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二人がここにいる秘密

作者: やまは

感想、誤字脱字指摘等ございましたら投稿していただくと作者とても喜びます!!!

 親友が死んだ。


 僕が勘違いしていたのは、人間の生死には必ず強い哲学的理由が必要だと当てもなく思い込んでいたことだ。紅いインクを垂らせば紙は紅く染まるように、頭上に投げ上げたボール球が必ず地面に戻ってくるように、人の体が高速の鉄の塊にぶつかれば、引き裂かれ、死ぬ。そこには何の思索もなく、何の逡巡もなく、ただただ、法則のみがある。

 尚樹の体は信号無視のスピード違反車の前に舞った。命は軽く、物理の法則は果てしなく重い。


 葬儀の日、僕は尚樹の両親の顔を見ることができなかった。ただ自分の中の果てしない悲しみに浸りたかった僕は、彼の肉親の慟哭という『不純物』を己の悲しみの理由の中に入れたくはなかったのだ。


 僕にとって、尚樹は、友情、親交、まさにそうしたものの象徴だった。他のどんな人間との交友を犠牲にしても、彼との友情を取り戻したい。そんな、今となっては幻想でしかない感情に、それでも僕はいつまでもいつまでも囚われ続けた。


 次第に僕は学校を休みがちになった。たとえそこに行ったとしても、僕はただ一人で屋上に上がり、グラウンドの、青春の炎をたった一つの小さな球を追うことに対して燃やし続ける人達を無機質な目で眺め続けるしかなかっただろう。ついこの前まで、僕もその人達の一員であったというのに。


 代わりに、僕には行く場所があった。


 青の海岸。そう命名したのは僕だろうか、尚樹のほうだっただろうか? 今となってははっきりと覚えてはいないが、ある程度自然のままに置かれているとは信じられないほどの美しい砂浜、その白さに見事なほどにコントラストをつくる、輝く青き海──そんな場所がずっと前から、僕と尚樹の大のお気に入りだったのだ。僕らの住んでいる町から電車で数駅分という近さも魅力的だった。その気になれば、自転車でも行けるほどの距離だった。

 僕が小学校の先生に叱られた日。尚樹が習字のコンテストで惜しくも佳作を逃した日。僕が初めてできた彼女に振られた日。僕達が同じ高校に合格した日。そんな、人にとっては些細な出来事と思えるような、人生の積み重なるイベントの一つが消化されるたびに、僕達はここで深い青に沈む夕日を見た。辺りが暗くなることを気にもせず、見続けた。


 そのまま、数ヶ月が経過した。


 その日、僕は学校に行くふりをして、あの海岸に向かった。家を出る時に母は何も言わなかった。鞄も持たない僕の行く先が学校でないことくらいは察していたのかもしれないが、それでも彼女は沈黙を守り、それが僕に対する愛情の表れであることを僕は知っていた……。


 朝の爽やかさがすっかり失せ、じりじりと砂浜を焼く六月の暑さが支配的になる昼前。木陰に設置されたベンチに座り、海を見る人は僕の他にもいた。彼らの目に、淀んだ瞳をはるか先のきらめきに向ける僕の姿はどう写ったのだろうか。

 結局こんな風に時間を過ごしても何一つ解決しやしない。就学前の子供でも分かるようなそんな原理原則を認めるには、あまりに僕の心は傷ついていた。先にいた人々が去り、正午を過ぎても、僕は海を眺めていた。


 しかし、屈折した心に対して、体は正直なものだ。初夏の焦らしが喉をカラカラにさせ、流石に僕の中で、水分を求める心が無為を求める心に打ち勝った。海岸を離れ、海沿いの街を歩いてゆく。普段は気にも留めていなかった色々な店があることに気づく。新しくできた釣りの専門店。コンビニの横にちんまりとあるお稲荷さん。うどん屋。

 その中で、老舗風のただずまいを持つ、ある街角の喫茶店に心が惹かれた。このお店なら、存分に喉を潤すことが出来るだろう。


「いらっしゃい」

 歳のほど三十後半くらいの女性の声が暖かく僕を出迎えた。

 長屋のような店の外見と調和する、純日本風の内装。今時珍しい和服の着物を身に着けた店員さんが僕を窓辺の席に導いてくれた。

 メニューを見ると、なかなかどうして和洋折衷の、美味を予感させるような数々の品目が並んでいる。

「キャラメルあんみつと抹茶カフェオレ、それに小倉バター餅を下さい」

 クーラーこそ入っていないが、なぜだか中は涼しい。今頃懸命に授業を受けているであろう同級生の顔を思い浮かべて、ちくりちくりと刺す罪悪感にうなだれながら、それでも僕は弾む心で料理の皿を待った。


