価値観と常識
人の心とは脆く弱いものです。大金を目にして心が揺らがないはずはない。といっても、この大金というのが曲者なのです。限度額というフィルターが個人で違うからなのです。目の前にその限度額ギリギリで出されると、人はたやすく落ちます。しかし、限度額を超えてしまうと恐怖のあまり手をつけません。
つまり、百万円を大金と感じる人とはした金と感じる人があるわけです。どちらも同じ百万です。金銭感覚の違いというのは、恐ろしいものです。ギャンブラーな夫に嫌気がさして刺殺してしまった妻。そんな話、ニュースの中でも巷でもゴロゴロしています。
これはそんなお金にまつわる話です。
ある男が百万円の入ったバッグを偶然拾いました。皆さんはどうします?交番に届けますか?
普通ならそうでしょう。といっても、今の世の中、普通という基準が崩壊していますから、アンケートをとったら、猫ババするのが多数派で普通なのかもしれません。
さて、この男の場合どうしたか。猫ババしました。別段、男は金に不自由はありません。ではどうして交番にとどけなかったのでしょう。
答えは簡単です。すべてのお金が自分の自由にできるものだと信じているからです。男は拾ったものを交番に届けるなどということを微塵も知らないまま育ったのです。ですから、自分のお金を他人のお金の区別ができませんでした。ですから、男は当然自分の物と考えたわけです。ショルダーバックは邪魔だし、趣味に合わないので、ゴミ箱にぽいっと捨てました。帯封のついた百万だけ自分の鞄に無造作に放り込んで。
さあ、悲劇の幕開けです。
彼が拾った百万は尋常なお金ではありませんでしたが、当然知る由もなく、彼はそのお金を持ってファミレスへ入りました。男にとって、そこは初めて入る店でした。無愛想なウェートレスがすぐに喫煙席か禁煙席か聞いたので、彼は喫煙席を選びました。平日の真昼間。びしっとした高そうなスーツを着た男が、ファミレスに何の用だったのでしょう。実は彼は初めて一人で行動しているのです。普段は秘書や執事など、世話係がすべて手配し、自分で何かをすることなどほとんどありませんでした。そんな彼が今日は、今日だけは一人にしてほしいと周りの人間に頭をさげたのです。理由は、恋人との些細な喧嘩でした。
「世間知らずのおぼっちゃまなんて、正直うんざりよ」
そう言われたのです。
彼はショックでした。はじめて自分から告白して付き合いはじめた女性だったので、なんでもかんでも買い与え、時には遊園地やプラネタリウム、映画館を丸ごと二人のために貸し切ったりしたのでした。そんなお金を湯水のように使う彼の常識のなさに(といっても、彼女の常識なのですが)ほとほと愛想をつかしたのでした。
彼は恋をする相手を間違えたのでしょう。お金の大好きな女性に、恋をしていたら、こんな悲劇にはならなかったのでしょう。
おっと、話がずれましたね。もとにもどしましょう。ええ、っと。つまり、彼は【世間】という彼女の常識を知るべく、一人街をさまようことにしたのでした。
そんなときに、お金を拾ったのです。当然、彼は側近の誰かが用意したお金だと思ったのでしょう。何せ現金を持ち歩いたことなどないのですから。そういう生活環境で育ったので、現金を使うのも初めてでした。ファミレスもはじめて。
ですから、彼は注文を取りに来たウェートレスの名札を見ました。このテーブルの担当者だと思ったのです。彼はいつものようにおすすめはと聞きました。ウェートレス(仮にKさんとしておきましょう)は、しばらく考えてすべておすすめですといいました。彼はそれを真に受けて、ではそれでといつものように答えました。Kさんは一瞬面食らいます。ファミレスというところの商品は単品からセットまで百近いメニューがあるのです。ですから、もちろん冗談だと思ったので、お好きなものをお選びくださいとメニューを提示しました。男は全部おすすめといっておきながら……と文句を言おうとしてやめました。もしかしたら【世間】というところでは、全部をすすめるのが常識なのかもしれないとそう思ったのです。男はとりあえず、選ぶことにしました。Kさんは決まり文句のように、決めたらボタンを押せといって去っていきました。示されたボタンを見た彼は変わった呼び鈴だなと、珍しそうにしげしげと見入っていました。
