウは振り向いた。


「それでもおれは追い掛けるよ。あいつの友だちだから」


 あんたはどうするんだ?

 それだけ言い、再び走り出す。上履きの鳴る音が次第に遠ざかっていった。



 走り去る足音が完全に聞こえなくなってから、メイは目を瞑る。

 空を仰げば、深い深い青が広がっているだろう。直視できそうにない。金網に手を添わせて、ずるずると座り込んだ。


「ほんと、馬鹿」


 誰にでも無く言った。持て余す感情を流そうにも、風さえ吹かない。

 置いてきぼりの屋上は、妙に静かでがらんとしていた。誰も見ていない。けれど、偽って浮かべた笑みを消すことが出来ない。



 明日、メイは自分を避けるだろうか。

 いや、きっと、いつも通り、昨日はごめんねなんて言いながら、へらへら笑うのだろう。


 そして私も、笑っているのだろう。

 自分が今まで騙してきた人たちに、今まで通り笑っているのだろう。


「ははっ」


 笑い声は乾いていた。

 瞬きをする。あの子のような涙は出ない。


「もう、私も帰ろっかな……」


 誰からの返事もなかった。








 いつからだろう。


 偽ることが、当たり前になったのは。

 世界が嫌いなものばかりになったのは。




 それは確かに、優しくなりたい、と。望んだ時からだった。




 なのに、どうして。

 優しくなりたいと願うほど、何かが捩れていく。




「好き」




 だから、優しくなりたいと思った筈なのに。




 ね。




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