「お待たせしました……」

 先程の女性と違う、僕と同じ年か少し年下くらいの小柄な可愛い女の子が、小さな両手でお盆を支えながらとてとて……と厨房から歩いてきた。薄桜色の着物がよく似合っている。

 少女がお盆からドリンクをテーブルに置いた。ふと顔を上げた僕の目と彼女の綺麗な目が合う。

 しばしの静寂。

 突如ひどく驚いたような顔を浮かべて、彼女が慌ててお盆を持って厨房に下がってしまった。

(……一体何が気になったのだろう……??)

 運ばれてきた甘味に舌鼓を打ちながらも、その奇妙な出来事は僕の心の一角を占め続けた。


「ごちそうさまです」

 会計の際に軽く会話を交わした、人の良さそうな中年女性に会釈をして店を出て、眩しい光の差し込む街道を歩み始めた僕は、ふと、タッタッタと軽快に僕を追いかける足音を聞いた。

 振り返ると、着物を風にはためかせ、あの少女が立っていた。

「拓斗……」

 彼女の口から出た思わぬ言葉に、僕の体が凝固する。

「拓斗……私……いや……俺……尚樹なんだよ……!」


 ベンチに二人、お互いに奇妙な感情を抱えながら僕と彩花──尚樹は横に座っていた。お互いの体の間に不自然なスペースを開けながら。

「一体どういうわけで、尚樹がその体に……?」

 思い切って一番聞きたかった言葉をまず質問してしまう。語尾が震えて上手く言えない。

 少しの沈黙のあと、尚樹である──彼女の自己申告が正しいとすればだが──少女はたどたどしく言葉を繋いだ。

「それはまず……わた……俺が……死んだときのことから話を始めなきゃならない……」

「死んだときの記憶はあるの?」

「それが、自分が自分だったという記憶まで、今さっきまですっぽりと抜け落ちていたんだ!

 私──彩花は数ヶ月に高熱で生死の境をさまよった。そして、目覚めた時、なぜだか違う男性の意識が自分の心に混ざったような違和感を覚えた。でも、それが誰で、なぜ自分の体にそんなことが起こったのかということは全然分からなかった……。自分と同じような世代の男の子だとは思っていたけど……」

「急に今日、自覚したってこと? どうして……」

「それは多分、今日まで彩花の意識のほうがずっと強かったからだと思う。でも……あの……た、拓斗に会って、私が──俺が、自分の中に『尚樹』がいることを自覚することができたのかな……」

「そっか。だからすぐに僕達の町に来られなかったんだ。でも、そんなことが、起こって良いものだろうか?」

「知らないよ!」

 突然強く尚樹が言い放った。

「でも、現実に、今俺達はここにいるんだから……。それに、『尚樹』が入ってきてくれたから、死の淵をさまよっていた『彩花』は元気を取り戻すことができたのかも知れないし!」

 二人の座る位置の間に開けられた空隙スペース。きっと『尚樹』はそれを詰めたがっている。でも、『彩花』がそれを拒否しているのだろうか?

 無理もない。僕と『彩花』は歳も違う、生まれた場所も全く異なる、要するに赤の他人だ。そんな二人が、初対面で距離を詰めて並んで座って海を見る。常識的に考えて有り得ない。

でも、一方で彼女は『尚樹』なのだ。この心の矛盾をどう解釈したらいいのだろうか。

 横の尚樹を見る。

 尚樹は同世代でトップに背が高かった。あの日、あいつが帰らない人になるときまで、僕は尚樹にいつも見下ろされていた。僕はそれが嫌いじゃなかった。体がただでかいだけでなく、心も広い良い奴だって知っていたからだ。