まあ、とりあえず、彼はお子様ランチを頼みました。というのも、どれもこれも食べたことのあるような食材や盛り付けだったのです。けれど、お子様ランチというのは、初めて見たのです。新幹線の形をとった器になにやらこまごまとのせられているのをみて、きっとこれが一番うまいにちがいないと確信したのです。そう、彼にとって珍しい物だったのです。ですが、本物のお子様ランチは写真のようなものではありませんでした。新幹線の器はわずかですが、色があせています。盛り付けも美しくありません。
彼はじっとお子様ランチをみて、ため息をつきました。世間というものは、偽物がまかり通るのだなと、だから彼女は本物ばかりの自分のプレゼントを喜ばなかったのだと結論にいたったのです。そう思うとなんとも馬鹿馬鹿しくなり、彼はテーブルに百万円をそのままおいて店を出ていきました。
そして通りですぐにタクシーを捕まえると家に帰りました。
さて、その後、彼に何がおきたでしょう。店員が百万の札束を見て、当然店長に知らせたでしょう。そして、あの彼を探すために警察に協力を願ったでしょう。そこまでは、だれでも想像のつくところかと思います。ただ、違ったのはそのお金にはいわくがあったのです。
その朝、とある地方銀行に強盗が入りました。一億円を奪って鮮やかに逃走といきたいところだったでしょうが、すったもんだで強盗犯はちりじりに逃げました。それぞれ持てるだけのお金をつかんで。
彼が拾ったのは、そのお金の一部でした。それも銀行側は一億といいましたが、実際に盗まれた金額は五百万でした。犯人は五人。
もう、お判りですね。
ちりじりになった強盗は五人。それぞれ百万ずつ持って逃げたのです。彼が拾ったセカンドバッグに入っていたのはまさしくその百万でした。
犯人は、捕まることが怖くなりました。そして、たかだか百万で人生を棒にふりたいともおもわなくなったのです。要するに、正気をとりもどしたわけです。だから、百万円の入ったバックを捨てていき、彼が拾うはめになったのでした。
そのために、彼は取り調べを受けました。彼のとりまきには有能な弁護士がついていましたから、事情聴取ということで、自宅で詳細をきかれたのです。当然、彼は正直に話しました。
さて、いったい誰が彼の言葉を信じたでしょう。
誰も信じません。弁護士すら信じませんでした。なぜなら、彼は今日、家令から側近から何から何までかまうな、一人にしろと命じていたのですから。
弁護士は思ったのです。窮屈な毎日に嫌気がさして、逸脱行為に走ったのだと。これが思春期の子供なら万引きだったのだろうと……。
結局どうなったのかですって?知りたいですか?もう想像はついていらっしゃるでしょう。当然、逮捕されて有罪になりました。
なぜか?
それは、彼が捨てたセカンドバックからは、彼の指紋と行員の指紋しか出てこなかったのです。他にも彼が履いていた靴は、ブランドもので限定品ブーツでした。防犯カメラにはその靴がはっきりと映っており、不運なことに、体系も彼そっくりの犯人だったのです。そして、彼は何度も同じ話をしているうちに、記憶があいまいになり、取り調べ中に何度も食い違うことを言ってしまいました。そう、彼は黙秘権を知らなかったのです。彼はただただ、無実だと経緯を話つづけて、自ら混乱に陥ったのでした。
弁護士はどうしたですって?
高給取りの弁護士が勝てない弁護などするはずがありません。何より、彼を信じていません。そして、彼は自分がいっていることが正しいと主張しつづける雇用主に対して、精神を病んだのだと勝手に思ったのです。ですから、簡単に契約を破棄しました。違約金として百万円を払って……。
ねぇ、皆さんはお金の価値についてどう思います。自分の知っていることが常識だなんておもっていませんか。ならば、どうぞ気を付けてくださいね。
この世に常識など、もう存在しないのですから……。
【終わり】