 それが、今の尚樹は僕よりもずっと小さい。横で何かいいたげに体をくねらせている『彼女』の体は、小さくて細くてか弱そうで、なんだかむずむずする。

 そうだ、今の尚樹は、尚樹であって、尚樹でない。僕は彼女にどう接したら良いのだろうか……。

「一つの体に二つの意識が混在するのって、変な感じじゃないの?」

 尚樹はぶんぶんと頭を振った。肩まで伸びた艶やかな黒髪が振れ、なんともいえない良い香りが僕の鼻をくすぐる。体の奥がもやもやする……。

「んーん。混在しているじゃなくて、尚樹の心がもう彩花の心と溶け合って、一つの魂になっちゃっているんじゃないかな。だから尚樹として拓斗と会話もできるし、彩花として拓斗に接することもできる。でも、私──俺は、しばらくは尚樹として拓斗と話していたい」

 『しばらくは』というのはどういうことなんだろう? いずれ、尚樹は尚樹として振る舞えなくなってしまうという示唆なのだろうか、と僕は悩む。この数ヶ月間、全く僕の生活は真空状態だったというのに、奇跡が起きて再び会えた親友がまた居なくなってしまうのは僕にとって耐え難いことだった。

「……ちょっと気持ちを整理したい」僕はゆっくりと立ち上がった。

 小鳥のように小首を傾げて尚樹が僕を見上げる。そんな仕草、男だったときには絶対にしなかったことなのに!

「また会いに来るよ」

 切望していた親友との再会を叶えたにしてはひどく消沈した声で、僕はそう言い放って帰路についた。


 あの子は本当に尚樹なんだろうか? いや、たとえ彼女の中に尚樹が居るとしても、僕は以前の関係を取り戻すことができるのだろうか……。懐疑と不安が入り混じり、昼下がりの誰もいない電車の中で、ゴトンゴトンという無機質な繰り返し音を耳に入れながら僕は外の煤けたビル群を見ていた。

 一方で、彼女の姿が僕の脳裏に焼き付いて離れない。喫茶店で少し曖昧な笑顔を浮かべて給仕している彼女の可愛らしさ。彼女が横を通ったときのかぐわしい香り。ベンチで座っている時に見えた、はだけた着物の前部から顔を出した彼女の小さな白い膝小僧。それらすべてが(仮に不本意なものであったとしても)僕にとってとても大切な思い出と化しており、彼女にまた会いたいと心の内で強く願っていることを僕は認めざるを得なかった。

 でも、それは『親友』に抱いていい感情と言えるか。絶対に言えない……!


 帰宅した僕を、学校から連絡を受けたであろう母がやっぱりと言ったふうな心配顔で見た。明日からはきっと学校に通うと、驚く母に僕はそう言い放って自室に入った。


 それから僕は毎週末のように尚樹に会いに行った。

砂浜を見たり、図書館で勉強をしたり、評判のラーメン屋に自電車を漕いで行ったり……。やっていることは以前と同じだけど、でも、どこか違う。僕も尚樹もそれを感じて、10の楽しさと1のもどかしさを抱えずにはいられなかった。

 二人の間の口調や掛け合いは変わらなくても、雰囲気や距離感の微妙な変化を感じずにはいられない。もちろん、あった当初の、尚樹の僕に対する行儀良さというか、堅苦しさ、どこか見知らぬ人への警戒心みたいなものは徐々に消え失せていった。しかし、それと同時に、何か甘えるような、熱っぽい視線で僕を見ることが多くなった気がする。


 ……ひょっとして、尚樹はこれを僕との『デート』として見なしているじゃなかろうか?


 以前の大柄で頼りになる尚樹像を抱いている僕はひどく困惑した。僕が望んでいた関係の再構築というのは決してそのようなものじゃない。そりゃ、確かに今の尚樹──彩花は恐ろしく可愛く、美少女と言ってもなんら語弊は生じない。彼女の綺麗さやあどけなさに、大いに惹かれる部分はあると自覚せざるを得ない。彼女がふと見せる横顔の頬の柔らかさ、待ち合わせ場所に手を振りながら走ってくるときの心のときめき、スカートから覗く肌のどきっとするような白さを感じるたびに、僕の心には喜びが溢れてしまう。

 でも、友情というのは、そのような動機によって為し得るものでは無いはずだ……!


 彼女《尚樹》のほうは、どう思っているのだろう?


 元の尚樹なら、そんなの気持ち悪いとケラケラと笑いながら一蹴しただろう。でも、彩花なら──? 彩花の中に残っていた尚樹の意識が、もしかして消えつつあるのか……?

 果たして、僕の目の前に居るのは『尚樹』なのか、『彩花』なのか……。


 次々と湧き出てくるそんな疑問を表に出すまいと努めながら、僕は彼女との交際を続けた。



 夏祭りの日。

 青の海岸が一番賑わう日。夕闇が静かに町に覆いかぶさると、どこから来たのか、たちまち沿岸沿いの県道に出店が立ち並び、普段は閑散としたその道に文字通り海のような人だかりが集まる。提灯飾りと照明に彩られた通りはまるで異界の入り口のようだ。


 待ち合わせ場所の駅前広場に約束時間の5分前に着くと、すでに外灯の下に尚樹が居た。涼し気な水色の浴衣を着て、華奢な体が良く映えている。時間にきっちりして必ず15分前には集合場所に居るのは時間にうるさい『尚樹』の頃のままだ。……もしかして、『彩花』も同じだったのかもしれないが。

「ごめん、待った?」

 そう言うと、文句も言わずにニコリと微笑んで、尚樹は浴衣を翻してくるりと一回転してみせた。

「んーん、全然」

 ニコリと微笑む尚樹の白い頬が、触りたくなるくらいに愛おしい。

 浴衣姿の尚樹に比べ、僕の方はシックな感じの落ち着いた格好で、なんだかアンバランスな気がする。こんなことなら僕も男用の着流しでも借りればよかったとふと後悔した。

 駅からもうすでに長蛇の列と化した人混みに身を委ね、僕と尚樹は並んで非日常の極みへと身を投じていった。


 夏祭りは数日間行われる。去年も、一昨年も、一度は尚樹や他の友だちと一緒に潮風と提灯の光の中をぶらついたものだが、今はそのときとは同じ気持ちにはなれない。横にいるのは確かに同じ尚樹だと言うのに。

 人熱れの暑さが体を火照らす。心臓の鼓動の早さも、その暑さのためだろうか? いや、同時に心に訪れる気持ちの高ぶりがそれを否定していた。


 十字路で人の流れが交差する場所まで来た。

 思わず僕は尚樹の袖を掴んだ。数ヶ月前のあの日のように、また彼女を見失いやしないかと不安でたまらなかったからだ。

 すると、袖を掴んでいる僕の手に、尚樹が小さな自分の手を重ねてきた。

 びっくりして彼女の方を向くと、やや恥ずかしそうにはにかみ、下を向く。それだけですべてを悟った僕は、袖から手を離し、尚樹の手を優しく握った。柔らかい感触と暖かな感覚が歓喜の波を心にもたらす……。

 祭りの喧騒も、道を照らす照明の眩しさも、その感情の前には静寂も同じだった。


 屋台からクレープとりんごあめ、それにドリンクを買い、祭りの会場から少し離れた、いつもの海岸に行く。賑やかな光は彼方に遠ざかり、薄い闇の中でぽつんぽつんと砂浜に人が腰掛けているだけだ。ハンカチを下に引き、僕と尚樹も腰を下ろした。

 ずざっ……ずざあ……と波の押し寄せる音が心を落ち着かせてくれた。

 小さな口で美味しそうにクレープを頬張る彼女の体は以前の『尚樹』とは比べるまでもなく少食で、むしろ僕の方がすぐにぺろりと平らげてしまった。

 二人の座る位置に、もう以前のような空隙スペースは消えている。ぴたりと寄り添う尚樹の小さな体が、僕に何かを言って欲しいとせがんでいるように感じた。


 落ち着いた心で、僕は肝心なことを聞く決心がついた。


「尚樹はさ……」

「ん?」

「僕との付き合いを、どう思っているんだ?」

 砂を洗い流す波の音が、夜風に紛れて少し小さく聞こえる。

「ふふっ。気になる?」

 いたずらっぽく笑いながら、ストローに入ったドリンクをちゅーっと吸う尚樹。潮風が長い黒髪を揺らし、さらりさらりと華麗に舞っている。最近とても好きになった光景の一つだった。

「冗談じゃないぞ?」軽く睨みつけるような姿勢をつくって、僕は話を続けた。

「彩花として生まれ変わって以来、僕達の間の関係も少しずつ以前に比べて変わってしまったのは感じているだろう?」

「うん!」

 元気よく即答した尚樹の声に僕は面食らった。

「うんって……」

「確かに私は男の子じゃないし、拓斗と『男の子同士のつるみ方』を完璧に再現することなんて出来ないよね。モット言えば、私の中には彩花と尚樹の二人がいるんだから、当然、拓斗の方も関わり方も工夫してくれないとね♪」

「それだよ!」

 僕は思わず立ち上がらんばかりに声を張り上げ勢い良く返答し、尚樹の苦笑を誘った。

「僕が心配なのは、君の中の『尚樹』が消えてしまわないかということ!」

「なーんだ! そんなことありえないって!」

「……どうしてそういい切れる?」

「じゃあ言うよ? カナヅチだった拓斗が初めて25Mを泳げたのは小2の頃で、溺れかけたのを心配されて泳ぎきったあとすぐに保健室に運ばれた! 尚樹だった私と拓斗は中学生の頃、ずる休みをして、どうしても行きたいバンドのライブに行ったことがある! 拓斗の初めての恋人の名前は……」

「分かった分かった!」

 とどまるところを知らない尚樹の弁を両手で遮りながらも、僕は一人胸をなでおろした。『尚樹』はまだちゃんとそこにいて、僕達の記憶を共有することができている。

「ね? 安心したでしょ?」

 横の少女《彩花》が肩を僕の腕にピッタリと密着させてきた。途端に全身の血液のめぐりがぎゅうんと早くなるのを感じる……。僕の顔を覗き込む可愛らしい瞳に、ある種の熱が篭っているのが分かる。

「でもね、だからと言って私が『彩花』であることも忘れないでね! 『彩花』はずっと、自分の気持を拓斗が認めてくれるのを待っていたんだけれど」

 僕の腕がひとりでに動いて、彩花の背中ごしにもう一つの肩を抱いていた。全く意識せずにそのように行動したことに、何よりも僕が一番驚いていた。

「わかってる。君は彩花で、女の子だよ。男のときのままの付き合いが続くなんて思ってもいない。それに、僕も君と……」

 彩花の顔が横を向く。呼応するかのように、僕の顔も同じ動作を示した。


 そして、僕は彩花にキスをした。


───────


 盛りの夏が終わり、少し涼しい風が残暑を宥める季節が来た。


 僕の方はというと、復帰してから相も変わらず勉強や部活に追われる毎日だった。ブランクがあるぶん、人一倍頑張らなきゃならないと自覚もしていた。それでも、彩花と会う時間は必ず週末に確保しようと心がけた。

 僕が海の町に行くだけでなく、彩花のほうが僕の町に来るようにもなった。彩花としてはある意味住み慣れた町なんだし、心地よさも感じられるのだろう。

 彼女が僕の家に来ることもあった。母には『僕の友達・・だ』とは伝えたが、まさか『尚樹だ』なんて言えやしない。それに『僕の彼女だ』というのも少し気恥ずかしい。

 母は彩花を見て、彩花も一方的な知人である母を見て、それぞれニヤニヤ笑っていたのは不思議な光景と言う他無かった。


 それでも、あの二人の思い出の海岸には足繁く行った。特に、夕闇に沈み込む頃の青の海岸の美しさは、他に代替物の無いものだった。

 僕とは違う高校の制服を身に着けた彩花が横で英単語帳を見ている。尚樹は学校でもトップクラスに賢く勉強熱心な生徒だったので、きっとその影響だろう。病気が治って学校に通いだしたら、彩花は成績が急に良くなったことで先生に驚かれたらしい。


 僕は尚樹との以前の友情をその形のまま取り戻すことはできなかった。しかし、それがどうしたというのだろう? 人の個性、性質、考え方は時間とともに刻一刻と変化をする。それに従う人と人との人間関係もまた然りだろう。たとえ同じ人同士でも、五年後に同じ関係性を保つことができるかなんてことは誰も保証することができない。

 ある人間関係が失われたからと言って、その代替物を探そうという方が誤りなのだろう。

 問題はそこに、人間同士の交流の暖かさがあるかどうか……だと僕は思う。うまくは言えないけど。


 僕はふと彩花の方に手を差し出す。彩花もそれに気づき、小さな手を重ねてきた。綺麗なピンク色の爪がとても可愛らしい。

 僕らは互いに、体温の暖かさを感じあっている。



 僕と彩花。

 生まれも育ちも学校もまるで違う二人が今ここにいる秘密は、僕達だけしか知らない。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 自分の中に混ざった存在の正体を自覚した直後の、尚樹の意識が優位に表れているようで、しかし個としての意識として長い間出ていなかったからか、混ざりあっているからか言語選択がモザイク状になるくら…
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